この連載は、『声 千年先まで届くほどに』(ぷねうま舎)にまとめられました。


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 ミナマタからハンセンへ ~語りえぬ命の記憶のために~  

 <熊本日日新聞 2013年4月21日~6月23日 毎日曜日掲載(全10回)>

1.巡礼

 

 あまりの痛みにただうずくまるばかりの命の記憶は、語りえぬまま心の底に降り積んで、やがて石になるのだろう。沈黙の石は、問いを孕み、雨に打たれ、風に吹かれ、陽に照らされ、十年、百年、千年、語られるべき物語へといつか生まれ変わるのだろう。でも、時を越えて届けられたその物語を人間は受け取ることができるのだろうか、受け取りそこねた物語の石がうず高く積まれては崩れて落ちて砕けて散る瓦礫の荒野が、いつもいつまでも私たちの前には広がるばかりなのではなかろうか……。

 そんなことを、この世の渚のまだ石になって間もないなまなましい沈黙の群れの真っ只中で思っていたのです。

私は巡礼。一月半ばの水俣、水銀ヘドロ埋め立て地には冷たい風が吹いていました。この渚に息づいていたすべての命を襲った近代の惨禍の傷跡を覆い隠したその場所には、魂石と呼ばれる野仏たちがそこかしこに。海に向かって恵比寿さん、大きな地蔵、小さな地蔵、カッと目を見開く不動明王、トトロらしきものもある。ひとつひとつ挨拶して、数えて歩いて、たぶん五十五体。それは、この埋め立て地を祈りともやいの場にしようと願う人々が、みずからの手で彫った野仏なのでした。

 しかし、いまなお疼く傷跡を足下に感じて、人肌の手触りを残す沈黙の石たちに取り囲まれて、私はどうにもいたたまれない。野仏の彫り手のひとり、忘れがたいあの人の言葉を想い起こさずにはいられない。

 「チッソは私であった」

 かつて、その人は、水俣病を病んで、戦うべき敵を探し求めて、答えのない問いに狂って、その末にこの恐ろしい言葉を発したといいます。近代という仕組みの中にある者は誰も、命のつながりを断ちきり、命の記憶を封じて生きている。そんな逃げ場のない荒涼とした気づきがそこにはあり、次々突きつけられる困難な問いがある。

 命のつながりも記憶もチリヂリバラバラにして、欲望でつなぎなおしたのがこの人間の世ではないのか? 欲望が吐き出す毒で描かれた偽りのバラ色の世界が、この近代という世界ではないのか? さあ、ここからどうやって脱け出る? どうやって命とつながりなおす? どうやってこの世にふたたび命の息吹を吹き込む?

 ミナマタ、この世の果ての渚。そこに行きついてしまった私たちは、もはやこの問いを生き抜くほかない地点に立たされているのでしょう。でも、なお恐ろしいことに、この困難な問いのさらに奥底に押し込まれている問いがあるのです。

 渚に立って、耳を澄ませて。ほら、聞こえるでしょうか。「チッソは私である世界」を創りだすために、離れ小島にその命を封じ込められた人々の声が。「チッソは私であった」とはけっして言えぬ人々が、あの閉ざされたハンセン病の島から、人間が人間であり命が命であるために、「命の証」を問いつづけてきたあの声が……。

 この問いを聞き逃がしてしまえば、きっと、この世の果ての渚で沈黙するあの石たちも、そこに孕まれた問いも、私たちも、いつまでも瓦礫の荒野にのまれてゆくだけ。

 だから、私は問いの巡礼となって歩きはじめたのです。語りえぬ記憶のために、ミナマタからハンセンへ、問いの深みへと。

 

 

 2.徳松さんはどこに行った?

 

 まだ戦争が始まる前、チッソの工場からの残滓やら人間の出すごゴミ芥やらで埋められてしまう前の、水俣の八幡さまの松並木の渚では、「癩病さん」たちが寒行のみそぎをしていたのだそうです。

 それは、石牟礼道子さんの幼い頃の想い出の中の光景で、真冬の、深夜の、満潮時に、白装束を着けた癩病さんたちが海に浸かり、「南無八幡大菩薩さま、八百よろずの神々さま、八万八千八百の眷族さま方……」と土俗の神々を呼び出して、合掌して、祈願の声明で夜の闇を震わせていた。

 もともとが八幡さまの渚は狐や蟹や河童の眷族といった魑魅魍魎や小さき神々の棲家で、そこで癩病さんたちが必死のみそぎをやるならば、そのものどもも寄り集まって祈りに耳を傾ける。渚の周囲の村人たちも、敬虔で厳かな心持ちで闇夜の癩病さんたちの祈りの声を聞いていたのだといいます。

 その渚が埋め立てられてしまえば、魑魅魍魎も神々も姿を消して、癩病さんたちもいずこかへ……。あの人たち、どこに行ったんでしょう? ええ、消えていったものたちの行方ばかりが、私には気になるのです。

 そして、これもまた、石牟礼さんから聞いた話。

 石牟礼さんがまだ少女の頃、村のはずれのまごめの迫に徳松さん一家が住んでいた。徳松さんはハンセン病を病んでいて、手は親指を残すのみで、すりこぎの棒のようになっている。歪んでしまった口からは涎が流れ落ちるので、手ぬぐいを口のはしにキュッとくわえて、頭のほうにグルリまわしている。

 つつしみのある人だったのそうです、徳松さんは。村人は徳松さんのことをいたましいと思いはしても、のけ者にはしない。村総出の田植えには、手が不自由な徳松さんは当然加勢できない。それを徳松さんはすまながっていて、そんな徳松さんを村人たちは田植えのあとのお御馳走に招待する。おこわとか煮しめとかを竹の皮で包んで、親指にひもでくくりつけてやって、お土産に持たせる。

 その徳松さん一家が、ある日忽然と消えたのです。警察が来てどこぞに連れて行ったらしい。家のなかは白い消毒粉。村人たちは家を覗き込んでは、「帰ってきなはらんなぁ」と言い合い、「行かんと言って柱にすがって泣きなはったげな」と語り合い、熊本の第六師団に入営した息子に面会に行くついでに本妙寺に参る者があれば、 徳松さんへの言伝を頼んだ。そう、本妙寺参道脇には「癩病さん」たちや貧しき人々が暮らす集落がありました。村人たちはそこに徳松さんがいると信じたかった。 でも、近代日本はまったく違う心情のなかにあったのです。

 「らい部落並びに西洋人経営のらい病院が今なお存することは日本の国辱」(九州療養所長宮崎松記メモ。昭和一六年)

 民族浄化のために高らかにらい根絶が叫ばれるなか、警官隊が出動、本妙寺集落の人々をまるで妖怪を狩るかのように、有無を言わさず、療養所へと強制収容したのが一九四〇年、日本の輝く皇紀二六〇〇年のことでした。

 しかし気になるのは、徳松さんの行方。療養所とは名ばかりの、縁も絆も断ち切る場所に送られた人間の、命の行方は誰も知りません。

 

 

 3.もう滅びるているのではないだろうか?

 

 その声を最初に聞いたのは、もう二十五年も前のこと。日本はバブルの真っ只中で、ほとんどの人が滅びの予感など持たなかったその時に、

「滅びろ、滅びろ、人間は滅びろ、ほかのすべての命のために」

 ミナマタの渚からのその声は、揺るがぬお告げのように、私の耳を打ったのでした。

 その頃はまだ二十代で、なんとなく前途洋々な気分だった私は、確かにそうかもしれないけれど、そう言われてもなぁ……、と素直に困惑した。でも、今は、とりわけ三・一一を経た今では、実のところ、もう滅びているんじゃないか、人間は。そんな気がするんです。それも、つい最近滅びたわけではなく、私の生まれるずっと前から、既に滅びている。

 私は「廃墟」の子である。これは、今の私にとっては、きわめて切実な感覚です。大事なことの多くは見えないところに潜んでいる、もしくは隠されている。これもまた切実な感覚。フクシマの渚を訪れて以来、ますます切実な感覚なのです。

 三・一一から一年の後に、福島の立入禁止二〇キロ圏内の封鎖線まで行ってきました。南北分断三八度線のように、越えることのできない封鎖線を、踏み越えてやろうと。(興味深いことに、福島原発も新潟の柏崎原発も三七度二五分線上にある)。そして、もちろん三八度線は朝鮮半島だけを分断しているのではなく、日本もまたひそかに分断されている。(明治維新以来の東北蔑視の言葉「白河以北一山百文」の白河も三八度線界隈)。

 列島でも半島でも三八度線以北は、今も昔も冷害あり旱魃あり飢饉あり、人が生きるには厳しい場所でした。かつて、明治の大津波の時に東京から救援に入った者は、「東北では言葉は通じないし、不潔だし、まるで朝鮮のようだ」と語ったという。明治以降、日本の中心に労働力を送り、女性を送り、米を送り、石炭を送り、電気を送り、工業製品の部品を送り……、ただただ送るばかりの東北は、そうか、植民地だったんだなぁ、そんな呟きが三・一一後の東北では切なくこぼれ落ちた。

 ガイガーカウンターを手に漂い歩いたフクシマの渚で、私はミナマタの渚に想いを馳せました。戦前、チッソは、水俣から朝鮮半島の三八度線以北の興南へと大日本の新興財閥として雄飛して、(貧しい朝鮮の漁村を力ずくで工業用地に変えて)、世界に誇る大化学コンビナートを創りあげた。(朝鮮窒素は皇国臣民が食う米を増産するための化学肥料を作り、戦う皇軍のための火薬も作った)。植民地でのその経験が、日本の戦後復興を担う化学工業に注ぎこまれ、電気を大いに喰う化学工業のためには次々と水力発電、原子力発電……。

 戦後、大日本の米倉だった植民地朝鮮が失われると、その役割は東北に振られた。お国のためと、植民地での傍若無人な工場経営の流儀もそのまま戦後に活かされて、近代を貫いて、朝鮮―ミナマタ―東北、ほら、目には見えぬ一本の線が浮かび上がってくる、目に見えぬ廃墟が姿を現してくる、そしてそこにはハンセン病もまた……と書いたところで紙数が尽きました。この話、次回につづく。

  

 

4. ふたたび、徳松さんはどこへ行ったのか?

 

 さて、「植民地朝鮮」と言い、「ハンセン病」と言えば、村松武司という詩人を思い出さずにはいられません。植民地朝鮮で生まれ育った彼は、戦後、一九六〇年代に、ハンセン病療養所栗生楽泉園で詩の指導をした。彼は自身のことを羞恥の念とともに「非ライ」と呼び、療養所の「ライ」の詩人たちに強烈な印象を残した。

 村松にとっての「非ライ」とは、同時に「非朝鮮」を意味してもいました。日本人が近代化の過程で不浄なるものとして消し去ろうとしたもの、それこそが「ライ」であり「朝鮮」なるものなのだと、村松武司は一日本人としてどうしようもなく恥じ入ったのです。

 ライ=朝鮮=植民地。さらに戦前から戦後へと、植民地朝鮮を国内植民地へと橋渡ししてゆく近代という仕組みの一つの現われとしての「ミナマタ」があります。それは、「ライ」に象徴される「滅び」や「死」といった「不浄」を切り捨てて、忘れて、なかったことにしようとする仕組みでもある。確かにそこに在るものを見えない領域に押しやり、目には見えぬ廃墟を創りだすことで成り立つ仕組みでもある。それを私は「ミナマタ」と呼びます。

 滅びも死も生身の人間にとっては逃れようのない運命。その運命を乗り越えるべく、永遠に滅びない普遍的な仕組みを人間は生み出そうとしてきた。人類の英知。近代の論理。文明の行きつくところ。ミナマタ。

 人間がその永遠なる仕組みにのまれて溶かし込まれた結果が、水俣の渚から発せられたあの叫び、「チッソは私であった」という言葉なのだと私は思っています。仕組みに溶け込んだ人間は、見事なほどに顔を失くす。同じ顔になる。そして、ためらうことなく死の匂い、滅びの予感を消去しようとする。太古より「生きながらの死」として忌み嫌われた「ライ」を、近代日本がそれを病む人間もろとも根絶しようとしたように……。

 猥雑であること、理屈を越えたこと、死や滅びの予感を漂わせるもの、そういったすべてを浄化しようという衝動を内蔵した仕組み。そこには、日々移ろう命を生きる人間のなまなましい生理にはけっしてそぐわない、不動で透明の近代の論理があります。近代を思うとき、私は、世界のざわめきすべてが音楽なのだと語った音楽家ジョン・ケージのこの言葉をつくづくと想い起こします。

 「論理にとっては不幸なことですが、<論理>という項目のもとに私達が構築しているすべてのことは、出来事や実際に起きることに比べて非常に単純化されたことを表しているので、むしろ私達はそれから身を守ることを学ばなければならない」

 おそらく私達は、近代の論理から身を守ることに、はなから失敗した。無防備にのみこまれてしまった。論理としての仕組みは滅びを知らないけれども、生身の人間は必ず滅ぶ。そのことを無邪気に忘れて手放しで喜んで迎えた「近代」とは、実は、そのはじまりにおいて既に人間にとっては「廃墟」。私にはそう思われてならないのです。

 そして、いま一度の問い。あの水俣の渚の「癩病さん」たちはどこに消えたのでしょう? 徳松さんはどこへ? 彼らはどうして消えねばならなかったのでしょうか?

 

 

5.おまえは恥ずかしくないのか?

 

 そのとき、私は、この身の内の芯のところからふつふつと湧く羞恥の念に、どうにもいたたまれぬ心持ちになっていました。

 二〇一二年十一月五日。皇居にもほど近い東京・北の丸。決起集会。そこでは、全国から駆け付けたおよそ四八〇人ほどの人々を前にして、三名の年老いたハンセン病回復者が、国家に突きつける最後通牒としてのハンストの決意を語っていた。

 振り返れば、「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟において国に全面勝訴したのが二〇〇一年のこと。つまり、そのとき初めてハンセン病回復者は日本国憲法の内側の存在であり国民であると認められたのです。それは同時に、人間であることを国家に認めさせることでもありました。そして、そうなった以上、当然に人間として遇されるはずと彼らは信じた。

 ところが国家という仕組みは死を知らぬから、裁判で明らかにされた「人間であることを踏みにじってきた責任」も、悠長に百年五百年千年かけて果たすつもりのようなのです。そんなことをされたら、生身の人間のほうはたまらない。一年二年待つうちに、三年四年つぎつぎ斃れて、五年十年いつまで待てばよいのか、このまま踏みにじられたまま、やがて最後のひとりも斃れてゆくのか……。

 ――なるほど、裁判に勝っても、人間に戻れるわけではなかったのだな、人間に戻るには、国家よりも長い命を持たねばならないのだな、国家を越えて生きねばならないのだな、しかしいったいどうやって……。

 そんな問いにたどりつくほかなかった年月があり、それでも息絶える前に国家に責任を果たさせようと、年老いたハンセン病回復者が壇上に立つ。人間らしく、命をかけて、ハンストも辞さないその決意を語る。そして、その場に居合わせた私は、

 恥ずかしくないか? おまえは恥ずかしくないのか?

 とてつもない羞恥の念に襲われているのです。なにより、彼らを囲いの中に追いやることで成り立っていた「美しい国」に生きる者すべてが、人間であること国民であること近代そのものを芯から問い直すことなくして、どうして彼らの問いを芯から受けとめることができる? 彼らの問いは、そもそもわれらの問いではないのか? なぜ彼らだけに命がけで人間であることを問わせつづける? 

 問いは恥にまみれて、だからこそ、この問いをけっして手放さぬよう、さらに私は問う。

 彼らの問いが国家も近代も理屈も越えて生きつづけるには、百年五百年千年先まで届くには、何が必要? そのためには何が……?

 実を言えば、この夜の決起集会の場で、もう一つ、われらの明日を予感させるような不吉な話を私は聞いています。詩が消えようとしているというのです。人間であることの問いも願いも文学に託して、「最後の癩の詩 つよかれ」とハンセン病の島で歌いつづけてきた詩人の声が失われようとしている、国家の論理との闘いのなかで言葉がみるみるすりへっていると……。

 詩が失われたなら、人間は本当におしまい。詩だけが、文学こそが、人間であることの問いを千年先まで運ぶのだから。

 そう信じる私は、もう居ても立ってもいられない。最後の癩の詩人たちのもとへと駆けだします。めざすは草津、栗生楽泉園。

 

 

6.最後の癩の詩は聴こえるか?

 

 雪に埋もれた草津・栗生楽泉園では入口から点々と、重監房跡の前に一つ、公園前に一つ、分かれ道に一つ、いたるところに盲導鈴。人が通るとセンサーが働いてスピーカーから、思わず口ずさんでしまうこんなメロディ、“おてて、つないで、のみちをゆけば~”、流れ出す童謡の調べがそこがどこなのかを教える立派な機械仕掛けなのです。

 その機械仕掛けの一つ一つに「最後の癩の詩人」たちが詠った俳句や短歌が添えられている。彼ら「最後の癩の詩人」たちの多くは盲人です。なのに、ありありと世界を眺めわたして歌っている、その不思議……。

 さあ、彼らの声なき歌声に耳を澄ませて、私は詩の巡礼になる。

<重監房跡前盲導鈴>

風上の 彼方はるけき越の山 眼裏に清く銀嶺は顕つ」。沢田五郎。

今は亡き五郎さんの見えない目の広大な眼裏(まなうら)には、山脈も銀河も宿っていた。

<給食棟前>

「久々に点字の手紙読み終えて舌先に少しほてりを覚ゆ」。

盲目の夏日さんは、後遺症で指先の感覚も失っていたから、かつては舌でむさぼるように点字を読んだ。舌で目には見えぬ世界へと旅をした。柔らかな舌先からは血が流れた。言葉とは、血にまみれて体で感じとるもの、血にまみれて吐き出すもの。

<藤の湯前>

除夜の湯に肌触れ合へり生くるべし」。村越化石。

 この句が詠まれたのは昭和二六年。そのとき、既に、化石さんには「最後の癩者」として詠う覚悟があった。「寒餅や最後の癩の詩つよかれ」。これは昭和三一年の作。「化石」という俳号は、「土に埋もれ石に化したわが身」を表している。そう、ここにあるのは、石の詩。栗生楽泉園というハンセン病の島で、私は石たちの声に耳を澄ませて呼ばれて歩いているのです。

 三十年ほども前のこと、この地は石たちが歌いざわめく詩の都でした。

 そもそものはじまりは、おかみの思し召し。閉ざされて死んだように生きるには慰めも要るだろう、心の慰め、詩でも書かせてみるか、と。この島こそが癩者の楽園と高らかに謳えとの、おかみからの無言の教えもありました。

 しかし、まあ、なんと合理的で、近代的で、ちっぽけな「詩」の活用法であることか。心の底の語りえぬことまでをも歌おうと身悶えて、言葉になどなりようもない声をこの世に送り届けようとじたばたして、時には世界を書き換えてしまう力さえ持つのが詩であるのに、それを目先の現世利益の目的や理屈に収めて手っ取り早く活用してやろうなんて、いかにも小賢しい。

 そんな小賢しさに到底収まりようのない思いを抱えこんだとき、人は石になる。石になったままでは生きた甲斐も死んだ甲斐もないから、ついにこらえきれずに声を漏らす。声は言葉を求めて、やがて他のなにものにも代えがたい詩になる。最後の癩の詩とは、そういう詩。最後の癩の詩人とは、小賢しい思惑からはみ出るほかなかった人間たちのこと。楽泉園とは、そんな詩人たちの都。

 私は、最後の癩の詩の今ではかすかな声をたよりに、詩の都をゆく。最初の人間の詩に耳を澄ます。最後の癩の歌を消えゆくままに受け取り損ねたなら、きっと、最初の人間の詩もまた生まれ損ねて消えてゆくのです。

 

 

7.尊者とは誰なのか?

 

 句会をしませんか? 

 と、初対面の俳人村越化石にいきなり提案したのは私です。私には俳句の嗜みはありません。なのに、療養所の白い病棟で、白いシーツに包まれ、白い肌、白い沈黙、まるで白い石のようにベッドに横たわる盲目の化石さんを前にしたときに、無謀な誘いの言葉が思わずぽろり。

 その瞬間、石が動いた。

 うん、いいよ、いますぐだ、いますぐやろう!  体ごと煌々と輝きだすような勢いで化石さんが答えたのです。

 えっ、いますぐ?  慌てました。思いもよらぬことでした。

 化石さんは、介護の手の不足という理由で、俳句とともにあった暮らしの場から引きはがされ、病棟に移され、気力も萎えて、ついには危篤になった。ようやく蘇えったと思ったら、舌がまわらない。言葉は喉元でごうごうと渦巻くばかり。そう聞いていたのに、句会と聞いて、力強く、「いますぐだ!」。

 一日の猶予をいただきました。「年新た」という季題もいただいた。その夜はしんしんと雪が降った。真っ白な闇。無謀な句会参加者はそれぞれに呻吟、苦吟、朝まで唸りつづけた……。
 名付けて「化石句会」。参加者は、私の他には以下のとおり。

 谺雄二(療養所の詩人。八二歳。)。龍太(亡父が化石さんと同じ大野林火の門下。亡父に代わって初めて化石さんを訪ねた)。みなが俳句の素人です。だから、真昼間の病室で、句の披露の順番を譲り合った末に、うーん、私からかぁ……。

 「年新た石うたい山のこだまする」(姜)。ああ、と軽く化石さん。化石さんと谺さんへのご挨拶の句ですと私が言えば、詩人谺さんが、では私もと、「年新たまた友が逝く闇につ」、療養所の今を詠む。さらに化石句会に寄せる思いを詠む。「交わす手もに年新た」。

 次は龍太。「年新た亡父とともに栗生参り」。化石さんが龍太の亡父を想い起こして、ああ、ああ、と体の芯から声をあげる。これまでのところ、いかがですか、と谺さんが問う。ふうううむ、と化石さんが不満げに小さく唸る。みな笑う、大いに笑う。つづいて、雪の朝、楽泉園にてと、「深々と雪踏む命の音を聞く」(姜)。これは化石流の一句だなと谺さん。「湯の香り抱きて眠る雪月夜」(龍太)。うむ。化石さんがうなずく。白い石に柔らかな笑み。こうして素人俳句をさんざん聞かされたその最後に、俳人村越化石がおもむろにこんな句を詠んだのです。

 「尊者の語この身にさずかって年新た」

 尊者って誰? 谺さんが問う。みんなのことだ。化石さんが答えた。(いま、この場で、私は尊い者たちの言葉を受け取ったのだ)。柔らかな白い石のひそやかな呟き。思わぬ言葉でした。なにかとても大切なものを不意に授かったようでありました。忘れてもならぬ、言葉にならぬ、それでも語らねばならぬ大切な何かを確かに授かった……。

 実を言えば、もう一つ、驚いたことが。この句会で、俳人化石と詩人谺雄二は二十数年ぶりに素知らぬ顔で和解していたのです。聞けば、楽泉園が詩に溢れていた頃、二人は文学をめぐって衝突、以来ずっと断絶していた。

 あの頃、詩の都では、詩人たちの言葉は命がけ。なかでも、谺雄二は、この世を追われた鬼どもの唄を詠う命がけの鬼でした。 

 

 

8.記憶はいかにして言葉を探すのか?

 

 人を生きたまま人でなくするにはどうしたらよいか?

 「ばっさりと、この世とはけっして行き来もならぬ絶対隔離の囲いの内に三年間、閉じ込めておけばよい」。

 これは、この世の外に<癩者の楽園>を創ると高らかに唱えた者が、<癩者>への愛を込めて声を潜めて語ったという、穏やかならぬ言い伝え。閉じ込めて三年も経てば、親子の縁も友との絆も絶えて、この世の記憶のよすがも消える。この世の名前は捨てて、この世のことは忘れて諦めて、この世の外に楽園を見いだすこと。それこそがこの世では生きがたい<癩者>の幸福なのであると、楽園の傲慢な創造主は語ったといいます。

 そう、すべての縁を断たれたならば、人間は石にもなる、鬼にもなる。でも、石になろうと、鬼になろうと、その身にどくどくと赤い血が脈打つかぎりは、疼いてやまぬ記憶が消えてなくなることはない。記憶は、疼きから放たれようと、言葉を探す。放たれて、ふたたびつながり直し、ふたたび人間となって生きなおす言葉を探すのです。

 草津、栗生楽泉園に一匹の鬼がいます。名はコダマ。詩を書き、歌う鬼。かつて数多くの鬼たちの声や言葉に満ちていた詩の都、楽泉園の、今では最後の鬼。その疼く記憶に私は触れてしまって、私まで芯までじんじんとしてきて、そのじんじんをどうやって言葉にして放てばいいものやら、鬼と問いを投げ合い、もがくうちに、私はどうやら最後の鬼の虜になってしまったようなのでした。

 遠い歌声を聞きました。鬼の疼く記憶の奥底に流れるひそかな歌。鬼のコダマがまだ鬼になる前の遥かな思い出。

 “母の云うのをよくもきけ/そちを生みなすこの母が/にんげんかえと思うかえ/まことは信太にすみかなす/春乱菊の花を迷わする/千年近き狐ぞえ”

 あの頃、コダマが生まれ育った戦前の東京の下町には、盲目の旅の瞽女が門付にやってきたのだそうです。コダマの母は瞽女歌が好きだった。母は瞽女を厚くもてなして、瞽女が三味線をかき鳴らして歌う「葛の葉の子別れ」の悲しき物語に聞き入った。

 “母は信太へ帰るぞえ/母は信太へ帰るぞえ”

 信太の森は狐の森、若き武人に助けられた信太の狐は人間の娘に変化して、命の恩人と契りを結び、子をなしました。ところが、ある時、ふとした拍子に、ほんの一瞬、五つになった子の前で狐の正体があらわになって、もはや人に交わり暮らすことは叶わない……。

 “母は信太の暮れ狐/身のやりどこもないわいな”

その物語を聞いて涙するコダマの母は、十番目の子のコダマが生まれてすぐにハンセン病を発病している。療養所には行かせまいとするコダマの父の必死の思いに守られて、母は自宅で床に臥せって、でも、病を伝染すことを恐れて、幼いコダマを遠ざけた。

 今は年老いた鬼のコダマが言います。「私は七つの歳に初めて母に抱きしめられました。母は涙を流して私を抱きしめた。そのとき私もまた母と同じ病とわかったから」。

 母と漂泊の瞽女とその歌声と。遠い昔の疼く記憶は、生きなおす言葉を探しつづける鬼の遥かな道のりにそっと寄り添う温もりでもあるようなのでした。

 

 

9.人はいかにしてつながるのか?

 

 昭和の初め、鬼のコダマが幼かった頃、おそらく越後あたりから東京下町まで流れてきた漂泊の瞽女たちが、コダマの生家の門口で歌い語ったという「葛の葉子別れ」。それは、もとをたどれば、遠い昔に、生きがたき世を生きる庶民の思いと祈りを込めて語り出され説経節、そのうちの一つ、「信太妻」に行きあたると言われています。「信太妻」は、浄瑠璃、歌舞伎、瞽女歌と縦横に語り継がれて、生き物のようにその時々の心模様で形も変えて、五百年、千年、時を越えて送り届けられてきた。

 物語をたずさえて、村と村、人と人、声と声、道と道を結び、百年、五百年、千年と時を結んで、漂泊の旅を生きた者たちがいます。彼ら<芸能者>は、たとえば寺院の軒下をねぐらに、<癩者>の傍らに身を置いて、旅を生きた。<芸能者>も<癩者>も、この世とあの世の結び目、生と死のあわいに生きる者たちでした。(ちなみに説経節では、大阪・四天王寺が要の場所、その西門は極楽の東門でもあり、西門の外のこの世とあの世の境目の場所を漂泊の<芸能者>や<癩者>は棲み処とした)。

生と死のあわい。言葉にならぬ声、切なる祈りが渦巻くこの場所から、物語が生まれでること、この世の者たちの声と祈りにじっと耳を傾けて、物語に息を吹き込みながら道行く者たちがいること、そんな者たちこそを慈しむべきことを、地を這うように生きる者たちはよく知っていた。

 ほら、戦前に高田瞽女が物語をたずさえて巡り歩いた土地では、こんな声が……。

「おらの子どもの頃は瞽女さにやる米を作る田んぼだから、一生懸命作れば身体が丈夫になるって手伝わされたもんだよ」。

 道行く「彼ら」が歌い語る物語は、名もなき「われら」庶民の物語、地べたに生きる「われら」の生に命を吹き込む物語なのだと、これもまた五百年、千年前からのひそかな言い伝え。

 そして、鬼のコダマとその母の話です。

 鬼のコダマの一族親類縁者のうちで、最初にハンセン病を病んだのはコダマの母でした。十番目の子であるコダマを産み落とした直後に発病した。

 発病から七年後、コダマが発病したときに、母はおのれを責めて自殺を図ったのだそうです。どうしてこの病にかかったのかしらねぇ、と死にきれなかった母はコダマにのちのち語ったのだそうです。巡礼さんたちのなかにこの病気の人がいたのかもしれないねぇ、と穏やかに。

 かつて、瞽女だけでなく、放浪の巡礼さんたちも東京の下町にやってきた。彼らは門口に立って御詠歌を歌い、ちんちんかん、鈴を鳴らした。すると、コダマの母は、さあさあさあ、埃まみれボロボロの巡礼さんたちを家にあげ、風呂に入れて食べさせて送り出した。子だくさんの大家族、かつかつの暮らし、それでも巡礼さんを手厚くもてなす。彼らが背負って旅して生きているものに想いを馳せる。彼らがもたらす禍福のすべてを受け入れる。そうして通い合い結び合ってこその人の世、それは小賢しい理屈以前のことなのだと、コダマの母は無条件に知っていた。病をもたらしたのであろう彼らをけっして恨まなかった。

「私はそんな母の子どもなのです」。

 揺るぎない声で鬼のコダマは私にそう言ったのでした。

 

 

 10.おまえは言葉を受け取ったか?

 

 さて、あらためて、最後の鬼、コダマのこと。その名は(こだま)雄二。ただし、これは、この世に誕生した時に親がつけた名ではありません。ハンセン病療養所でのいわゆる園名でもない。

 コダマの父は、自分が与えた名を捨てることを絶対に許しませんでした。たとえ、それがおかみの思し召しだろうと、絶対隔離の療養所という仕組みを創った者たちの慈悲の表現だろうと、一切お構いなし、この世との縁を断つことをけっして許さなかった。そもそも自宅療養ではどうにもならぬギリギリまで、父はコダマも母も手放そうとしなかったし、かかりつけの医師にも近所の人々にも通報などさせなかった。それだけの関係を町の人々との間に作っていた。

 ついにコダマと母が療養所に入ったなら、家族が入れかわり立ちかわり、お弁当を持って、遠足のように、毎週面会にやってくる。縁は断たない、断たせないぞ、コダマの家族の静かな闘い。

 なのに、当のコダマ自身が、知らず知らず闘いに敗北していたという不覚。痛恨の出来事があったのです。

 コダマにつづいて、四歳年長のコダマのすぐ上の兄も発病して、療養所に入所していました。その兄が看護師と恋に落ちた。二人はひそかに礼拝堂で会っては愛を育み、ついに兄は困難を承知で、彼女と結婚したいんだとコダマに打ち明けた。そのときコダマ15歳、兄19歳。コダマは兄にこう言った。「その結婚は互いに不幸にしかならない。意味がない」。

 兄は恋を諦めました。生きることも諦めてしまったようでした。無理を重ねて、身を痛めつけて、ほとんど自死に近い形で死んでいった。

 コダマは思うのです。自分は15歳にして既に現実に飼いならされて、すっかり年老いて、無残にも人生を諦めて、その諦めの「毒」で兄の恋を断ち、人として生きる希望を断ち、命を断ってしまった……。じんじんと心は悔やんで痛む。

 兄と恋人がひそかに会っていた礼拝堂の屋根には鬼瓦。それを見上げて、療養所に生きるおのれの痛みに満ちた明日の行方を見つめて、コダマは鬼に生まれ変わりました。みずからに鬼の名をつけた。それが「谺雄二」。「こだま」は兄の恋人の姓、「ゆうじ」は兄の名。コダマは、みずからの名のうちに、「ライ」と「非ライ」を結び合わせ、生と死を結び合わせ、この世とあの世を結び合わせ、そうしてこの世のものでもあの世のものでもない「鬼」になった。その手には鉈。鉈のような言葉。みずからを蝕む<諦め>に鉈を振りおろす、<諦め>をもたらすすべてのものに振りおろす、人間を石に変え、鬼に変えるすべてのものに、蝕まれた世界に、鉈を振りおろす、そして自分自身に……。

 “これは おれの首だもの/おれが斬る/鉈で断つ”(谺雄二「鉈をとぐ」より)

 断ち切られた最後の鬼の首、その切り口からほとばしりでる真っ赤な血のような言葉を浴びて、つくづくと私は思うのです。

 最後の鬼こそが最初の人間になるのだろう。五百年、千年、そのずっと前から繰り返し、最後の鬼たちが既に終わっている世界に鉈を振りおろしては、人も世界も生きなおす言葉を送り出してきたのだろう。そして人間はいつの世もこう問われてきたのだろう。

 おまえは最後の鬼の言葉を受けとったか?