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学習院大学文学演習 第3回

今日だけの、前置き                        38度線は朝鮮半島だけを通っているのではない。

新潟・加治川~宮城白石 / 「白河以北一山百文」 / 北緯37度25分

 

「声/語り」のよみがえる場

 

 

 

さて、問題は、

声を取り戻すにも、声に出会うにも、いったいその声というのはどこにあるのか、

ということですね。

あらかじめ既に奪われていて、自分のもとにはないものを思い出すなんてことは至難の業というか、ほぼ無理ですからね。

 

 

 

 

  殺された声、封じられた声、捨てられた声はどこにあるのだろうか?

 

 それはあなた自身のなかにあるのだ、と本当は言いたいところなのですが、人間というのはそもそも自分の経験の枠の中でしか、物事を判断できないし、想像もできない、でも、その経験の枠というものが、既に誰かにあてがわれて嵌め込まれたものならば、それは真に自分自身の経験なのか、自分自身の想像力なのか、と問い返さざるをえない。

 だから、声を探しに行くならば、まずは、はなから枠の外に放り出されている人びとのところに行ってみる。と言いつつ、その「枠の外へ」という物言いの分かりやすさは実に危ういものでもあります。

 

 つまり、枠の外に聞きに行くという意識は、うっかりすると人びとを枠の内と外に分かっている構造を無意識のうちに受け入れることへとおのずと流れていく。「枠の内にいる私」が、「枠の外のあなた」のもとへ、そして、また「枠の内」へと、あまりに自然に戻ってくる、そして、「枠の外のあなた」は「枠の外」のまま、「枠の内の私」もまた「枠の内」のまま、日々はおのずと流れていく。

 

 だから、けっして、問いを手放してはならない。

 

 そこで、いまいちど、

 なんのために声に耳を傾けるのか?

 

(分かつ枠そのものを振り払うこと、突き崩すこと、分かたれた世界の、あまりに慣れ親しんだ(あるいは深く刷り込まれた)言葉から身を離していくこと、生きていく私がきちんと生かされる世界へと向かうための言葉をつかみとること、そうして世界を書きかえる言葉を手にすること、……)

 

 封じられ殺され忘れ去られるばかりの声なき声を聴く、沈黙にじっと耳を傾ける。

 それは、何も考えるまでもなくスムーズに回っていくかのような世界(=人々が安らかにのまれていく世界)を異化させていく営為であり、その沈黙のなかにこそきたるべき言葉があり、きたるべき世界がある。

 

 というわけで、今日、これから語られることは、そのような話となります。

 詩は、文学は、どこからどのようにして生まれくるのか、という話でもあります。

 

 

  さて、今日の本題。

 

 歌舞伎、文楽、講談、浪曲……、現在も日本のさまざまな芸能で演じられ語られている物語の源流の一つに「説経」があります。 

 たとえば、「山椒太夫」「小栗判官」「信徳丸」「石堂丸」「信太妻」「愛護の若」といった「説経」の物語があるわけですが、

 どれもこれもまあひどく遠い話、説経語りが村々や人々の間をまるで血液のようにぐるぐるとまわって旅していた時代なんてあまりに昔のことで、それを肌で感じるということは今では至難の業となっているわけですが、それを骨身に染みるまで、痛いほどに感じさせる希有な出会いが私にはありました。

 

 詩人谺雄二。

 1939年、7歳でハンセン病を発病。10歳から、82歳で亡くなる2014年まで、72年間ハンセン病療養所に生きた人です。

 その間、実を言えば、1948年に特効薬プロミンでハンセン病自体は治っていたのです。でも、国家によって「恩恵」という言葉をもって社会の外に隔離され、社会からは「差別」の眼差しで追いやられ、そうやって断ち切られた社会や人々とのつながりは結びなおしがたく、社会復帰はかなわない。

 

 この谺雄二が、ハンセン病違憲国賠訴訟の東日本原告団団長として起ち、国から「人間回復」の勝訴(注)を勝ち取ったのは、2001年のことでした。谺の言葉は、裁判闘争とそれにつづく国との果てしない交渉の支えでした。

 

(注:ハンセン病国賠訴訟は、1998年西日本原告団による提訴を皮切りに、東日本訴訟、瀬戸内訴訟がそれに続き、2001年の熊本地裁判決における西日本訴訟の勝訴と、それに対する国の控訴断念をもって、全面勝訴とするものです)

 

 ハンセン病回復者たちの人間回復のための闘いの理論的支柱であった谺の強靭な言葉はどこからやってきたのか?

 それを今日はドキュメンタリー「谺雄二 ハンセン病とともに生きる 熊笹の尾根の生涯」で観ていただくわけですが、先走って言うならば、こういうことだったのではないかと私は思っています。

 

「彼には詩があったから運動家としても筋を通してやってこられたと思うのです。詩があったからというのは、詩の根底に流れている彼なりの思想があったから筋を通して運動もやって来られた。その意味での谺雄二の強さというのは、文学あるいは思想を背景にした強さでもあったと思います。だから運動家としての、理論家としての谺雄二と言うのは確かにここにいるけれども、それは単なる入口で、その運動家の背後には詩を書く谺雄二、文学をする谺雄二、思想する谺雄二がいた。」

 

 これはドキュメンタリーの中で、実際に私が谺雄二について語っている言葉です。

 

 その谺雄二が、あるとき、谺を産んだ直後にハンセン病を発病した母の思い出をしみじみと語ってくれたのです。

 それはこんな瞽女唄の一節とともに、ありありと思い起こされた物語です。

 

 母は信太へ帰るぞえ、母は信太へ帰るぞえ。

 

 遠い昔、まだ幼な子であった頃に、母が涙を流しながら歌っていたその声が、八十歳にもなった谺雄二の耳の底に忘れがたく刻まれているというのです。

 

 母は、十番目の子であった雄二を産んだ直後に、ハンセン病を発病します。一度はハンセン病療養所多磨全生園に収容されたのですが、「こんなところは人間の住むところではない」と怒った父があらゆる手を尽くして母を療養所から取り戻し、母は家で家族とともにひっそりと療養生活を送っていた。それは昭和初期の東京の下町でのことで、国を挙げてハンセン病者狩りが行われていた時代に、いったい父はどれほどの努力をしたのか、往診の町医者も、近所の人々もけっして母のことを通報しなかった。

 

父はすごい人だった、心から母を愛していた、そう言う谺雄二は、同時に、母もまた愛情深い人だったとしみじみと語りました。

 

 鈴を鳴らして門口で御詠歌を歌うみすぼらしい巡礼や、三味線で物語を弾き語る盲目の女旅芸人の瞽女がやってくる、そう昭和の初期の東京の下町にも遊行の民はめぐってきていたのです、谺の母はわが家の門口に立った巡礼や瞽女を風呂にいれ、ご飯を食べさせた。

  

 後年、おそらくあの巡礼さんたちのなかにハンセン病の人がいたのだろうと母は語りました、が、けっして恨んではいなかったといいます

 

 母は信太へ帰るぞえ、母は信太へ帰るぞえ。

 

 あらためて、これは瞽女歌「葛の葉 子別れの段」の一節です。人間の女に化身して命の恩人の武士と結ばれて子をもうけた狐、その名も葛の葉が、その本性を子に知られて、泣く泣く子を置いて信太の森へと帰る、そのときに歌われる別れの歌です。

 

 ひとつ屋根の下にありながら、子に病が伝染らぬよう、常に子を遠ざけていた谺の母は、いつも涙ながらにこの歌を口ずさんでいました。末っ子の雄二が七歳でハンセン病を発病するそのときまで。末っ子の発病がわかったとき、母は自殺を図り、あやうく一命をとりとめた。以来、母は瞽女唄を歌わなくなった。やがて母と谺はともに療養所に入ることになる。

  

 「葛の葉 子別れの段」。

 これは説経「信太妻」を源に持つ物語です。

 舞台である信太の森自体が、賤しき者とされていた人びとの棲み処だったとも言われます。

 狐とは賤しき者を象徴するものとも言われます。

  賤しいとされて地べたを這いずるように生きる者たちの思いが溶け込んだ物語とも言われます。

 それを道行く盲目の瞽女が、長い物語の中でもとりわけ「子別れ」の場面を昭和半ばまで歌いついできたのですが、瞽女自身もまた盲目であるゆえに肉親と別れて漂泊の旅芸人として生きるほかなかった者たちです。

 

 旅する語り部とともに旅をする物語には、語られるたびに、語る者、聞く者それぞれの哀しみが溶け込んでゆく。

 

 実を言えば、「母は信太へかえるぞえ」の哀しいリフレインは、元の説経にはなく、瞽女唄ならではのものなのです。

 こうして歌い手・語り手によって物語も生まれ変わってゆく。

 

 思えば、瞽女唄を口ずさんでいた谺雄二の母は、ハンセン病ゆえに、いつかきっと人間の世界を追われて、子とも別れて、森/療養所へと行かねばならぬ母でした。

 ハンセン病者の哀しみが、「葛の葉 子別れの段」の物語の中の、本性があらわになって子を置いて森に帰るほかない狐の哀しみと響き合う。

 人びとは、そうやって、漂泊の民が語り伝える物語を聞いてきた。それは「説経」がこの世の辻で、宗教者(聖なる存在)なのか、物乞い(賤しき存在)なのか、見分けのつかぬ芸能者たちによって語られだした遠い昔から変わらぬ風景だったのではないのでしょうか。

 

 もうひとつ、「説経」とハンセン病は切っても切れない深い関わりがあります。

 

 たとえば、

 地獄からよみがえったものの身も腐り果てた餓鬼阿弥の再生の物語である「小栗判官」。この餓鬼阿弥とは、癩者(ハンセン病者)でありましょう。

 

 あるいは、

 継母に呪われて全身病み崩れ、目もつぶれる信徳丸もまた、「異例の病」と呼ばれる「癩」を病みました。

 

 癩者はいかに救済されるのか?  

 

 この問いは、この世の苦しみ哀しみから人々を救済しようという宗教者たちが、民に語って聞かせる物語の大きなモチーフであったはずです。

 

 説経「小栗判官」、地獄からのよみがえりの場面にはこうある。

 

 この者を、藤沢の御上人の、明堂聖の、一の御弟子に渡し申す。熊野本宮、湯の峯にお入れありてたまわるものならば、浄土よりも、薬の湯を上げべき」と閻魔大王様の、自筆の御判据わりたもう。あらありがたやの御ことやと、御上人も、胸札に、書き添えこそはなされける。「この者を、一引き引いたは、千僧供養、二引き引いたは、万僧供養」 

 

 見ず知らずの病み崩れた病者が乗せられた土車を、相模の国藤沢から、熊野修験の本拠地熊野まで、通りすがりの者たちが引いていく、引けば大いなる功徳がある。

ちなみに餓鬼阿弥のよみがえりの旅の出発点の藤沢の遊行寺は、信不信を選ばず、浄不浄を嫌うことなく、癩者を受け容れた一遍の時宗の寺です。熊野への旅路は、癩者も含めた弟子や信徒を引き連れての旅する踊念仏、一遍の旅路でもありました。

 

 また、説経「信徳丸」、呪いの場面にはこうある。

 

いたわしや信徳丸は、母上の御ために、御経読うでましますが、祈る験(しるし)のあらわれ、その上呪い強ければ、百三十六本の釘の打ち所より、人のきらいし異例となり、にわかに両眼つぶれ、病者とおなりある。

 

 呪われた信徳丸は、大阪の四天王寺の西門のあたりに捨てられます。そこは救いを求める癩者や物乞いが集まるこの世のはずれの場所でした。四天王寺は賤しき者、穢れた者たちの救済の場でありました。ここは「説経」の世界においても、まことに重要な場所です。

 

 漂泊の説経の語り手のなかには、この世に居場所を失くした癩者もいたであろうと言われています。

 

「癩と盲目からの救済の物語の背景には、乞食芸能者であった説経の徒の願望と共感が織りこまれているものと思う」と、『説経節』(東洋文庫)の解説に記したのは、語り物文芸の研究者である荒木繁氏でした。

 

 

  本日は、つづいて、

『谺雄二 ハンセン病とともに生きる 熊笹の尾根の生涯」上映