「逢いたくて逢いたくて」

 

 岩谷時子、岩谷時子、そう呟きながらどの歌を歌おうかと思案するうちに、なぜだか妙なスイッチがはいって、普段はしないような話をついつい。誰もが一つくらいはなにげなく隠し持っているような、いい大人がわざわざ話すまでもないようなこんな話。

 人知れず愛を交わしている男と、久しぶりに歌でもと、横浜の鶴見からはるばる四谷・荒木町に出かけたのです。私が暮らす横浜の川べりの町までは男は来てくれない。梅雨入りしたばかりのしたたる雨の夜で、カウンターだけのあの店でひそかに待ち合わせる。触れるか触れないかの微妙な間合いで並んで座って、ひとしきり歌を交わし、歌の合間に言葉を交わし、やがて交わすものや時が尽きれば、どちらからともなく二人一緒に席を立ち、店を一歩出るなり、ひそかに別れゆく、そういう関係。

 では、今日は、岩谷時子しばりで。わざわざ作って持ってきた「岩谷時子作詞うたリスト」を私がカウンターの上に置きました。それはまたどうして? と一回りほども年上の男が軽く問えば、カラオケは作詞者では選曲できないから、こんなリストでもないと不便でしょう、と私は答えにならない答えを返し、さりげなくリストを手にとった男は、うん、俺が一番に思い出すのは「夜明けのうた」かな。

 ああ、それは残念、と私。リストに記された発表年度を眺めつつ、(一九六四年と書いてある)、この歌は私はあまり馴染みがないな、流行った頃は私はまだ物心のついたばかりのほんの三歳、夜明けの意味するところもわからないほんの子どもだったしね、ただね、今聴いてもこの歌は、大人のくさみぷんぷんの、がっつり“大人の歌”なのよね、大人のまっすぐな本気はちょっとね……。うん、確かにくどいね、と男。

 そうそう、夜明けならば、ほら、夜明けのコーヒー、二人で飲もうと、あの人が言った……、話の流れに乗って「恋の季節」をカラオケに入れて歌う私は、この歌を子どもの頃に覚えてずっと今でもそらで歌える、でもそれはね、あの頃お子様だった私にとっては、岩谷時子よりもピンキーの力なのよね、ピンキーとキラーズが虹色のキャンピングカーに乗って旅に出るあのドラマ、今でも覚えてるなぁ、あの頃私は小学校一年生、とことさらに男との歳の差を際立たせて、すると男が、ふふん、俺は大学生だったよ、学生運動一色の時代、朝教室に行けば、そのままデモに流れ出ていく、毎日が非日常、そういう時はさ、なにかとラブアフェアーが繰り広げられるんだな。

ふーん、非日常ね、ラブアフェアーね、と私は小さく繰り返し呟く、そして、ようやく、おもむろにカラオケにいつものあの歌を入れるのです。

 大人になってから覚えた歌、近頃必ず歌う歌、心の糸が結べなかったあの人を、はずかしくて耳もとで大好きとは言えなかった私を、歌うたびに呼び戻す歌。あの頃はまだあどけなさを残していた二十二歳の園まりは歌いながら歌の気持ちがわかったのかしらと訝りながら、こんな歌を子どもが歌っちゃいけないよとたしなめながら、これは絶対に年増女の心のうちにひそかに生きつづける少女の歌と確信しながら、自分が既に年増女であることをほんの少しだけ悲しみながら……。そう、悲しいのはほんの少しだけ。いたずらに歳を重ねたわけではない。幾重にも味わい深く刻みこまれた心の襞からは大人の女の余裕もほどよく滲みでているはず。大人の私は切なさもおおらかに歌えるはず。「逢いたくて逢いたくて」。一九六六年に世に出た歌。

 あのね、あの頃、あなたが日々非日常を生きていたというちょうどあの頃、幼かった私も私なりに、初めて非日常というのを体験していたんです。その光景が近頃ありありと蘇ってくるのは、たぶん、三月十一日の大地震のあとのあの大洪水が今も私の心から引いていかないからで……。

 一九六六年六月二十八日。横浜、鶴見、工業地帯の煙突が見える川べりの町。私はまだ五歳になったばかり。

 その日、私は黄色い雨合羽に黄色い長靴を履いて、アメアメフレフレと狭い路地を飛び跳ねながら、父親に買ってもらったばかりの「おばけのQ太郎」と「スーパージェッター」の主題歌の赤いソノシートを手に、歩いてほんの一分のルミちゃんの家に遊びに行った。川べりの狭い路地の家々のうちでレコードプレーヤーがあるのはルミちゃんのとこだけで、針をソノシートにそろそろと落とす、その特別な役割を奪い合いながら歌いながらそこでどのくらい遊んでいたのか、不意に父親が迎えに来て、ひょいと私を抱き上げて、早く帰らなくちゃ、と言ったのでした。

 抱き上げられたまま外に出てみれば、激しい雨。風も吹いていた。地面がひたひたと泥水に覆われて見えなくなっていた。父親の長靴に水がいまにも入りそうになっていた。タイフウ四号ダヨ、ヒナンスルゾ、父親がそう言ったような言わないような。ともかくも、父親はひどく急いでいて、平屋の長屋のわが家にいったん立ち寄り、そして、歩いて五分の鶴見川の堤防のそばの二階建てアパートの二階に住む祖父母のところへ、私を小脇に抱えて、傘もささずに。もうそのときには、水は父親の膝上まで来ていた。私を祖父母のアパートに置いた父親が、家にひとり戻っていくときには、水は既に太ももまで。洪水、大洪水。父親はざんぶざんぶと水をかきわけかきわけ、もう少ししたらきっと沈没してしまう、洪水のなかに消えてしまう、置いていかれた私もきっとそのうち水の底に……。怖かった。

 台風四号。すさまじい台風だったのだそうです、鶴見川は暴れ川で有名だったのだそうです、床上浸水したわが家で両親は押入れの上の段にのぼって家族の大切なものを抱えて震えながら夜を明かしたのだそうです。水が引いたあとの汚物と瓦礫にまみれた家を見て、越してきてそんなに経たない家だったのに、どん底からようやく立ち上げた新しい商売も光が見えてきたところだったのに、もうここには住めないと思ったのだそうです。ようやくこの土地に流れ着いたばかりだったのに、もう流されていくと。

 台風一過の一九六六年六月二十九日、そんなことを両親が思っている時、幼い私は祖父母のアパートの窓から、増水した鶴見川を畳が何枚も何枚も何枚も流れていくのを眺めていました。目の前を流れているのは畳だけれど、畳といっしょに畳ではない何かが、見えない何かがたくさん流れているようで、むやみに不気味でした、いつまでもいろんな何かが果てしなく流されていくようで……。

 私のそばには祖父母もいたはず、だけど記憶のなかの私はひとり、洪水のなか、ぽつんとひとり。あ、赤いソノシートもあのとき流されていったのかな。

 これが幼い私が体験した最初のこの世の洪水、最初の非日常。いえ、こんな話をするつもりはなかったのだけど、思うに、あの洪水のときからもうずっと私の中にはひとりぼっちの女の子が息を潜めているような気がしてね、その女の子が、微妙な間合いで私と並んで座る人が現われると、おそるおそる何かを話しはじめたり、そろそろと歌いだしたり、なにか声が返ってくるのを待っていたりね。

「すきなのよ すきなのよ」

 なんて歌っているのは、私のなかの少女ですから。大人の私はそんなことをつい口走って涙を流したりなどはしませんから。あ、そう言えば、あの頃ほんの五歳だった私はまったく知らなかったことだけど、台風が去ったあの日、一九六六年六月二十九日は、ビートルズが日本にやってきた日なんだそうです。あの頃日々学生運動で、日々非日常だったあなたは、きっと園まりよりも岩谷時子よりも、ビートルズだったのでしょ? 

「逢いたくて 逢いたくて」 

 逢いたいのは誰なんだか、もう分からないくらい、いろんな人に逢ってきたけれど、出会いを重ねるほどに、ますます淋しくなっているような気もします。歳を重ねるほどに、私のなかのひとりぼっちの少女が妙にせつなく息づきだすような気もします。わがことながら、ああこうして死ぬまで生きていくのだな、つくづく厄介なこと、と思いもします。

 気がつけば、私も五十歳。岩谷時子が「逢いたくて 逢いたくて」を書いた歳です。 

               

               (平凡社 雑誌「こころ」第2号 岩谷時子特集)