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学習院大学文学演習 第5回

<まずは、今日の前口上>

 

近代文学 150年の孤独をめぐる話。

 

  先日、5月5日に学外演習ということで、浅草木馬亭に浪曲定席をゼミ生とともに聞きに行きました。

 目当ては玉川奈々福。 この日の演題はおなじみ「甚五郎旅日記」から「掛川の宿」。で、ここで大いに笑った後の、木馬亭のすぐ裏の古風な喫茶店で、学外演習番外編でお茶してゼミ生から聞いた話が、「日本近代文学が好き」という、いまどきの文学部生には珍しい、私のような文学オタクとしてはかなりうれしい告白だったのでした。

 

 聞けば、鴎外、芥川、漱石、太宰といった王道(?)はもちろん読んでいる、横光利一「機械」が面白かったとか、芥川なら「河童」、太宰なら「駆け込み訴え」が好きとか、今度は正宗白鳥を読んでみたいとか。ドスとエフスキーは「罪と罰」「カラマーゾフ」は読みました、最近トルストイ「復活」を読んだばかりですとか、春樹は読まないとか、なかなか頼もしい。

 

 さて、この文学演習は「声」と「語り」をめぐる演習です。 

 

 近代日本文学の担い手たちも当然に、文字で書きつけたその作品の中に自分の声を潜ませている。しかも、それは極めて近代的な文学的営為として意識されたことでした。とはいえ、それはそう簡単に実現したことではない。

 

 たとえば、近代日本の大衆音楽の世界に、いきなり西洋音階の歌が登場しえなかったように、学校教育で唱歌が浸透してはじめて人々は唱歌と同じ音階を用いる軍歌も歌えるようになったように、今では日本情緒あふれると言われる演歌のあの音ですら、西洋と日本の音階を折衷した素朴なヨナ抜き五音階が日本人の聴覚に違和感なく受け入れるまでには時間を要したように、近代の文体とリズムもそう簡単には生れなかった。

 

 では、文学において、近代の文体を創る、近代の文体で書く、近代の文体を読む、ということをめぐって、何が起こっていたのか?

 

 そもそも文学という言葉自体がきわめて近代的なものであります。

 そこには、音読するもの、耳で聞くもの、声で場を分かち合うもの、声によってそのときそのときに変容するものとしての語り物(近代以前)から、ひとり黙読するもの、書き手と相対する読み手という閉じた空間を呼び出すものとしての物語/文学(近代以降)という流れがあるのだと言えるかもしれません。いわゆる近代的個の出現というやつですね。

 

 近代的個としての書き手が、近代的個としての読み手に、物語を届ける、そのときに最初に大きな課題として立ち上がってきたのが、「言文一致」をめぐる問題でした。

 

 それは、それまでのような文語体ではなく、人々が日常世界で用いている今の言葉でいかに書くか、今を生きる自分の声をいかに文字に乗せるかという問題でもあったわけです。

 

 「言文一致」と言えば、すぐに思い浮かぶのは、坪内逍遥、二葉亭四迷、山田美妙。

 近世の響きをひきつぐ美文調を出発点に近代の言葉を探っていった尾崎紅葉、泉鏡花らの硯友社の流れもある。(山田美妙は硯友社の社友でもあった)。

 

 樋口一葉、一葉を絶賛した森鴎外の文語体もまた、近代の文体でもあります。(鴎外自身は言文一致論に対して傍観者的態度を取っていたと、前田愛『近代読者の成立』)。

 

 鴎外といえば、「舞姫」のあの高雅な文語体で語られる、きわめて個人的な恋愛と、「国家」と「家」への忠誠との間の葛藤を想い起こします。その結末を見るならば、鴎外の近代的個とはどのような「個」であったのか、ということにも思いを馳せざるをえません。

 

 鴎外という、近代科学の知識や価値観を学び、同時に近代以前からの漢文の素養もある近代日本の知識エリートの近代的「個」が、「舞姫」において自分の声を乗せるために選んだ文体があの文体であったということは一考に値するように思うのです。とりわけ、本演習で主に取り上げられる『山椒大夫』との関わりにおいても。

(私は、鴎外の『山椒大夫』は、近代による<声殺し>の現場の一つだと思っています。これは、これまで本演習で軽く触れたところでもあります)。

 

 言文一致といえば、実に興味深いのは、二葉亭四迷が言文一致体を創り出すために最初に大いに参考したのが、当代人気の三遊亭円朝の落語「牡丹灯篭」であったということです。これは有名な話ですね。

 

 ここから先は前田愛『近代読者の成立』に依拠しつつ、私なりに思うこと。

 

 速記によって文字に起こされた「牡丹灯篭」を参考に、二葉亭は落語の高座で発せられる旬の言葉、登場人物ひとりひとりのキャラに合わせた生き生きとした語り口を新しい文体の創造のために応用します。

 だけれども、それは、多くの聴衆と声の場を分かち合う「場」の語りであったということ、(必然的に語り手の不特定多数の聴衆への呼びかけの声もそこにはある)、内心のひそかな声をひそやかに語り出す文体としては不完全であったこと、(近代的自我の深刻な内面の声を円朝の声は持たない)、だから二葉亭は円朝の声のさらに先に行かねばならない。

 

 どうやら近代精神は書き手と読み手の孤独な対話(黙読)を求めていたのであって、それは密室での対話と喩えることができるようなものなのであり、それにふさわしい声を創り出さねばならなかったのです。

(まだ十代半ばで二葉亭の創り出したその声を読んだ蒲原有明は、「耳の端で親しく、絶間なくささやいて居るやうな感じ」と後に書いている。)

 

 そこで「翻訳」という手続きが登場するわけです。

 

 二葉亭はツルゲーネフの「あひびき」を翻訳することをとおして、つまり、一度日本の物語の文脈を遠く離れることで、しかも密会(あいびき)の場面を覗き見するという「秘密」を書き手と読み手が共有するためのささやきの声を創り出すことによって、円朝の声の限界を超えた。

 

 いや、ある視点からは、近代に向けて「超えた」、ということなのでしょうけれども、またある視点からは、近代にふさわしく「閉じた」というべきことなのでしょう。

 そう、声の場は閉じられる。声は孤独になる。大きな声、分かち合う声の場は、真ん中にひとつあればいい。

 

 日本の近代文学のはじまりを告げた声が、密室というきわめて私的な空間の声だったのだということを思えば、日本の文学風土において政治的なテーマが避けられがちであること、私小説が文学の大きな流れの一つでとなったことも大いにうなずけることかもしれません。

 

 それは、たとえば、近代との出会いとは植民地主義との闘いのはじまりであり、近代の達成とは植民地主義の残滓との闘いでありつづけてきた韓国の文学が、闘う場を開く声としての文学という大きな流れをそのうちに生み出していたのと見事に対照的な風景のようにも映ります。

 

 日本近代文学という名の150年の孤独。

 

 明治150年、近代も、近代を形作ってきた言葉も無残に崩れ落ちて、空虚な声ばかりが響きわたっている今、私たちはいまいちど、「限界」を超えるべき時期を迎えているのではないでしょうか。

 文学は密室の「孤独」を越える声を持つべき時を迎えているのではないでしょうか。

 

 しかし、いったいどうやって?

 

 

さて、今日も、

先日の55日の学外演習(@浅草木馬亭)に参加できなかった学生のために、

浪曲を一席。

 

学外演習では、「左甚五郎旅日記 掛川宿」と、いかにも浪曲らしい演題を大いに笑いながら聞きましたが、今日は玉川奈々福作の「浪曲百人一首」。これは新しい試み。ともかく体験、語りの声。

 

「玉川奈々福 浪曲百人一首」(20分)

 

 浪曲は語りの「最新型」というキャッチフレーズがあります。それは確かにそう。

宗教の布教の手段としての唱導や、神仏への祈祷・願文からはじまり、やがて道ゆく芸能者に担われた説経や山伏祭文から脈々と、大道を生きる場とした語りの声の千年を超える脈々たるつらなりを母胎に、文明開化の明治の世に生まれ出たのが浪曲。昭和のなかほどまでは日本人にもっとも愛された語り芸と言ってもおそらく過言ではない。昭和二十九年、ラジオの民間放送が始まった時から三十年代にかけて、ラジオから浪曲の流れぬ日はなありませんでした。

ある時期、多摩の農村地帯では説経祭文のひとつも歌えなければ男じゃないというくらいと言われていたように、日本人なら浪曲の一節くらいは知ってなくちゃね、くらいの勢いでした。長者番付にだって浪曲師は名を連ねました。

 

しかし、なぜ浪曲は、明治の世に誕生して以来、そこまで人びとの間に染みとおったのか?  (と、尋ねておきながら、この問いに対する答えは、また別の機会に。)

 

今日は、

浪曲とは、千年の語りの流れのその末に、きわめて近代的な声として現れ出たものである、

たとえば、説経祭文の声と浪曲の声の間には本質的な違いがある、

浪曲の声には近代の刻印がある、

その声の特徴はもしかしたら近代文学の声の特徴と重なるところもあるかもしれない、

ということのみを語るにとどめておきます。

 

しかし、気になるのは、浪曲やその従兄とも言うべき説経祭文の三味線の音色。

 

先週の説経・祭文から、ささら説経、説経操、山伏祭文、貝祭文、説経祭文と千年の流れを実演した説経語り八太夫が弾いた三味線の音は、ヴァイオリンのようには澄み切っていません、ビヨ―――ンと不穏に空気を揺らす、そのノイズ、その倍音こそが、三味線が放つ音の核心です。

ことさらに音を揺らす「さわり」という仕掛けが語りの三味線にはある。それは平家物語を語ったあの琵琶法師の琵琶もまた同じです。たった一本の絃を叩いて出す音ではあるけれど、梓巫女の揺れる響きの梓弓もまた同じです。

 

空気を揺すり、世界を揺さぶるその音は、異界への通い路を開く音である、

さまざまな声たちの響きである、

それは盲目の旅の語り部たちがその耳で感じ取っている世界そのものでもある、

その世界とは、目に見える存在も、見えない存在も、人間も、人間ならぬモノたちも、すべてが息づく場として聴き取られている世界でありましょう、

語りの声は、そのような世界からやってくる。

 

三味線に語りの声が乗せられるその前には、語りの声は琵琶とともにありました。

 

さて、遊行の琵琶の響きはこの列島にいつ頃から?

 

それはどうやら中世よりも前に大陸から九州へと入ってきたらしい。

九州に伝わる盲僧琵琶(注1)で唱えられる「仏説地神陀羅尼経」と、韓国の南端の島珍島の「読経(トッキョン)」と呼ばれる民間祈祷師の読む「仏説地神陀羅尼経」はかなりの部分が似ているらしい。

 

遊行の琵琶法師が文字として記された最初は十世紀末。

平安の半ばの頃の一〇九七年には、歌人源俊頼が北九州の芦屋の港で、こんな歌を詠んでいます。 

あしやといふ所にて、ひは法師のひはをひきけるを、ほのかにきゝて、むかしを思ひいてらるゝ事有て

 

なかれくるほとのしつくにひはのをとをひきあはせてもぬるゝ袖かな

 

港は人々が行き交う境界の地。そこには宗教者や芸能者や遊女も集まる。境界の地は異界を旅する者たちのよりどころでもあります。そこで源俊頼は琵琶法師の奏でる琵琶の音を聴いている。  

 

その響きは、やがて、戦乱の世を越えて、平家物語を語って旅する琵琶法師の琵琶の響きへとつながってゆきます。

琵琶法師たちは戦乱の死者の鎮魂のために物語を語ったのだといいます。

(小泉八雲「耳なし芳一」を想起せよ)

 

【職人歌合  琵琶法師と女盲】 

 

盲目の琵琶法師が死者たちをわが身に降ろして語るのであれば、それは死者たちの声で語られる物語となりましょう、

 

琵琶法師の体から生と死の境目を越えて放たれる声には、死者たちの数だけ、複数の声が溶け込んでおりましょう、

 

その声はさわりに震える琵琶の音、三味線の音と通じ合うものでありましょう、

 

死者の声を潜ませた語り手の声は、津軽のイタコや梓巫女の声にも相通ずるものでありましょう。

 

語りとは、そもそも死者たちとともに生きる生者の業なのであり、死者たちの声を知らぬ語りが人の心を震わすわけもありません、見えざる世界を聞くことのない声がこの世を震わすことなどあるわけもない。

 

「平家物語」とは、さまざまな場所で鎮魂のために語られた語りの声が文字にまとめられたものなのだともいいます。(注2)

 

今は絶えたその音の名残を大分県国東の盲僧琵琶で聴いてみようと思います。

残念なことに、この盲僧琵琶は、一九九六年に国東の最後の盲僧 髙木清玄師の死をもって途絶えています。

 

盲僧琵琶に続いて、伝統文化として保護されて今では舞台芸能となっている「平曲」(平家物語がいかに語られたかを偲ぶよすがに)、さらに盲僧琵琶と同様、宗教者であり芸能者である津軽のイタコが唱えるオシラ祭文、そして死者の魂を呼びだす梓巫女のびゅんびゅんと震える弓の音にも耳を澄ませてみましょうか。

 

 

「音と映像と文字による 大系 日本 歴史と芸能 第六巻 中世遍歴民の世界」より 「国東の盲僧琵琶/平曲/イタコ/梓弓まで」 20

 

 

さてさて、ここまで観て聴いて、いまいちど文学の問題に立ち戻ります。

湧きいずる問いがあります。

 

近代とは、文明と野蛮を切り分け、自他を切り分け、生と死を切り分け、目に見えるものと見えないものを切りわけ、人間と自然を切り分け、論理と非論理を切り分け、ウソとホントを切り分けるものであったと言えるでしょう。

そして、近代の文学の声とは、誰のものでもない、たったひとりの「私」の声。

 

しかし、切り分ける精神によって形作られた社会が破綻に瀕しているとき、

(それはもちろん3・11があらわにした近代の破綻を念頭においてのことですが)、

誰のものでもない「私」の声もまた、破綻に瀕しているのではないか。

 

それはつまり、近代世界を構築する言葉の源泉であった文学もまた破綻に瀕しているのではないか、ということです。

 

みずからの声の中に宿る無数の死者たちの声、切り分けることなどできない無数のナニモノカたちの声を忘れた近代的な私たちは、近代を乗り越え、いまいちど世界を書き直すための声を取り戻すことができるだろうか?

無数の声に開かれている場を取り戻すことはできるだろうか?

私たちは、「近代的な私」を、「他なるモノ」に開いていくことはできるのだろうか?

 

問いを重ねる私は、近代の無数の理不尽な死者たちの声を思いを馳せ、みずからの声に無数のナニモノカたちの声を潜ませて、150年の孤独を破る声を取り戻すことを企む文学の徒のひとりであるのです。

 

3・11以降、以前にもまして声の方へ、声の方へと向かいつづける福島出身の作家古川日出男が自作の小説「ミライミライ」の一部を朗読する声を聴いて、今日は終わりとします。

 

※興味があれば、こちらも。

  古川日出男×黒田育世×松本じろ×小島ケイタニーラブ「東へ北へ」 

 

 

(注1) 盲僧琵琶 / 地神盲僧

 

●中世以前に、大陸(朝鮮半島)から九州に伝来したらしい。

●かまど荒神や土地の神を鎮めるために、家々をまわって琵琶を弾きながら荒神祓い、地神祭を行う僧形の盲人。(新築儀礼・お祓い・祈祷)。

●宗教者であり、芸能者である。

●北九州と南九州の二派あり。そして浄瑠璃を語る肥後琵琶。

●祈祷のための経文、和讃、釈文にくわえて、「くずれ」と称して浄瑠璃や戦記などの語り物を語りもした。

 ●盲僧琵琶における芸能とは呪術である。

 

 

 

(注2) 平家琵琶

●平家琵琶は盲僧琵琶の影響を受けている。

13世紀初めに、信濃前司行長が慈円の扶持のもとで「平家物語」を作り、生仏という盲目法師に教えて語らせた、と「徒然草」にはある。

 

徒然草二二六段

後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の誉れありけるが、楽府の御論議の番に召されて、七徳の舞をふたつ忘れたりければ、五徳の冠者と異名つきにけるを、心うき事にして、学問をすてて遁世したりけるを、慈鎮和尚、一芸あるものをば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。この行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり。

 

●しかし、平家物語とはそもそも念仏の聖によって語られたものであろう。

高野聖による鎮魂の語り。それが琵琶法師にとり入れられていく。(by兵藤裕己)

 

●聖たちの語りの声がテクスト化され、そのテクストがまた声によって語りかえられてゆく。あるいは声によって語られるたびに、物語は生まれかわる。テクストは一つであっても、物語は無数である。