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学習院大学文学演習 第1回

学習院大学 文学演習第1回    

オリエンテーション

 

 

まずは溝口健二の映画「山椒大夫」の話から。

(予告編 https://youtu.be/1TSo4GBi1xI

 

 

 

 

 

 これは1954年にヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を取り、フランスのヌーベルバーグの旗手ゴダールの映画『軽蔑』や『気狂いピエロ』のラストシーンにも、この映画へのオマージュがあるような、そういう意味では、映画好きにとっては見過ごすことのできない戦後日本映画の一つとも言えるでしょう。

 

 そしてまた別の意味でも、この映画は興味深い。

 声から文字へ、人間が世界認識をするうえで何を手がかりとするか、その比重が劇的に移り変わっていった明治以降の日本の、いわば名残りの声によって生まれでた映画のように思われるのです。

 

 映画の原作は森鴎外『山椒大夫』。これはさらにさかのぼれば、中世より漂泊の民が語り伝え、日本のさまざまな芸能や物語の原型ともなっている口承芸能<説経節>のなかでも、とりわけ有名な「さんせう太夫」を下敷きにしています。

 

 つまり、この映画、ざっくりとわかりやすく言えば、古代ギリシャの叙事詩をハリウッドが映画化したようなものなんですね。

 

 ちなみに「山椒大夫」と同じ1954年に、ホメロスのギリシャ叙事詩「オデュッセイア」を原作にしたイタリア映画「ユリシーズ」が作られています。主演はカーク・ダグラス。

(ちょこっと観る  https://youtu.be/9RQPKmZPCgs?t=51m30s  

 この場面は、オデュッセウス一行の船が、歌で人間を惑わせるセイレーンたちの海峡を通り抜けるところ)

 

 さらには2000年には、こちらはハリウッド映画ですね、やはり「オデュッセイア」を下敷きにした「オー・ブラザー!」が製作されている。主演はジョージ・クルーニー。

(予告編  https://youtu.be/oRNa5VzKP6Q  

 セイレーンの誘惑の場面ももちろんあり。)

 

 ここで注目したいのは、欧米では2000年代に到ってもギリシャ叙事詩「オデュッセイア」の物語を共有する人々の厚い層があり、構想3000年をキャッチフレーズに娯楽映画が成立するということ。

 

 一方、「山椒太夫」。

 50年代から60年代にかけて、映画の世界では溝口だけでなく、東映動画というディズニーアニメの日本版を狙った一大プロジェククトの一作としてアニメ映画「安寿と厨子王」が1961年に登場しています。

(予告編  https://youtu.be/2gR7kyF7Sa0

 

 また、1960年代~70年代の子供たちの間では、童話「安寿と厨子王」もまた、ある程度共有されていた物語です。この童話は、森鴎外の「山椒大夫」を子供向けにしたもの。わが家にもありました。

 ところが、「山椒太夫」の物語はこの時期の盛り上がりを最後に、あっという間に忘れられてゆく。本当にあっという間に。中世より脈々と道をゆき、それを語りついできた漂泊の語り部たちの存在とともに。

 

  素朴な問い、ひとつ。

 

 なぜ「山椒太夫」は忘れられてしまったのだろう? 古臭いから?

 

 でも、「オー・ブラザー!」のキャッチフレーズにならって言えば、映画「山椒大夫」なんてたかだか構想1000年ですよ。

(じゃ、なぜ、古代ギリシャの物語は、欧米においてはいまだに広く共有されているのだろう?)

 

 ものすごくざっくりとした、想定される答えをひとつ。

 

 明治維新という、一極集中の、欧米を範とする近代化の運動が始まったから。

 

 1954年の映画「山椒大夫」の話に戻ります。

 ある意味、この映画は自由・平等・平和を謳う戦後日本の新たな息吹を感じさせる映画でもありました。

 

 戦前・戦中は国家が正しいとする歴史と齟齬があるような研究や発言や表現は封じられていた。が、ようやくその呪縛が解かれた戦後に、活気を取り戻した歴史界の研究成果も得て作られた<歴史映画>という試みの一つが「山椒大夫」とも言われています。

 

 映画の時代設定は千年前の人身売買も奴隷労働もあたりまえの平安時代。でもそれは借景のようなもので、映画自体のメッセージは、廃墟からの新たな出発をめざす戦後の日本にとってはきわめて現代的で現実的で切実なものです。

 自由・平等・平和。奴隷解放を願い、自由・平等・平和を願って、その願いと引き換えにすべてを失くした者が、生き別れになった母親とめぐり逢って泣きながら抱き合う場所は、津波ですべてを流された浜辺でもある。

 

 ここには、森鴎外の近代文学としての『山椒大夫』の気配は漂っているが、日本という土地を千年ものあいだ漂泊し、さまざまに語り継がれてきた説経節の気配はもうありません。

 

 これはのちのち触れることになりますが、そもそも大正4年の森鴎外『山椒大夫』の時点で、ひそかに説経節殺し/声殺しが行われています。そこには、明治の近代人鴎外の近代意識が大きく働いてもいる。(cf  西成彦『胸騒ぎの鴎外』人文書院)。

 

 ここで、この話は本演習のテーマとつながってくるわけです。

 

 本演習のテーマを、あらためて、ここで言います。

 

  声を奪われつづけた近代世界の果ての今の時代、

 (とりわけ3・11以降の今、あからさまにボロボロじゃないか、

   あからさまに力ずくで声は封じられているじゃないか)

 

 だからこそ、いま、ふたたび「声」のほうへ、「語り」のほうへ。

 

 近代のはじまりとともに、「ひとつの大きな声/大号令」のもとに、「ひとつの日本」という意識のもとに人びとがくくられてゆく、

(人びとのさまざまな声がひとつの大きな声にのまれたり、封じられたり、盗まれたりしてゆく)、

 

 「ひとつの日本」。

 

 それは、いつしか、まるで太古からそうであったかのように語られるようになる。

そうして創りだされた大きな流れのなかには、近代以前と近代以降の間の見えざる大きな断絶が隠されています。

 そして、それを今では私たちは、まるで記憶喪失者のようにすっかり忘れ果てている。

 

 いまいちど、いったい、この列島は、ほんとうに、太古からずっと「ひとつの日本」だったのか?

 

 私たちの失われた記憶を取り戻し、封じられた声を取り戻すとき、そこには新たな世界認識、社会認識、人間認識が呼び出されるのではないか? 

 

 私たちは取り戻した「声」を手がかりに世界再生の道を拓くことができるのではないか?

 

 そんなひそかなテーマ/野望が、本演習には潜んでいます。

  

 今年は明治150年と盛んに言われていますね。

 そこには、それを言い立てる人びとの何らかの意図ももちろんあるわけですが、

 明治以来、とりわけ戦前・戦中には、目にも明らかに、国家がその根拠として新たに創りだした「ただ一つの正しい国史」にますます人々がきつく縛り上げられていったわけですが、

 また今もなお「何が正しい歴史なのか?」ということが常に論争を呼んでいるところでもあるわけですが、

 つまり、明治維新による近代化というのは、国家による歴史の一元化、中央集権化という形で如実に表れている、それを別の言葉で言うならば、その国史自体が万世一系の天皇神話をその核心に置くものであるわけだから、歴史の一元化とは、国家による神々の一元化であったとも言えましょう。

 

 この問題をめぐっては、歴史学者の安丸良夫さんに、『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書)という非常に刺激的な本がありますが、そのタイトルが示しているとおり、近代化とは神々の世界も含めた近代化であって、それは風土に根づいて人々の心や暮らしに深く結びついていた素朴な神々を排除して消してゆく神殺しの過程でもありました。

 

 それは神々と結びついていた人びとの記憶、声によって共有されてきた物語を殺してゆく過程でもありました。

 

 その意味で、神々の明治維新とは、「山椒太夫」をはじめとする声によって語り伝えられてきた漂泊の語りの行方と、実に深い関係にあるのです。

 

 この150年の近代化の流れを、「文学」という視点から眺めやるのであれば、

「声」による「語り」から、「文字」による「文学」へという抗いがたい流れがそこにはあります。

  

 同時に、3・11以降、私たちの生きるこの近代は根底から問い直されて、たとえば石牟礼道子の「語り」が紡ぎだす文学がひときわ大きな注目を集めているように、「文学」において「声」を取り戻すということはいよいよ大きな課題となってきました。

 

 そして、なによりも大事な根本的な問い。

 

 「わたしたちのめざすところ。

    声や語りがよみがえるとき、そこはどんな世界なのか?」

 

 単なる復古主義で声を取り戻すとか、言いたくはないですからね。

 思うに、そもそも、放たれてもすぐ消える声によって共有される世界と、刻まれ記され消えることのない文字によって共有される世界は、根本的に異なるはずです。

 

 標準語という近代語をベースに作られている文字表記ではボロボロと零れ落ちるほかない、風土と結びついた声の多様性を想い起こすということは、ただ単にこの列島にはたくさんの方言があったし、いまもある、ということではすまない、多様性をめぐるより根本的な思考を呼び出すものでもあります。 

 

 答を先回りして言うならば、

(この答えが一年後、本演習が終わる頃に、知識としてのみならず皮膚感覚として落ちてくることを目指しているのですが)、

 ともかくもそのめざすところは、たった一つの中心、たった一つの真実に縛られる世界ではなく、無数の中心が遍在し、その場に根差した真実が中心の数だけ存在するような世界であり、そこでいう真実とは、人間のみならず生きとし生けるすべての命に向き合う倫理、誠実さによって担保されるような真実である、ということです。

(それを近代的な意味での「真実」と呼ぶのかどうかは、また別の話ですが)。

 

 それは、私自身が、ここ数年、「山椒太夫」を語る声を追いかけて、旅をして、実感したことです。

 さらには、その旅と時空を超えて響き合う『ラディカル・オーラル・ヒストリー オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』(保苅実 お茶の水書房)という非常に刺激的な論考をとおして、さらに確信したことでもあります。

 

 不思議ですよ、日本の近代が壊した(もしくは忘れた)この列島の世界と、アボリジニの世界が響きあうのですから。

(さらに付け加えて言うならば、それは、沖縄の聖なる島・久高島の神人(かみんちゅ)と海人(うみんちゅ)によって形作られている世界にも脈々とつながりくる響きのようにも思われました)

 

 「山椒太夫の旅」「ラディカル・オーラル・ヒストリー」については、またいずれこの場で語ることとなりましょう。

 

 ということで、今日から、この教室で、声のほうへ、語りのほうへと、出発です。

 

 その手がかりになるのは、今までの話の流れから、もうこれは当然ですね、

 中世より遍歴の芸能者によって、日本の物語のひとつの原型としてさまざまに語り継がれてきた説経のうち、森鴎外の近代文学「山椒大夫」の下敷きにもなった説経「山椒太夫」を基点に、さまざまな「山椒太夫」を読んで聞いて「語り」の世界に分け入っていきます。

 

 三味線を抱えた祭文語りをはじめとする漂泊の語り部の末裔たちもまた物語を携えて、声の場を開くために、この教室にやってくることでしょう。

 

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以下、補足。

 

◆日本人はどうして宗教心を失ったのか? という、歴史学者網野善彦を歴史研究に駆り立てた大きな問いの一つを、私もまた共有しています。

 

この宗教心という言葉で思い起こされるのは、2018年2月に亡くなった作家石牟礼道子の文学世界です。近代の病に侵された水俣を出発点に人間の生きるべき「もうひとつの世」を描きつづけ、3・11以降とりわけ大きな注目を浴びた作家です。いま文学に携わる者たちにとっては仰ぎ見るような存在にもなった作家です。

 

この石牟礼道が「あのものたち」と呼ぶ存在、つまり、鳥獣虫魚のような小さき命や目に見えぬ存在までをも含み込んだ、この世のすべての命に対する敬意、畏れを意味するものとして、私は網野善彦の言うところの「宗教心」を受け取っています。

 

もっとも基本的で素朴な倫理というふうにも思っています。

それは、国家が教育の場で良き国民を作るために指導する道徳とは根本的に異なるものです。

 

 

◆民俗学者 宮本常一『庶民の発見』より。 

 

 明治39年(1906)に児童就学率は96.4パーセント。 文字の浸透。 

 

「学校教育は国家の要望する教養を国民にうえつけることであったが、それは庶民自身がその子に要求する教育とはちがっていたということに大きなくいちがいがあり、しかも両者の意図が長く調整せられることがなかったために、学校における道徳教育が形式主義にながれ、村里のそれが旧弊として排撃せられつつ今日にいたったために、村人たちは苦しみつづけてきたのである。」

 

 

「明治以来の日本人の道徳教育が、日本人の日々の民衆生活の中から必然の結果として生まれでたものではなかったということにおいて、公と私のはなはだしく不調和な、道徳に表裏のある社会現象を生みだすにいたった。」

  

「文字による教育は人々を記憶にもとづく伝承から解放し、思考と探求を自由にし、国全体の文化を飛躍的に高めていった」

(高められた国全体の文化とは、いかなる文化なのか? という問いは当然にある)

 

そして、以下が大事。

 

「それ(公と私のはなはだしく不調和な、道徳に表裏のある社会現象)は一つには、村里の慣習や教育を学校教育が目の敵のようにして排撃したことによるともいえる」

 

「そして民衆は自らのもつ文化を否定することによって、国家的権威に服していったのである」

 

◆また、アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』

(野谷啓二 訳/堀田義太郎・田崎英明 解説発行元 : 洛北出版)で語られる世界もまた、

本演習と響き合うものです。