【旅するカタリ 曲師澤村豊子とともに】 

 第一部 小さな豊子は旅にでた。

 

1. 前口上

 

 「語り」とは古来、道から道へ、人から人へ、声から声へ、物語を結び、物語とともに人々を今日から明日へと送り出すものでした。語る者はいわゆる名もなき遊芸の民、聞く者もまた名もなき民、いや彼らにだって名はありましょう、この世に生まれて名のない者などあるものか、その名がこの世の王たちが独り占めする歴史の類には刻まれぬだけのこと、「無名戦士」のごとき十把一絡げの「無名」のなかに無数の名が勝手に溶かしこまれてしまうだけのこと、この世に名もなき者などあるものか。

 この世に生きる民の名は、言いようもない思いとともに、たとえば古くは路傍の説経語りの安寿と厨子王や小栗判官の物語にひそかに託され、(安寿は火責め水責め拷問で殺される、地獄から餓鬼の姿で送り返された小栗は道ゆく人々の手で救われる、安寿を殺した山椒太夫は竹のこぎりで首を引き落とされる)、あるいは、地べたを這うように生きる者たちの心は、歩き巫女や盲目の座頭、瞽女たちの道ゆく語りに憑依して、デロレンデロレンデンデロレン、祭文、浮かれ節、はたまた浪花節またの名を浪曲の、この世をめぐりあるく数多の語りと結ばれて、声から声へと旅をする。

 さて、「旅するカタリ」、と私はたったいま語りだしたばかりの物語を名付けているのですが、「カタリ」は「語り」でもあれば「騙り」でもある、私たちの生きる場所はいつでも嘘と真の間、善と悪の間、正と邪の間、記憶と忘却の間、あらゆる間を揺れ動くその揺らぎの中にあるものだから、何を語ろうともそれは騙りであろうし、その騙りのうちには実もあろうし、なので何事も黒だの白だの断じて畏れも恥も知らぬ輩とこの私をどうか一緒くたにしないでください、私が語るは、有象無象そんなこんなのすべてをのみこんだ「カタリ」。私自身が「カタリ」なのです、私は旅するカタリなのです。

 ここ数年、私のカタリの旅の道連れのひとりに凄まじい腕前の曲師がおります。浪曲の三味線を弾く曲師。天才的。その名を澤村豊子という。豊子師匠は昭和十二年生まれの丑年で、この世のことなどまだほとんど知らぬ数えの十二の歳に浪曲の世界に迷い込んで、それからはずっと旅の人生。気がつけばもう数えの八十、今もなお三味線を手に浪曲師と連れ立っての旅の人生です。そりゃ、今じゃ、浪曲師が長者番付を飾ってアイドルのように映画に出た昭和も半ばの全盛期も遠く儚く過ぎ去った。でも、小さな声が押しつぶされる今のこの時代だからこそ、全盛期を知らぬ若い世代が語りの力を信じて、浪曲に命の息吹を吹き込まんとする、豊子師匠もじっとしてはいられない。若い浪曲師たちに息を合わせて、ハヨォー、ウッと掛け声を放って三味線を弾く旅の空の下に身を置けば、心も落ち着く、旅暮らしのほうが安らぐのです。そんなふうな心持になったのは、さて、いつの頃からか。そもそも、曲師澤村豊子の旅の物語のはじまりは、いったいいつのことだったのか。

 

 

2. キムの話

 

 曲師沢村豊子の旅のはじまりを語るならば、私と豊子師匠が親しく話すきっかけになった「かもめ組」の誕生から始めようか、(いやいや、かもめ組のことは後日じっくり)、ならば、豊子師匠がうっかり浪曲の世界に迷い込んでしまった十二歳のあの頃のことから語ろうか、(いや、これも後日ゆっくりとね)、そうだ、まずはキムの話をしよう。キムという名の朝鮮生まれの浪曲師の話。

 キムは明治三十四年に朝鮮の慶尚南道永川郡のはずれの古鏡という小さな村で生まれた。古鏡。古い鏡。なにか謂れのありそうなこの地名は、キムの運命をひそかに象徴しているようでもある。ほら、昔の鏡は水銀メッキ、キムはね、その美声が浪曲師仲間に妬まれて、水銀を飲まされて喉がつぶれて、その声はもう役にも立たない古鏡……。

 こういうことはそう珍しくもないらしいのは、昭和の浪曲の大看板のひとり、梅中軒鶯童の旅日記にも、水銀で喉をつぶされた浪曲師が登場する。そういえば、昭和初めの博多の普賢堂の路地には浪曲師が軒を並べて暮らしていて「さながら浪花節街」だったとは、同じく鶯童の弁。普賢堂に来れば、九州巡業の浪曲の旅の一座などすぐ組めたのだと。もしや浪曲師キムも普賢堂あたりにいたのだろうか、それとももっと侘しいドサ回り一座の座員だったのでしょうか。

 この世に残されたキムにまつわる記憶は少ない。風の噂によれば、大正五年(一九一六)、十五の歳に、朝鮮からひとり玄海灘を渡ってきたという。頼りは十二歳上の長兄。長兄はといえば、兵庫の生野銀山あたりの町で日本人の妻との間に子が生まれたばかりというのに、大正六年、九頭竜川のダム建設が始まった福井の山奥の山林で、ほんの二十八歳で死んでしまった。なぜ死んだのか、そこで何をしていたのか、想像はつきます。が、確かなことは分からない。

 十六歳のキムは日本でひとりぼっち。まずは九州のどこかの日本人の商店に住み込んだ。朝鮮が日本に併合されてまだ七年、日本語もカタコトだったろう、そのキムがそれからなにがどうして浪曲師になったのか、その日暮らしの漂泊の日々こそが、植民地生まれの寄る辺ない心の棲みかになったのか、いったいどれほどの苦労を重ねたことか、あの頃多くの漂える“キム”がいたのではないか……。

 なんでもキムは、浪曲師時代の美声に恋した日本人女性と所帯を持ったらしい、女はすべてを捨ててキムのところに駆け込んできたという。それから九州を転々、やがて、戦後のある日、あのキムがどこぞの炭鉱町で死んだ、と、いつかどこかでキムと袖触れ合った者たちの間を静かな噂が吹き抜けて、消えた。この話が曲師沢村豊子の物語とどう関わってゆくのかは、まだ定かではない。

 

 

3.どこまでも、浪曲の道

 

 かつて浪曲の勢いのどれだけ凄まじかったことか、前にも触れた梅中軒鶯童の旅日記には、昭和八年の暮れに催された大阪・東洋劇場の杮落しでは、浪曲師たちがマイクもなしに四千人を相手に死にもの狂いの口演をしたとある。台湾、満州、朝鮮、樺太、昭南、安南、ビルマ……、日本人のいるところならばどこまでも、海の彼方、戦地の奥の奥までも巡業の旅路はのびてゆく。

 人々が聴きたがる語りは、人々に何かを言い聞かせたい者たちにとっては、実に好都合な教育的媒体にもなりましょう。「肉弾三勇士」、ありましたね、そんな浪曲。「西住戦車隊長」、ええ、ええ、ありましたとも、戦時愛国浪曲! 

 朝鮮では、朝鮮人志願兵が中国北部、いわゆる北支の戦場で一九四〇年春に初めて戦死するや、朝鮮語浪曲「壮烈 李仁錫上等兵」がすぐにも作られた。

さあ、そいつを少しばかり語ってみましょうか。

 ――日章旗はためく玉泉停車場! 「李仁錫万歳」の声! 天をも轟かす感激に包まれた広場! 静かに厳そかに立つ李仁錫君! 故郷の先輩、家族、友人が心を尽くして見送る丈夫の鉄石のごとき胸中には熱い涙が流れるのである。これほどの真心をいただいて戦地に向かわば、大きな夢を達せずして帰られようか。七たび死んで八たび生きるのだ、お国に忠誠を捧げるのだ!

 この朝鮮語浪曲を演じた崔八根という男、東京の日本浪曲学校で浪曲を学んだのだそうです、浪曲学校の校長は崔永祚(日本では崔永昌という名で記憶されている)、興行師でもありました。この崔永祚とともに崔八根が、一九四〇年春、朝鮮総督府のお声がかりで朝鮮に戻ってくる、間もなく朝鮮語浪曲のラジオ放送がはじまる、なんだかここにもなにかが蠢いているようだ。

 朝鮮で朝鮮語浪曲が流れだした頃、東京の日本浪曲学校では後に三波春夫となる十六歳の少年が稽古に励み、浪曲師南篠文若として初舞台を踏んでいます、南篠文若は一九四四年に召集されて満州へと送られ、部隊をめぐって浪曲口演をする「浪曲上等兵」となる、敗戦後には抑留の地シベリアでも浪曲を語ることになるだろう。

 浪曲と言えばもうひとり、後に国友忠の名で一世を風靡することになる青年浪曲師が、北支の戦場でその特殊能力によって諜報活動に携わっておりました、浪曲で培った耳の力語る力の賜物でしょうか、見事に耳から中国語を覚え、体ごと中国人になりきった、そうして戦争の裏も表も味わうことになった若き国友は、敗戦の大混乱にのまれて中国の地に打ち捨てられて遂に日本に帰れなかった者たちのことを終生忘れないだろう。

 そう、忘れずにいてほしいのです、キムの話も今日私が語ったことも、やがては曲師澤村豊子の物語へと結ばれていくということを。

 

 

4.炭鉱町の小さな豊子

 

 写真が一枚。

 神社の境内。和服姿の父と三人の幼な子。お宮参りの写真のようだ。男に抱かれた赤ん坊は和柄の晴れ着。赤ん坊のおねえちゃんたちも七五三のように着飾っている。制服姿の女の子も二人。近所の子だろうか。豊子の記憶にはない二人。五人の女の子のうち三人はわかめちゃんのようなおかっぱだ、昭和の子だ。そのうちのひとり、招福のだるまを手に、小首をかしげている小さなおかっぱ、これが今なお現役の浪曲の天才曲師、澤村豊子の幼い頃の姿、もう七十年以上前の遥かな光景だ。

 写真の中の父は一分刈りのさっぱりとした顔。耳がぴょんと立っている、この世の音や声にじっと聞き入るかのような耳、目尻の下がった小さな目はいかにも優しい。小さな口。これもまたいかにも寡黙。

 豊子はこの父の第二子として、昭和十二年に福岡県粕屋郡幸春町出生、と戸籍にはある。本人には生地の記憶はない、実を言えば粕屋郡幸春町という町自体も見つからない。これはいったいどうしたことか、どなたか幸春町を知りませんか?

 豊子の最初の記憶は佐賀の北方町の家からはじまる。それがね、この家には白い蛇が棲んでいた、時折、天井からポトンと蛇が落ちてくる、そのたびにお父さんが「守り神だから騒ぐなよ、いたずらするなよ」と子らを諭す、そんな家でありました。家の前は川、後ろは崖。家の前の広い坂を上ってゆけば、杵島炭鉱。ずらり立ち並ぶヤマの社宅の主婦たちが、坂を下って豊子の家の前をとおって町の市場に買い物にくる。豊子のお母さんも市場に行く。市場ではお母さんとヤマの女たちとおしゃべりの花が咲く。豊子のお父さんは行商さんで、着物だとか小間物だとかを大きなカバンに詰めて坂をのぼってヤマに売りに行く。

 豊子は体の弱い子でした。運動会ではお遊戯だけ、あとは隅っこで観ているばかり。あの頃、家で使う水を共同井戸で汲むのは子供の仕事で、天秤棒でバケツをかついで、家の甕にザーッとあけて、また汲みに行く、その仕事も豊子には無理だろうと、豊子の二歳下の妹の役目でした。お父さんは「あんたは体が弱いからなにか芸事を身につけたほうがいい」と言い、踊りの好きな小さな豊子に藤間流、坂東流と習わせた、「大きくなって踊りのお師匠さんになるなら、三味線も覚えよう、踊りは弾きながら教えた方がいい」と端唄の三味線のお稽古にも通わせた。それが満で十歳のときのこと。豊子がたったひとり浪曲の世界へと、北方の町を出る一年前の話です。北方町の市場では、へえぇ、あんたんとこの娘さん、三味線ば弾かすとね、と、女たちのざわめき。

 あの頃、豊子を叱るのはいつもお母さんでした、お父さんは黙って笑っている、豊子の耳はお父さんと同じ形をしている。

 

 

5.小さな豊子の旅立ち

 

 本日は、たった十一歳の豊子がひとり浪曲の世界へと旅立つ、その事の次第を申し上げます。

 佃雪舟という中看板の、つまり中堅どころの浪曲師がいた。この人、そもそもは戦前に大衆路線まっしぐらの大都映画の俳優だったのが、流行りの浪曲映画に出たのがきっかけで浪曲師に転向する、それが昭和十九年のこと、当時の大看板の天光軒満月の「父帰る」みたいな演題が好きでね、はい、これは菊池寛原作の文芸浪曲です、それを佃雪舟は自分でも演じた。小さな豊子をスカウトしたのは、一座を組んで盛んに地方巡業をしていた頃のこと、昭和二十三年、二十九歳、売り出し中の若き座長でした。

 さて、九州といえば、明治からずっと、都落ちしてきた桃中軒雲衛門が福岡で捲土重来の再起を果たして以来、浪曲のメッカ。とりわけ旧暦六月の「よど」と呼ばれる夏祭りの頃は旅巡業の浪曲師には絶好のかきいれどきだったという。きっと佃雪舟もそんな九州巡業の途中に佐賀劇場にも乗り込んできた、このとき佃雪舟は旅の道連れの専属曲師を探していた。その話を杵島炭鉱の炭坑夫のおかみさんが耳にした。浪曲は炭坑でも大人気です、このおかみさんも七色の声で有名な浪曲師伊丹秀子に息子を弟子入りさせている、だから、佃雪舟の意を受けて、それはもう積極的に小さな豊子を勧誘したわけです。

 おかみさんが市場でばったり会った豊子のお母さんにこう言った。あたとこの娘、三味線弾きよったろ、ちょっと佐賀劇場の楽屋に連れてってもよかね? あっという間に小さな豊子は佐賀劇場の楽屋にいて、棹の太い三味線を持たされる、ちょいと弾いてごらん、ふーん、いいんじゃない、と言ったのは、三味線の応援で来ていた天光軒満月の二番目の奥さんで曲師の照子師匠だ、佃雪舟が、おまえさん、東京に行くかいって聞いたなら、小さな豊子はおどりあがって、行きたい、行きたい! 東京に行けばもっと踊りのお稽古ができる、踊りのお師匠さんになれると思ったんだ。

 話はとんとんとんと進んでゆく、佃雪舟は、善は急げだ明日からおいで、一緒に九州巡業して東京に行こうと言う、家に帰って豊子がお父さんお母さんに話したなら、あんたが行きたければ別に止めないよと二人は言う。もちろん二人は、豊子が旅立つ先が浪曲の世界だということを知っている。

 おそらくね、今も豊子師匠の心のうちに住む小さな豊子が言うようにとんとんと進んだ話じゃなかったんだろう、でも、旅するカタリの私は小さな豊子の声を大事に大事に聞くんだ、そうしてその大切な声をあなたに手渡すんだよ。

 小さな豊子は、東京に着く頃にはもう浪曲の節をあらかた聞き覚えていた。豊子の小さな耳はとてもいい耳だった。

 

 

6.痛いときはしょうがない

  

 思えば私は、浪曲師玉川奈々福と曲師澤村豊子と連れ立って旅をしながら、豊子師匠の話をずいぶん聞きました、博多で新幹線に乗って東京まで休みなく、いうこともありました。豊子師匠の胸底からは泉のようにこの七十年の想いが湧きいずる。十一歳の豊子は浪曲師佃雪舟に弟子入りして東京にやってきた。そのとき豊子は浪曲の「ろ」の字も知らなかったんだ。いったいそれからどうなった?

 豊子師匠曰く――、

 東京に着いたらすぐに浅草の澤田興行社ってとこの二階に連れてかれてね、そこに山本艶子師匠がいたの、この人は天光軒満月先生の最初の奥さんだよ、天光軒満月といえば大看板でしょ、その相三味線だった艶子師匠も屈指の曲師だよ、そんな人のとこに佃さんはあたしを連れてったんだ、浪曲の三味線は浪曲師が一緒にそこで唸らなくちゃ稽古にならないから、佃先生が唸るでしょ、そしたら艶子師匠も舞台と同じように一生懸命弾いちゃうわけよ、はい愁嘆、次はバラシ、今度は攻めって、いろんな節を全部やる、それを私も艶子師匠と向かい合って三味線を持って、ずっと追いかけて弾くんだ、節を盗むんだよ、けど、盗めるところと盗めないところがあってね、で、佃さんとこに帰ると、もうすぐにも佃さんと面と向かって三味線を弾かされる、けど、そんないっぺんには覚えられないよね、弾けないと、違う違うここは間が違うって、トントンと膝を叩かれる、それがいやでねぇ、もうおうちに帰りたくてねぇ、でも、ひとりで帰ることもできなくてね、だから諦めて佃先生のとこにずっといたんだ……。

 そうか、そうだったんだと私はうなずく、そして、お師匠さんのあのコロコロ弾んでまわる三味線の手、澄んだ音色、これはもう相当稽古したんでしょう?と誰もが聞くことをやっぱり聞く。豊子師匠があっさり答える。いや、稽古で苦労したって思いはそんなにないの、稽古なんて、だって、あたしは浪曲をやりたくて東京に来たんじゃないんだ、ほんとにね、根っから真剣に勉強したことはないんだよ。

 そう言って一息ついて、また豊子師匠が言う。そうだね、今思えばあたしは最初からとてもいい三味線の先生についたんだね、厳しかったよ、艶子師匠は、一切子供扱いしないんだ、三味線は爪で弾くんだ!糸を指の腹で押さえるな!ってね、今でもそのとおりに指をグッと曲げて爪で糸を押さえるから、自然と爪に溝ができる、爪に糸道ができるんだ、毎日弾けば糸が爪にどんどん食い込んでジンジンするよ、血は出ないけどね、人差し指の代わりに中指で押さえることもあるよ、痛いときはしょうがないからさ。

 そうなんだね、痛いときはしょうがない、そうやって小さな豊子もジンジンと三味線を弾きつづけてきた。

 

 

7.ちょっと寄り道 浪曲は三下がり

 

 さて、小さな豊子がまだ佐賀の北方町の家にいた頃にお稽古していたのは端唄の三味線です。でもね、東京でお稽古するようになった浪曲の三味線は端唄とは全然違ったね、と澤村豊子師匠が言う。浪曲は全部三下がりで弾くんだもの、だからあたしは歌謡曲も都都逸もなんだって三下がりで弾いちゃうのよ、というわけで、今日の話は、豊子師匠が語るその「三下がり」のこと。これは、つまり、浪曲三味線の調弦についての話です。

 三味線の調弦というのは、ざっくりと分ければ三つ。「本調子」と「二上り」と「三下がり」。三味線の音を洋楽の音階で説明するのはちと乱暴なのですが、三味線の三本の糸を一番上の太い糸から順に「ド→ファ→ド」と音を上げていくのが本調子、本調子を基本の調子として、「ド→ソ→ド」と二番目の糸の音が本調子よりも上がるのが二上り、「ド→ファ→シ♭」と三番目の糸の音が本調子よりも下がるのが三下がりです。二上りは明るい気分、三下がりはなにやら哀愁が漂う。浪曲の三味線はこの哀愁の三下がりで演奏されるのです。そこが独特、嗚呼泣き笑い、哀愁の三下がり。

 と、ここまで語って、ふっと想い起こしたのが、『実録浪曲史』という本で見た農民文学作家和田傳の言葉であります。浪曲の人気を底から支えたのは農村なのだ、という趣旨のことを和田は語る。もちろん都市でも浪曲はよく聞かれている、とはいえ都市労働者の多くもまた農村出身ではないか、と和田は言う。

 農村と浪曲と哀愁。もしや、こんなタイトルで明治以来このかた近代日本が歩んできた道を語れるのではなかろうか、私もふっとそんなことを考えた。お国のために米を送り、都市に労働力を送り、戦場に兵士を送り、日本の外に移民を送りだしてきた地方の村々に下支えされて、産業革命を成し遂げ、戦争に乗り出し、戦争に敗けて、それでもまた高度経済成長へと向かっていく、その風景の底に流れる泣き笑いの哀愁、浪曲……。

 和田傳は農村と浪曲を語って、「農民は浪花節が好きである」、まずはそう断言する。それはもう例外なく好きなのだと、年寄や中年ばかりでなく、アロハシャツを着て指輪をはめて喫茶店でコーヒーを飲むような若者もやはり浪曲が好きなのだと、彼らは浪曲や浪曲師について蘊蓄なんぞは垂れることなく、ただもう浪曲があれば、あの義理と人情の世界がそこにあればいいのだと。

 なぜ?

 戦前戦後と農村を見つめつづけた作家和田傳はこう答えます。

 「農民は、うちに不平や抗議をいっぱい持ちながら、なお表現を持たずに黙々としているのだ」(昭和二十四年『放送文化』より)。

 なるほど、そういうことであるならば、旅するカタリたる私にも言うべきことがある。

 

 

8.またもや寄り道 カタリの秘密

 

 ここ数年、私もまた、かつて旅人たちが歌と物語を語り伝えた道をめぐり歩いていたのです。物語とは旅する体が運ぶもの、道ゆく声が語るもの、という思いが私にはある。それは十五年ほども前に、この世の片隅の島から島へ三線ひとつで生き抜いてきた浪という名のおばあと出会って以来、ますます深まったものでした。(この浪おばあとの出会いが浪曲師玉川奈々福との出会いにつながり、奈々福から曲師澤村豊子へと縁は結ばれてゆく。その話はまたいずれ)。しかし不思議なのは、浪おばあ自身はこの世への呪詛の塊なのに、いったん三線を手に歌い語れば、呪詛が祈りに変わる、祈りの語りが生れいずる、どうやらそこにこそ旅するカタリの秘密もあるようなのです。

 ともかくも私も歩いた、昭和の半ばまで越後の高田瞽女が語り伝えた「山椒太夫」の物語を追いかけて、歩いた歩いた、丹後由良の峠道、荒れる日本海を臨む加賀道に佐渡の海辺、福島の山中の信夫古道、津軽のお岩木様……、語りの道は今では細くて狭い旧道ばかり。その路傍には道祖神、賽の神、地蔵、馬頭観音、権現塚……、辻の小さな祠にはお狐様に、むじな、蛇……、ほら、この世には、人間どもとともに無数の小さき神々。

千年も前から語りつがれた「山椒太夫」は、旅するほどに語られるほどに変容しました。その土地土地に風土に根づいた安寿の物語が生まれる、非業の死を遂げた安寿を祀る塚や祠が日本の地方の片隅のあちこちに立つ、安寿は神になる、安寿は本当にこの世に生きていたのだ、理不尽にも耐え抜いたのだ、安寿はわたしだ、安寿はおまえだ、安寿の魂を鎮めよう、安寿に祈ろう、そんな思いの依代としての物語を人々は語り、安寿を祀った。もとは修験や熊野比丘尼たちが土地の不幸を祟りの物語に置き換えてむじなを祀った権現塚が、さらに安寿塚に置き換えられた土地もある。そんなことに気がつけば、この世の路傍の無数の小さき神々も実のところは、人びとの言うに言われぬ思いや記憶の依り代だということ、この世には地べたに生きる者たちの数だけ小さき神々がいて物語があるということにも、切実に思いがいたる。

 すべての道に小さき神々。すべての道に人びとのひそかな物語。物語は旅するカタリたちによって結ばれ、生きることの呪詛も祈りにかえて、祈りとともに増殖する。この自由自在の物語の風景は、神々までをも整理統合近代化した明治以降、だんだんと消えてゆく。神々の近代化は人びとの記憶の近代化、物語の近代化でもありました。

 そしてとりあえずいま私はこう思っている。千年の語りの道と近代が交わるところに生れた浪曲とは、物語と近代の最後のせめぎあいの場なのでないか。

 

 

9.ダンスパーティの夜だった

  

 小さな豊子は踊りのお師匠さんになりたかった、東京に行けば、踊りのお稽古もできると無条件に信じて、浪曲師佃雪舟に弟子入りして、東京につくやいなや浪曲三味線の稽古がはじまって、その三か月後にはもう地方巡業の舞台で浪曲の三味線を弾いていた。まだ十一歳、佃美舟と芸名もついて、幼い曲師の旅の日々がはじまった。弟子入り修業の年季は五年、年季が明ければお礼奉公をもう一年。

 さあ、豊子師匠があの頃を語ります。

 

 ――そりゃ、もう、浪曲の全盛期だったもの。鉄道の会社とか、専売公社とかがスポンサーになって、たばこ農家のとこに興行に行ったりするのよ、専売公社の演芸係の人もついてきてね。鉄道会社や新聞社が主催の慰問公演も昔はいっぱいあった。そうやって地方をまわって、東京に帰ってくれば、今度はお祭りの舞台にも呼ばれる。お祭りのシーズンなるともう掛け持ちですよ、入れかわり立ちかわり、ひとつやっては次の場所。一緒にお祭りの舞台に出た漫才の人なんかも、自分の出番が終わったら、たったったったっ、かけもちだよー、って駆けだしてく。昔はほんと忙しかったんだ。お祭りのときは神社から芸能社に依頼がくるの。浪曲も漫才も歌謡曲も入れてこれくらいの値段でって言って一舞台組むんだよ。で、芸能社の興行師が仕切って、あたしらにどこそこの神社に何日の何時くらいまでに入ってくれってね、まあ、こういうふうになってたのよ。昔ね、林伊佐緒さんが「ダンスパーティの夜だった」という曲が大ヒットしたときに、歌謡ショーの一座を組んでみんなでバスに乗って巡業したことがあるんですよ。ショーの舞台は漫才が何組か続いて、そのあと曲芸さんが入って、そういう色物の中に浪曲も入ってね、最後に林伊佐緒さんの歌謡曲。歌謡曲は楽団でやるわけよ。最後を一番華やかにしたいから。その前にずっと色物をするわけよ。漫才、曲芸、手品、浪曲、歌謡曲。浪曲は色物とは違うけど、彩りよくするために色物の中に浪曲も入れたのね。もう毎日毎日三味線弾いてね、でも、なんで浪曲の三味線なんかを一生懸命弾いてんだろ、あたしは踊りをやりたいのに、って思いがあるから、ほんとにいやでいやでしょうがなかった。

 

「ダンスパーティの夜だった」のヒットは昭和二十五年。豊子はまだあどけない十三歳。その翌年からラジオの民間放送がはじまる。肥料や農機具、自転車、家庭医薬の会社がスポンサーとなってラジオからがんがん浪曲が流れだす。狙いは農家。

 あの頃、浪曲の一座はハンセン病療養所にも慰問に行きました。それは、既に治る病気だったハンセン病の患者を強制的に療養所に送り込む、戦後の無癩県運動が繰り広げられていた頃のことでもありました。

 

 

10.げんこつの拍手

 

 語りと癩といえば、切っても切れない。それは鎌倉時代も末に、踊念仏の一遍上人が「信と不信」「浄と不浄」を分かつことなく、その当時「餓鬼病み」と呼ばれ不浄とされた癩者をも受け入れた布教の旅の中に原風景がある。死ぬまでこの世をさまようばかりの餓鬼病みたちも、南無阿弥陀仏と唱えて旅する一遍の一行についてゆけば、施しを受けられる、熊野を本拠地にする念仏聖たちは、熊野権現におすがりすれば病も癒える救われると教え導く、「餓鬼病み」の熊野への旅を助ければ、助けた者もまた救われると人々に説き聞かせる、「餓鬼病み」とは「餓鬼阿弥」なのだ、病み崩れた餓鬼病みを載せた土車を熊野に向けて、一引き引けば千僧供養、二引き引けば万僧供養……。そうして日本の五大説経のひとつ「小栗判官」が生まれた。

 物語る念仏聖たちの旅は、道を伝い、時を伝い、無数の旅するカタリの声を伝って、やがてちょぼくれちょんがれ祭文瞽女唄浮かれ節浪花節浪曲へと遥かにつらなり、今へと結ばれてきた、はずなのだけど、いったいあの「餓鬼病み」たちはどこに消えたのでしょう? 

さあ、時は昭和だ、熊野権現に頼らずとももう癩は治る病だ、なのに未だに餓鬼病みの影を負わされて社会の外に追われて生きる者たちがいる、そこに旅の浪曲師一行が呼ばれてゆく、そのとき、おかっぱ頭の曲師豊子が、わあああ、と声をあげたのです。

 だって、大変なとこに来ちゃったと思ったんだよ、離れ島でね、松が生えてたよ、島のずっと山の中の林の中に入っていくと、ちゃんとおうちがあったんだよ、学校の寄宿舎みたいに平屋の屋根が並んでいたよ、どこの県だったかなぁ、そこには特にそういう施設が集められているって聞きました、あたしはね、ただついていって、着いてはじめて、ここはこういうところと教えられたんです、会場は板張りのちょっと広めの部屋、演台を置いてテーブル掛けをかければ、もう浪曲はできるからね、ええ、確かにね、手のない人とかすごい顔の人もいたよ、でも関係ない、浪曲をやれば、舞台がよければ、手がなくたって拍手してくれるんだ、喜んでげんこつで拍手してくれるんだよ、そういえば、こないだテレビでちらっと見たけど、まだまだ療養所にいらっしゃるんだねぇ、あたしが慰問に行ったのはもう何十年も前、二十歳にもならない頃のことです、昔はハンセン病とか結核とか、そういうところをまわったもんだよ……。

 じっと豊子師匠の話を聞く私は、浪曲のおおもとにある、遥かな昔の、「信不信」「浄不浄」も問わぬ世界に想いを馳せる。癩も結核も貧しさの病であるけれど、一方で、信と不信、浄と不浄で激しく分かたれて声も絶え絶えの今のこの世界の貧しさを思わざるをえないのです。