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学習院大学文学演習 第2回

 

声と語りの方へと向かうための助走! 

 

 

「日本国の国益だが言う物、もう真平なんだっちゃ」

(『吉里吉里人』井上ひさし)

 

文藝2017夏号 特別対談  赤坂憲雄×小森陽一

「東北独立宣言(とーほぐどぐりつすんべ)             ―井上ひさしをめぐる地方・言葉・文学」より。

 

 

 言葉がどんどん死んでゆく、あからさまに殺されてゆく2018年の春です。

 言葉を殺しているのは、この国の権力の中枢にいる者たちですね。

 それも強烈に「たった一つの正しくも美しい日本」という幻想にしがみついている者たちですね。あるいは、そんなことはないと分かっていながら、都合よくその幻想を使いまわしている者たちですね。たとえば、こんなふうにね、

 

「たった一つの正しくも美しい日本」のために、東北がんばれ、沖縄がんばれ、非正規労働者諸君がんばれ、女性諸君大いに活躍してくれ、みんなのかわりに、みんなのために耐えてくれ!

 

 あらためて日本の近代って何だったのか、民主主義って何だっだのかと、つくづくと考えます。これでは、まるで人身御供の民主主義ではないかと。

 

 

 たとえば、民俗学者宮本常一が『忘れられた日本人』で描いた村共同体、村の寄り合い民主主義というものがあります。それが根っこから断ち切られ、近代という仕組みにただただ従属するばかりの単なる行政区画、単なる町内会、隣組にすぎない集団に置き換えられてきた歴史がある。

 

 村共同体の核のところにあった「神」や「仏」(これは近代以前の、神仏分離令以前の、修験道廃止令以前の、万世一系に連なる中央集権的な神々の体系が創りだされる以前の、素朴な村の神、田の神、山の神、水の神的なもの)が、国家神道のなかに押し込まれたり放り捨てられたり破壊されたりして消されていった歴史がある。

 

 無数の素朴な神々とともにあった民の記憶、民の物語が忘れられていった歴史がある。

 

 そんな歴史に想いを馳せつつ、「東北独立宣言(とーほぐどぐりつすんべ)」の中で民俗学者の赤坂憲雄さんの言う、「明治以降に共同体や村を国家に従属させてきた大きなシステムに対する異議申し立て」をする場を取り戻すということ、つまり、国家とは別の共同性を持つ場を取り戻すことの意味と意義を深く考えたいのです。

 

 そして、それは、「今ここ」に「もうひとつのこの世」(ⓒ石牟礼道子)を眼差す場を開く、「今ここ」を突き抜ける言葉を紡ぎだすという点において、まさしく、きわめて文学的な営為であるのです。

 

 

 交通安全カンマンボロン/最強の魔よけのおまじない

 

 先日、かつての村の暮しの名残のかすかな宗教心とでもいいましょうか。数日前、青梅の塩船観音に新しく買い換えた車の安全祈願の祈祷をお願いしに行きました。祈祷してくれたのは、手に錫杖を持った修験者(=山伏)です。

 

 オンアビラウンケン  大日如来の真言ですね。

 カンマンボロン カンマンボロン 不動明王と一字金輪仏頂尊の最強の組み合わせ!

 

https://drive.google.com/open?id=1D-Uh4Bj5CWxH-2ClndQHLxWQCyDYxWjH

 

 塩船観音は多摩地域の修験の根拠地の一つ。ここには、人魚の肉を食べて死ぬことのできなくなった永遠の旅人「八百比丘尼」も祀られています。

 「八百比丘尼」伝説は塩船観音も含めて、福井の若狭を中心に日本全国116か所に伝えられている。その神秘のイメージは、その物語を語って歩いたであろう漂泊の熊野比丘尼自身とも重なり合っていく。これについては、山中太郎『日本巫女史』においても、柳田國男『山島民譚集』でも触れられているところです。

 八百比丘尼伝説のあるところ、生身の遊行の比丘尼がいた。そんな風景が浮かび上がってきます。

 

山伏と比丘尼。

 

 彼らは、近代以前の村々の人間と神々の仲介者であり、まじないや祈祷もすれば、物語も語る、そんな役割を担った者たちのひとりでした。

 

 神仏分離と同じ流れの中で発せられた明治5年9月15日の修験道廃止の太政官布達の折には、日本全国に山伏は約18万人(和歌森太郎『山伏』中公新書より)。当時の人口が約3400万人、およそ180人にひとりが山伏、つまり村にひとりは山伏がいた、というような計算になりましょうか。

 

 ちなみに現在の神主の数は2万人いるかいないかというところです。僧職は10万人ほど。現在の日本の人口は約1億2千万人、神職・僧職合わせて1000人にひとり。人口比でみれば、明治以前の山伏の存在感は際立ちますね。

  

 とはいえ、150年ほど前の今では遠い記憶です。

 まだ祈りと語りが一つのものであった頃のことです。

 さまざまな風土から立ち上ってくる神々や神にまつわる祈りと語りが、近代国家によって「淫祠邪教」として放逐されたり、万世一系の神々の物語の体系に組み込まれたりした頃のことです。

  

 さて、今日の本題です。「声」と「文字」と「記憶」をめぐる話。

 

 これからの話は、森鴎外『山椒大夫』に図らずもあらわになっているような、ひそかな声殺し(その背後にはあからさまな神殺し/記憶殺し)が進行していたこの150年の間に、私たちがすっかり忘れてしまった大事な何かを思い出し、取り戻すための扉を開く話です。

 

 

 まず最初の話。

 

「記録を持っている北里家の方では記録を見れば「そういうこともあったか」と思うことはあっても、日ごろはすっかり忘れているが、記録を持たない世界では記憶に頼りつつ語りついでいるためか、案外正確に四五〇年前以前のことを記憶していたのである」

                     (宮本常一『山に生きる人びと』より)

 

 昨年の夏のことです。九州の熊本(肥後)と宮崎(日向)を地底で結ぶという地底の湖を探して、熊本側から川の源流へとさかのぼり、山の奥深くへと入っていったのです。山道へと入ってゆけば、もうすぐにも目印の社がある、すぐわかる、という土地の人の言葉を信じて崖に沿って山頂へと向かう舗装されていない山道を車で登っていきました。右手は見上げる崖で、左手は渓流。困ったことに社は見えない。車を走らすほどに、道は細くなり、軽自動車でいっぱいいっぱいの道幅、子どもの頭ほどの石がごろごろと転がり、路肩は雨のあとで緩んで崩れている、社は見つからない、渓流はどんどん深い谷の底へと沈んでゆく、Uターンなどとてもできない、かといって到底車で走り抜けられそうもない、これはもう谷底に落ちるほかないと恐怖も絶頂に達した頃に峠の一番高みにたどりついたのです。ここを越えればもう宮崎。深い深い山の奥。そのあたりをあとでゼンリン地図とグーグルマップで見てみれば、途中で道は途切れていました。

 

 ともかくも、そこまでやっとのことでたどりついて驚いたのです。なにもない山深いその場所に墓があったのです。里の民のものとは思われませんでした。それがきっかけです、宮本常一の記す九州山中の落人村のことに興味を惹かれたのは。そこには記録と記憶をめぐる実に興味深い話が記されていました

 

 それは、肥後小国郷(現熊本県小国町)の北里氏と、宮崎県諸塚村桂山という凄まじい山奥のほぼ山の頂で稲作をして焼畑もして自給自足で生きてきた小さな落人の集落の間で交わされた記録と記憶の話。

 

まずは記憶の話です。時系列で。

 

1513年(永正10年)、阿蘇惟長(兄)が阿蘇惟豊(弟)から阿蘇宮の大宮司職を奪い返そうとして争いが起こる。

 惟長は薩摩の島津の力を借りる。惟豊は日向の甲斐氏を頼る。しかし、惟豊の軍は島津にやられて四散し壊滅する。

 惟豊の部下で阿蘇小国郷の領主北里伯耆守為義は日向の高千穂に逃れ、さらに山を越えた南の諸塚の桂山で自決して果てた。

 そこで家来の一人が伯耆守の遺骨を葬り、墓石をたて、墓守として住み着いた。それが今もつづいている桂山の甲斐氏となる。

 伯耆守の死から450年の間に家は5軒となり、桂山の甲斐氏の本家は諸塚神社の宮司をしている。宮司の家だけはいっさい百姓をせず、肥料を手にせず、墓を守り続けてきた。

この桂山の甲斐氏には、みずからの一族が北里伯耆守の家来の子孫であり、墓守をして現在に至るという伝承があります。でも、それを記録する文書はありません。

 

 

次に、記録の話です。

 

 小国郷の北里氏は、阿蘇兄弟の永正の合戦の後に立ち直り、明治の世まで小国郷を支配する。ちなみにこの北里氏は日本の近代医学の父とも呼ばれる北里柴三郎の一族です。

 この家の古文書のひとつ「北里軍記」には伯耆守戦死の一条がある。系図にも「墓地高千穂七ツ山桂村ニ在馬見ヨリ七里ヲ隔ツ」とある。

 だが、北里の家の者が桂山を訪ねて墓参したことは昭和32年まで、ほぼなかった。そもそも記録文書を見ることがほぼなかった。この「ほぼ」という言葉に、「記録」と「記憶」の間に横たわる深い谷があるというわけです。

 

 さあ、日向の山中の桂山の甲斐氏一族の記憶と、肥後の小国の北里氏一族の記録を突き合わせてみましょうか。

 

 昭和32年、450年の時を経て、北里家の当主が初めて桂山へと北里為義の墓参に訪れます。当主は「北里軍記」に書かれていることの真偽を確かめようと思ったのですね。

 甲斐氏は北里家の当主の訪問に、ついに殿様の子孫が訪ねてきたと大喜びする。そのとき、甲斐氏のほうから、80年余り前に、小国の北里の者だと名乗るおばあさんが訪ねてきて一週間ほど滞在したという記憶を語るのです。このおばあさんは肥後の小国の北里の家では蚕を飼っていると語り、家の者たちにも必ず墓参させると言って帰っていったのですが、それきり音信は途絶えてしまった。

 

 その話を聞いた北里家側で戸籍を調べてみれば、一族のうち七十歳を過ぎて行方不明になった女性がひとりいる。その女性が行方不明になった頃、北里家では確かに養蚕をしていた。その女性は不運にも、日向の桂山から肥後の小国への帰途に遭難したのか病に倒れたのか。険しい峠を越え、阿蘇を越えてゆく、山また山のその道は、年老いた女性の足ではおそらく片道で少なくとも3日はかかりましょう。

 

 口承で伝えられてきた日向の桂山の甲斐氏の記憶は、北里家の記録と見事に符合した。それは北里家では思い出されることもなかった記憶でした。しかも、甲斐氏は、桂山で北里為義の墓守となったその経緯も語り伝え、それは北里の家では文書に閉じ込めてすっかり忘れ去られたことだったのでした。

 

 今日もまた、問いひとつ。

 

人びとが声を手放し、文字に記憶を委ねたとき、人間と記憶の間にはなにか根本的な変化が起きるのではないか?

 

それは人間と言葉の関係にも本質的な変化ももたらすのではないか?

 

人間と言葉の関係性が変われば、人は言葉で世界を構築する存在である以上、人間の生きるこの世界のありようもまた根本的に変わっていくのではないか?

 

 

 次の話です。

 

 日向と肥後の間の記憶と記録の話に、私は、530年間、朝鮮からの漂流者の記憶を歌って語って祈ってけっして忘れなかった与那国の人々の話を想い起こしました。

今を生きる私たちの想像を超えた、記憶を語り伝える声の力の物語です。

それを語るには、まずはこの歌。

  

バガリグリシャヌ    別れづらいけれど

マブイバ クミティ   魂を込めて

カジニ ヌシティ    風に乗せて

ウグイ ヤダラシャヌ  送っていかせたのに

カジヌ タユイヤ    風のたよりも

ミヌンドー       ありゃしない

 

ナンヌ タナガヌ    波のただ中の

ウスヌハニ       潮の中に

ンダ スディヌ     君の振る袖が

ンナリ カグリ     見え隠れしている

 

 

 与那国島で530年にわたって歌いつがれた歌です。おそらくこのような調べで歌われたのではないか。

 

https://youtu.be/ECMMDy00kD4 (与那国のユンタ)

 

 一四七七年、与那国島に済州島からの船が流れつきました。漂流船からは3名の異人が救助された。彼らは半年ほど与那国島で過ごした後に、島から島へと送られて、朝鮮まで送り届けられ、ついに漂流から2年3か月後に故郷の済州島へと帰りつく。その経緯が「朝鮮王朝実録」という朝鮮側の文書に残されていたのでした。

 

 3名は、与那国島をはじめとする八重山や沖縄の島々の見聞を朝鮮の役人に詳細に語った。その記録は、八重山諸島の民俗の研究者にとっては非常に貴重な証言なのだそうです。

 

 さて、この記録をめぐって、なにより驚かされるのは、それが530年間にわたり与那国島で語り継がれ、歌いつがれてきた3名の異人(フガヌトゥ)にまつわる記憶とほぼ一致していること。そのことがわかったのが、まさに530年後のこと。それは、長い年月にわたってフガヌトゥの記憶を語りついできた与那国島の、その伝承を知る最後のひとりが、偶然にその話を八重山の民俗の研究者に話したことからわかったことなのでした。

 

 与那国島の人びとは3名の異人(フガヌトゥ)を大切に扱い、友情を育み、彼らが島から旅立つと、旅の無事を祈って歌をつくった。

 3名は無事に帰り着いたのか、ずっと心にかけつづけて、その歌を530年間歌いついできたというのです。ときには、与那国の山の神、海の神、里の神に、フガヌトゥが無事故郷に着いたなら、その知らせをくださいと祈ったのだそうです。

 そうして祈りつづけて530年、ついに与那国島の最後の記憶の伝承者が、フガヌトゥが無事故郷に帰りついたことを知るわけです。

 

 記憶を歌いつぐその声の芯には祈りがある。

 歌の力は声の力、祈りの力。

 その歌は祈りだから、祈りが届くまで歌いつづけるほかはない、

 言葉とは、祈りとは、それほどに人間にとって重いものである、

 それを近代的な私たちはいつのまにか忘れて生きている。

 

 

 最後にこの話を。

 

 八重山の島々には「歌う者が歌の主」という言葉があります。

 歌は誰のものでもない、たとえば、ある歌の調べは確かにみなが共有しているものだけれども、その調べに誰かが想いや祈りをのせて歌うとき、その歌は歌っている者のもの、誰もが自分の歌を持つことができる、誰もが自分の祈りを歌うことができる、だから、一つの歌が同時に無数の歌でもある、唯一の正しいオリジナルがあるのだ、という発想はここにはない。

 

 このような世界では、「語る者が物語の主」、一つの物語が同時に無数の物語でもありうるでしょう、無数の物語が語られる無数の場が開かれることでしょう。

 

 そこには、「唯一の正しい物語」を共有する人々が集う「唯一の正しい場」としての「国家」という、いかにもナショナリスティックな閉じた世界を揺るがす可能性が宿っていることでしょう。

 

 はじまりの歌/世界の大洪水のあとで

 

 ところで、人間が祈りをこめて記憶を歌いついできた、その最初の歌はどこからやってきたのか?

 

それについては、台湾の先住民のひとつ、プヌンが語り継いできた歌の記憶の教えがとても魅力的です。

 

 歌を持たなかった人間に、歌を教えてくれたのは、木や草や風。歌えば、風に揺れる木の葉の音のようにおのずと八重唱に分れるプヌンの歌声は、おのずと木や草や風と通い合う。

 

 これもまた私たちが忘れ果てた歌のはじまりの風景です。

 

 

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以下、補足

 

宮本常一『庶民の発見』より

 

<伝承をめぐって>

 

「言葉によって伝承せられる社会では、言葉は信じられるものであり、また実践せられるものでなければならなかった」

 

「言葉をおぼえることが村の道徳を身につけることでもあった」

 

※かつて、小豆島四海村小江の若者組では、なんと原稿用紙にすると85枚になる

 「イイキカセ」を加入にあたって覚えさせられたのだという。

 正月二日に若者入り、そして十五日までには覚えた。(昭和25年当時)

 

 

<文字を持たぬ世界>

 

「文字をもたない世界にあっては言葉は神聖なものであり、威力あるものと考えられた。呪言が相手の人間に不幸を与えると考えたのもそのためである。また、人々が不幸について語るとき「これは自分のことではないが……」と前置きして話しだすのも、その不幸が身にかからぬためであった。」

 

「今日、昔話として採録せられているものの中には、神楽・祭文、その他神事舞踊の詞章であったと思われるものがすくなくない」

 

※これには山伏、比丘尼、遊行の徒の持ち運んだ物語との関わり。

 

「内地の各地でも、庚申の夜だとか、大晦日の夜などに昔話の語られたのは、昔話が神祭りから完全に分離していないことを物語る」

 

※くりかえし、語ることに意味がある。語ることで世界は生まれ変わる。

「ここに大事なことは農民の頭の中にあった神の姿は、われわれが歴史の書物でみるミズラ(上代の男子の髪形)を結い勾玉を首にかけた人ではなく、自分の周囲の人たちとたいして変わった支度をしていないが霊力をもっていることである」

 

「ただ門付だけでは、それら遊行者の語り物の詞章は一般民衆の中へ伝承としてとけこむことはすくなかったと思われる。一種の師檀関係の成立が、遊行者と民衆をかたく結ぶなにより重要な鍵となるのである」

 

 

【庚申講について】

 

起源は中国の道教であるとされている。

人間の体内には三匹の尸(し)、 または彭(ほう)=虫が潜んでおり、庚申(かのえさる)の夜、人が眠っている間に抜け出して天帝の もとに上り、その人の罪や過失を告げて命を奪わせるという。眠らなければ三匹の虫が 抜け出せない、ということでその夜は眠らずに身をつつしんで過ごさねばならないとする。

そのための禁忌を道教で守庚申といった。

日本に伝わって変化し、徹夜とつつしみの行事は残ったが三尸虫の伝承はなくなり、行事にともなう 会食・談笑のほうに重点が移っていった。

道教の守庚申は日本では「庚申さま」という信仰対象を 祀って礼拝する形となり、その行事が交歓の機会ともなった。

「庚申さま」の本体も青面金剛菩薩、阿弥陀仏、観世音菩薩、大日如来、地蔵菩薩、不動明王、 帝釈天、猿田彦、道祖神など様々である。これらの神仏は現世利益をもたらすとされており、道教の 天帝とは全くことなった、福の神の性格を持っている。

 

 

<川田順造『聲』(ちくま学芸文庫)より  P238>

 

黒人アフリカ社会では一般に、人間は決して集合的に認知されてはいない。人間を、課税の対象、投票の員数、労働力、軍事力として、脱個性的に、互換性をもった等質の単位によって数量化し、集合的に扱うのは、むしろ近代西洋に発達した思考だ。アフリカの村落の住民を、人口何人という形で、数量化して把握するようになったのは、ヨーロッパの植民地統治に伴って人頭税がとりたてられたり、強制労働や軍隊に住民がかり出されるようになってからのことだ。アフリカの小さな村や家族で、その首長に彼の村や家族の成員が何人かと訊ねても、答えは返ってこないのが普通だ。だが、個別に、誰と誰がいるという形でなら、誤りなく列挙できるのである。老婆も、壮年の男も、幼児も、ひとしなみに頭数で表わすのは、不条理でさえある。

  

 ※普遍的思考から零れ落ちるもの、もしくは収まらないもの。人間にとってきわめて大切なもの。