学習院大学 後期文学演習第9回

 詩人小野十三郎のことを語りたいと思います。

 

「リズムは裏切らない。リズムは批評であり生活である。そしてそれが過去から流れてくるものではなく、未来からくるものであるとすれば、リズムはいわゆる生活ではなく、生活の可能性である。」(小野十三郎『詩論』228)

 

「悲しみと怒りの極まるところで新しい方法を持て」(『詩論』232)

 

 

 つい最近、2018年11月4日のことです、奈良でとあるブックカフェに入ったときのことでした。古い民家を改造した畳敷きのカフェで、書棚には、目立つところに、熊野・十津川を拠点に山の生活を書きつづけてきた宇江敏勝、水俣の渚から声を放ち続けた石牟礼道子、そして水俣病関係、日本語の破壊を目論見つづけた詩人金時鐘等々、まあ書棚を見るだけでここのオーナーの精神世界も垣間見ることができるような、そんなブックカフェだったのですが、ふっとした拍子にオーナーと言葉を交わしたわけです。

 すると、オーナーはかつて大阪文学学校の事務方をしていたという。
 大阪文学学校と言えば、小野十三郎に大きな影響を受けた詩人金時鐘が長らく詩の講座をもっているところでもあります。

 そして、その方が言うには、『苦海浄土』が出版された頃に大阪文学学校が石牟礼さんに講演をお願いしたことがある、自分が講演依頼の電話をしたが、石牟礼さんはそれは受けかねるという返事だった、ところが小野十三郎先生が電話を代わって直接石牟礼さんに講演依頼をしたところ、石牟礼さんも断るにも断れず、とうとう受けてくれた、と、大略このような話だったわけです。

 小野十三郎、石牟礼道子といきなり二つの名前が飛び出して、その二つの名前をつなぐ見えない線は、詩人金時鐘、さらには詩人谺雄二へとつながっていく。

 風土に根ざして、そのアニミズム世界を根拠地に、異形の語りの声をもって近代世界を突き崩そうとした石牟礼道子に対して、同じく近代世界とそれを支える日本語を突き崩さんとしながらも、依って立つ風土も声もあらかじめ根こそぎ奪われていた、奪われていたからこそなおさらに、生き抜くために、ラディカルな日本語の破壊と創造へと向かった二人の詩人、金時鐘と谺雄二がいる。

 私は、旅の途中で偶然入ったブックカフェで、あらためて、近代と風土と声、それをキイワードのようにして必然のようにつながっている彼ら詩人の営みに思いを馳せる、そんな時間を持つこととなったのでした。

 

 日本近代がその貧しき近代性ゆえに、必然的に外に向かって暴力的に拡大していくほかなかった、その賜物としての植民地から生まれ出た在日詩人と、同じく貧しき近代国家を内側から支えるロジックとしての排除の論理とその典型的な現われである民族浄化の象徴的存在として日の丸のシミと呼ばれたライ者の詩人と。この二人の詩人の破壊的で創造的な詩の言葉は、ともに、小野十三郎の詩論に大いに刺激されたものでありました。これはとても重要なこと。

 

金時鐘はかつて、「詩、それは俗性との闘い  ――小野十三郎から私は何を学んだか」という一文で、このようなことを言っています。

 

「私はかつて、在日朝鮮人の苦難の最たるものは、産土神に寄り添える拠点がないことだ、と書いたことがあります。」

(これは先にも触れたところですが、金時鐘の生きる場所が、石牟礼道子とは実に対照的な位置にあることを如実に語る言葉でもありましょう)

 

「日本人は必ず、どこに住もうと、宗派を越えて氏神を共有し、盆踊りや祭りを一緒にしたりする。」

 

ところが、小野十三郎は違う、と金時鐘はいうわけです。日本が1930年代初頭、15年戦争を経て大東亜戦争に突入しようという時期、国民総動員、忠君愛国が叫ばれていた真っただ中にあって、小野十三郎は郷土観念を否定した。

 

「裏返せば、これは日本人の相対的な考え方や体質、秩序に対して、反旗を翻しているということなんです。日本が一丸となり、十五年戦争の終末に雪崩を打って突入していった時代に、一極集中を否定し郷土観念をなくしていくということは、拠りどころを一つに糾合しようとする物心両面の暴力に対する、判然とした個人の反旗ですよ」

 

そして、金時鐘はこうも言う。

「日本の抒情詩がもっとも盛んだった頃、人々は十五年戦争に雪崩を打っていたのです。」

「抒情には批評がないのです。」

 

批評精神を持たない抒情、郷土愛を謳う抒情、日本人の思考体質・物の見方、子どもの作文から大人が書く手紙一本にいたるまで、その情緒を規定し、一色にまとめあげる抒情、そういうものを全否定してみせた小野十三郎の『詩論』に震えた金時鐘は、かつての自分の抒情にまつわる経験をこう振り返るのです。

 

「私に植民地がやって来たのは、物理的なものとしてではなかった。非常に優しく美しい日本の歌として、私の植民地はやって来ました」「抒情というものは、本当に恐ろしいものだ」

 

「妻子を置いて国元を離れ、何千キロも離れた広漠たる地の果てで感傷に浸る時、自分らが蹴散らし殺し焼き尽くした人たちの悲哀には思いが一つも行かない。それが抒情なんだ。そして自分たちはきれいな人間だと思っている。親子の情愛は美しいと思っている。」

 

そういう思考の習慣を形作ってゆくのが抒情です。5・7・5、5・7・5・7・7.いわゆる日本的詩歌の抒情のリズムです。このリズムで感情すらも作られてゆく。

 

だからこそ、リズムは批評なのだ、人間の生理の波長を飲み込むリズムを知り尽くしているからこそ、そのリズムから人の生理を、感情を、思考を解き放とうとするとき、そこに言葉に対する苛烈な批評精神が生まれる。と小野十三郎は言い、金時鐘はその言葉によって日本的抒情の呪縛からばっさりと解き放たれ、新たな日本語の創造に向かった。それはまた、日の丸のシミであった谺雄二にも起こったことなのでした。

 

さらに言うならば、関東大震災の朝鮮人虐殺を自身にとっても切実な恐怖として体感した折口信夫が、その経験を短歌では歌えなかった、「砂けぶり」という短歌的なリズムをもたない、折口にとってはそれまでとは異なるリズムで歌いだされるほかなかったということにもつながることでありましょう。

 

小野十三郎『詩論』220 

「短歌的リリシズムの強烈さに想到せよ。それはファッシズムの精神温床となったほど強烈であり、いまはよく「天皇制」を護持し得るほどに強大である。詩人は敵におっかぶせて物は言わない。詩人とは自己の抒情が古いそれと質を異にしているという自覚を唯一の価値と心得ている人間のことだ」

 

この言葉を引きつつ、金時鐘は「詩」を、生き方の次元に置いて語るべきものとして、単に「詩」ではなく、「詩的行為」という言葉をもってこう定義づけます。

 

「馴れ合わなければ生きていけない状況の中で、馴れ合うまいとする自分を見届けること」

「自分は今、日々をどう過ごしているだろうか。馴れ合わない自分を持ち続けているだろうか。自分を省察するその時間を持ち続けることが、詩的行為です」

 

そして、金時鐘は、「詩、それは俗性との闘い」という一文の最後で、このように言い切るのです

 

「あるがままでありたくないという思いによって、書く行為は始まるべきであり、そこから見つけだすものこそ詩であり、文学であると私は思っています。私にとっては、書く行為よりも、詩を生きることの方がより重い命題なのです」

 

この在日の詩人金時鐘の生き方は、ハンセン病を生き抜いた詩人谺雄二の生き方と、その厳しさにおいて響き合います。あらかじめ彼らの郷土を根こそぎ奪い去り、拠り所を持たぬ心を抒情でからめとろうした近代精神と対峙し、闘いぬく詩的精神がここにはあります。

 

そして、いまいちど言いますが、ひそかに響き合い、ともに日本語を叩き直すような詩を生み出していった二人の背後には、人間精神を十把一からげに縛り上げ、思考も感情も一色に作り変えてゆく「郷土」とそれに深く結びついた「抒情」を徹底的に否定した詩人小野十三郎がいたのです。

 

 

というわけで、2015年5月に亡くなった詩人谺雄二への追悼文として書いた(谺雄二と小野十三郎、そして金時鐘の関係にも触れた)一文を最後に置いて、本日の締めくくりとします。 

 

 

ここに生きる  ――詩人谺雄二と千年ブルース――

                     (三田文学2018年8月号所収)

 

 

 

 死んでも死なないライのブルース

 

 それは全くいつもどおり、いかにも谺雄二らしい、律儀というか、お茶目というか、厄介というか、不可思議な出来事だったのでした。

 そのとき、詩人谺雄二は、群馬県草津のハンセン病療養所栗生楽泉園の病棟にて肺がんのために生死の境をさまよっていた。私は楽泉園で催されていたハンセン病市民学会に泊りがけで参加していて、谺さんが病棟から「おーい!」と呼んだなら聞こえるほどの距離の面会者宿泊所石楠花荘の一室に、見送る覚悟を胸に、うつらうつらと控えていたのですが、夜更けにわけもなくぱっちりと目が開いてしまった。暗闇に死の影を見てしまう小心な私は、部屋の外、長くて真っ暗な廊下の端にある洗面所に行くこともできず、ひとり悶々としている。と、不意に、電源を落としていなかった携帯が、リンドン。音を立てた。

LINEです。明日は月曜だというのに、こんな夜更けに、堅気の仕事をしている娘から朗らかに、

「おかあさん! わたし、二番目を妊娠したみたいよ」

人騒がせな……。

時間を見れば、午前三時五四分。ようやく眠り込んで、次に携帯が鳴ったのはまだ夜明け前、五時半過ぎだったでしょうか。ハンセン病市民学会の事務局長からの電話でした。

「谺さんが亡くなった!」

跳ね起きて部屋を飛び出す。外はまだ薄暗い。谺さんが安置されたという霊安室へ走る。 楽泉園職員に尋ねる。息を引き取られた時刻は?

「午前三時五四分に亡くなられました」

 

 谺雄二。享年八十二歳。詩人、ハンセン病国賠訴訟東日本原告団団長、全原協会長、ハンセン病市民学会共同代表、栗生楽泉園自治会副会長、べらんめえ、東京の下町生まれだ、色気のあるじいさん、少年の目、私の文学の友、歌の友。

 

 到底忘れられない。

 二〇一四年五月十一日午前三時五十四分。

 この日、この時刻に、大切な人がひとり、この世から新たな旅へと出発して、同時に、新たな旅人がひとり、この世へとやってくる、その知らせも確かに私は受け取った。

それは、つねづね、半ば冗談、半ば本気で、「死ななきゃならなくなったとしても、死ぬふりだけでやめとくか」と語っていた谺さんの言葉どおり、(一応死んではみたけど、死んでなんかないよ、姿は見えなくても、生きているよ、いのちはここにあるんだよ)、とこっそり耳打ちするかのような、遊び心あふれる知らせでもあるようで、悲しいやら嬉しいやら茫然と夜が明けていきます。

 ほら、いま、そこの長四角の箱の中で赤ん坊に戻ったみたいに小さくなって、深い眠りに落ちて死んだふりの谺さんと一緒に、谺さんのあの詩、「死ぬふりだけでやめとけや」を、ひそかな声で、静かに激しく歌ってやろうか。

 

 

 ぢいさまが 死んだとォ

   カン カン カン カン 鉦たたけ

 きのうも きょうも 山ふぶき

  ひる だかよう よる だかよう

   この尾根の 哭きあれる 日に

 喰わなく なって 唄わなく なって

   オレたちの ぢいさまが 死んだとォ

 

 <ふゥるゥさァとォわァ いィずゥこォ>

   オレたちの顔を 打ち 骨 凍らせて

 この尾根に もえたつ 白の山ふぶき

  妙な唄 だったぜ

   念仏みてぇに くりかえしたぜ

 一ふしだけの ライの ブルース

  カン カン カン カン 鉦たたけ

 

 ここは にっぽん ライの尾根

   ぢいさまは クニを追われて 四十年

 どこの 生まれか 妻子は あってか

  だァれも 知るもの いやしねェ

   ライに かかって いちどは 死んで

 きょうまた 死んで どうなさる

   ぢいさま このつぎァ どこで死ぬ

 

 カン カン カン カン 鉦たたけ

   どうせ 行き場が ねェんなら

 ぢいさまよォ 死ぬふりだけで やめとけや

  オレたちが この世から 滅べば

   汚点が消えたと 笑うやつらが いる

 笑わせて たまるか 生きてやれ

 

  国を売るのも そいつらだ

   この尾根に オレたちを追い立て

 オレたちに首をしめつけ

  ぢいさまの 眼と 手指を

   その唄と いのちを

    にぎり潰した チクショウめらだ

 カン カン カン カン 鉦たたけ

   そいつらの 素ッ首 かならず刈る

 

   ふぶき やまなきゃ やむ日まで

  よるが 明けなきゃ あけるまで

 ぢいさまよぉ 死ぬふりだけで やめとけや

 

 鉦 うち鳴らし 奪われた いのち

  にっぽんの ライ オレたちの

 <ふゥるゥさァとォ>を とりもどせ

  カン カン カン カン 鉦たたけ

 

 谺雄二はこの「ブルース」を一九六五年に三三歳で初めて歌って、それからおよそ半世紀、谺(ここからは敬称略!)がいうことには、生きながら死んだものとされている「鬼」の村で、あるいは、目隠しされた世間の目には映ることのないハンセン病療養所で、カンカンカンカン見えない鉦を打ち鳴らして歌いつづけてきたのです。

 想い起こせば、谺は、一九三九年にほんの七歳でハンセン病を発病し、十歳からはもうずっと、社会からも未来からも過去からも断ち切られた療養所の囲いの中。太平洋戦争の敗戦間際には、同じ療養所で同じ病の母を飢餓のなかで亡くしました、(病ゆえに盲目となっていた母はウジに食われて死んでいった)、敗戦直後には、看護師との恋に破れ、生きる力を失くした兄に死なれた、(それはほとんど「いのち」に対するあてつけのような死にようだった)、そのうち、まだ二十歳にもなる前に、療養所のまったく揺らぎそうにもない塀の中で狂気にとりつかれ、それでも生きるのか? いや生きるのだと、生き抜く言葉を探して猛烈に詩を書きはじめた。(それは自分ひとりのいのちではない、母のいのちも、兄のいのちも背負って、生き抜こうとするものだった)。

 そして、谺が当時を振り返って語ったことには、じたばたと暗中模索するなかで、やがて小野十三郎の詩論に出合って大いに共感したのだ、抒情とリズムが馴れ合うばかりの定型なんか打ち捨てて、自分の息遣いで自分の歌を歌うのだ、それもただ歌うんじゃない、歌う自分自身の抒情の底には思想が脈打っている、そういう詩を歌うんじゃなきゃつまらんだろう、詩を書く甲斐もないだろう、と。

 これは実に興味深い話。ハンセン病療養所と同じく、日本の中の見えない町である「猪飼野」で詩を書きつづけてきた済州島からの密航者、在日の詩人金時鐘もまた、小野十三郎の「詩論」との出合いによって、萎みそうだったいのちに息を吹き込まれたことを思わずにはいられません。金時鐘は、つながるものを何も持たぬ日本にあって、まずは、無批判に条件反射のように抒情がはりつく日本語からわが身を引きはがし、(彼はかつては植民地の忠良なる少国民、抒情豊かな日本語の見事な使い手だった)、そしてさらに日本語から無批判な抒情を引きはがして、日本語を打ちこわして、新たな抒情のリズムを日本語にカンカンカンカン打ち込んで、そうして詩を書いて生き抜くことの覚悟を得たのですから。

 見えない町に生きる、見えない者たちが、おのれの心といのちと意思を刻み込む日本語がある。それは、目に見える町の、目に見えるものばかりに目を奪われている住人たちが操る、目にも耳にも分かりやすい日本語とはおのずと違ってくることでしょう。

おそらくほとんど誰の目にも見えてはいなかったけれど、小野十三郎を結び目に、谺雄二と金時鐘は確かに同じ地平に立って歌いつづけていた。そして、この見えない町の詩人たちの破格の歌声は、谺雄二が深い敬意を寄せる詩人であり、楽泉園詩話会の三代目の講師であった村松武司の、心の底から絞り出される言葉とも響きあった。

 朝鮮の植民者の子として京城に生まれ育った村松は、日本の近代とはライと朝鮮を切り捨てることで成り立った近代なのだと言いつづけました。朝鮮で日本人の癩者を見ることのなかった村松は、戦後、日本に引き揚げて初めて日本人癩者に出会います。そして、癩と貧困と戦争と植民地支配は深く結び合うものであることを痛切に思い知る。それは同じく植民者の子であった詩人森崎和江が、知らず知らずに植民地の風土を愛して貪ってしまったという原罪意識を抱え込み、原罪に傷むいのちを苦しみながら生きざるをえなかったことにも通じます。その森崎和江が植民地から日本へとやってきて、何よりも驚いたのは、見知らぬ人々が他者に向ける意味不明の微笑。微笑とともに、あっという間に個は自他の境なく集団に溶かし込まれてしまうこと。

 同じ声で同じ顔で同じ言葉で同じ心でわけもなく仲睦まじく歌うな!

これは、見えない町を棲み処とする詩人たちの叫び。そして、療養所の囲いの中にありながらも、同じ時代を生きる詩人たちとひそかに確かにつながっていた谺雄二の叫びでもある。

むやみに人をつなげる批評精神なき言葉からまずは切れること、そして、みずからのいのちの必然のなかから、つながる言葉を紡ぎだすこと。それが大事。

 たとえ家族や社会や故郷や未来と断ち切られても、断ち切られた勢いで、すがるように何かにつなげられたり縛られたりするではなく、そのような無闇なつながりこそをさらに断ち切って、そのうえでみずからの意思でつながる言葉を、身悶えたり地団太踏んだり吠えたり泣いたり笑ったりしながら探して、彷徨って、歌うこと。それが大事。

 そうだ、絶望してもカラカラ笑うんだ、ラングストン・ヒューズのようにね。そんなことも谺雄二は語りました。ハーレム・ルネッサンスの黒人詩人ラングストン・ヒューズ、その詩はブルースだ、どん底の悲しみの芯に笑いを宿らせて歌うブルースだ、俺もブルースを歌おう、俺のリズムで歌ってやろう、療養所の塀の中でめそめそ泣いてなんかいられるか、そううそぶいて、カンカンカンカン見えない鉦を打ち鳴らす、谺雄二のライのブルース。

 一九九六年、ようやく念願の「らい予防法」廃止が実現しても、ライのブルースは低い声でうたわれつづけた。二〇〇一年、ハンセン病国賠訴訟の東日本原告団団長として全面勝訴を勝ち取っても、音もなくブルースは流れつづけた。療養所の年老いた入所者たちの死を待ち望むかのように無為無策の国家との闘いに追われ、詩を書く時間すら奪われていった勝訴の後の十数年も、ついに生身の肉体をなくして、目には見えぬいのちそのものになった今も、谺のブルースはそこにある。それは、この世に傷ついたいのちがあるかぎり、歌い歌われつづけるほかないブルースなのだから。

 ねえ、そこのあなた、あなたには聞こえる? 聞こえるのは、耳打つ大音声の歌ばかり? そういうのは聴くとは言わずに、ただ聞かされている、と言うのでしょう。歌はみずから歌い、みずから聴くもの。歌わされたり聞かされたりでは、それはもう、歌としても、人としても、まことにつまらない。「歌う者が歌の主」とは沖縄の八重山の唄者たちの言葉だけど、その伝で言うならば、「聴く者もまた歌の主」なのではないでしょうか。

 そう、谺雄二は、よく歌う者です。そして、よく聴く者。

 三つ子のころから歌は傍らにあったのだと、かつて、谺は懐かしい目をして、谺のもとに歌がやってきた頃のことを語って聞かせてくれた。それは谺の亡き父と母をめぐる話でもありました。

 

 

 母は信太に帰るぞえ

 

 谺の両親は、埼玉の農村から駆け落ちして結ばれた夫婦でした。父は地主の息子、母は小作人の娘、許されぬ仲。東京に駆け落ちした二人が、最初に訪れた場所はなぜか靖国神社。父はスタスタと境内にある遊就館にひとりで入っていってしまって、母はとても不安な気持ちになったという。

 谺の父は、いつもスタスタと歩く人でした。たとえば、年端もゆかぬ子供を連れて出かけた先でスタスタ歩いて、おとうさんを見失った子供が諦めてひとりで家に帰る。あるいは、おとうさんが道の向こうからスタスタ歩いてくる、子供がおとうさんとは反対側の歩道で遊んでいる、その姿は見えているはずなのに、おとうさんは真っ直ぐ前だけを向いてスタスタと通り過ぎてゆく。

 含羞の人だったのだといいます。子供と一緒に歩くとか、子供に声をかけるとかが、恥ずかしい。おそらく妻と一緒に歩くのも恥ずかしい。

 そう、こんなこともありました。荒川の土手を幼い谺はおとうさんに連れられてスタスタ散歩している。ポンポン船が川を下ってゆく。船の甲板には洗濯物が旗のように翻っている。「いいなぁ、あれ」と谺が船上生活に憧れて、夢見るような声をあげる。すると、おとうさんがまことに真面目な声で、「あれはあれで、つらいんだよ」と言う。そっか、あれはあれでつらいんだ、幼い谺はその言葉を心に刻んだ。そのとき谺は、スタスタ歩くおとうさんは、ただ歩いているのではなく、見えない何かを見ている、そんなことを思ったのだといいます。

 父は子供も妻もとても大事にした。駆け落ちからはじまって、スタスタとわが道をゆく父だからこそ、世間の掟も国の法律も目もくれずに通り過ぎて、ハンセン病を病んだ妻と子供をけっして手放そうとはしなかった。どうしようもなくなって療養所に入れざるをえなくなっても、入所者は本名を捨てて新しい名前を付けなおすという療養所の慣習など、スタスタと無視。自分が子供につけた名を変えることなど、絶対に許さなかった。

 そして、その父にこよなく愛されて、十人もの子を産んだ母がいる。ちなみに谺は十番目の子供。物心ついたときには、既に母はハンセン病を発病していて、療養所に一度は強制収容されたものの、父が手筈を整えて母は療養所を脱走、家の奥でひっそりと療養生活を送っていました。

 おかあさんは本が好きだった。講談本をよく読んだ。おかあさんは街の紙芝居も好きだった。紙芝居屋がやってくると、飴代を子供らに持たせて、おかあさんが臥せっている部屋の前の路地で、すだれを降ろしたままではあるけれども、紙芝居をやってもらうのです。おかあさんは紙芝居の語りの声を楽しんだ。

 家の近所に旅の者が行き倒れていると子供らが騒いでいるのを聞けば、様子を探らせ、食べ物を届けさせ、旅人はどうした、元気になったかとずっと気にかける。

 ちんちんかん、ちんちんかん、家の門の前で鈴の音がすれば、巡礼さんがやってきたと、おかあさんは子供らに小銭を持たせて巡礼さんに差し上げさせる。まだ病気になる前は、巡礼さんを家に上げて、お風呂に入れて、ご飯を食べさせた。

 巡礼さんがやってくる道は、瞽女の来る道、いやいや、駆け落ち前に暮らしていた埼玉の農村は、きっと養蚕も盛んだったはず、養蚕が盛んな地には瞽女がくる。蚕は瞽女唄を聴くと美しい糸を吐くといいますから。おかあさんがいつどこで、瞽女唄を覚えたのかはわかりません。でも、ハンセン病を病んで、家の奥まったところに臥せっていたお母さんは、聞き覚えた瞽女唄を歌っては涙していたのです。

 

 さればによりてはこれは又

 いずれにおろかはあらねども

 よき新作もなきゆえに

 もののあはれをたずぬるに

 蘆屋道満白狐

 変化葛の葉の子別れを

 

 瞽女の祭文松坂「葛の葉の子別れ」。 

 安倍保名に命を助けられた狐がその御恩を返そうと、保名の許嫁の葛の葉姫に化けて保名のもとに現れる。やがて狐は保名の子を産み、それが後の陰陽師安倍晴明となるのですが、まだ晴明が童子丸と呼ばれた幼き頃に、この母たる狐はうっかり狐の本性をあらわにしてしまい、信太の森へと帰らざるをえなくなる。母は眠る童子丸に向かって別れの言葉をかき口説く。

 

 母の云うのをよくもきけ

 そちを生みなすこの母が

 にんげんかえと思うかえ

 まことは信太にすみかなす

 春乱菊の花を迷わする

 千年近き狐ぞえ

 

 母は信太へ帰るぞえ

 母は信太へ帰るぞえ

 

 信太の森。それは、谺の母が一度は強制収容されて脱走してきたハンセン病療養所多磨全生園の別名「柊の森」にも重なります。

 さても、いつかは森へと帰らねばならぬ宿命を背負った、人間ならぬ狐の母が、涙ながらに幼子に厳しく言い聞かせることには、

 

 でんでん太鼓もねだるなよ

 蝶々とんぼも殺すなよ

 露地の植木もちぎるなよ

 近所の子供も泣かすなよ

 行燈障子も舐め切るな

 

 何を言うてもわかりゃせん

 道理ぞ狐の子じゃものと

 人に笑われそしられて

 母が名前を呼びだすな

 

 この瞽女唄を、谺の母は狐の化身となって歌うのでしょう。谺の母は、わが子におのれの病をうつしてはならぬと、谺が生まれてこのかた、一度として乳もやらなければ、抱きしめもしなかった、その母が狐となって、谺に歌い聞かせる、その歌の文句は、

 

  離れがたないこち寄れと

  ひざに抱きあげ抱きしめ

  これのういかに童子丸

  そちも乳房の飲みおさめ

  たんと飲みゃえのう童子丸

 

 それは乳をやりたくともやれぬ母の祈り、乳を飲みたくとも抱かれたくとも母に触れることすらできなかった谺の願い、旅ゆく瞽女が歌い語る声に涙したすべての母と子の祈り、何十年、何百年と、この旅する物語を歌いつぎ、聴きついできた者たちの、あるいはちんちんかんと鈴を鳴らして道ゆく巡礼たちの、生き難さを越えて生きよ、生きよ、生きてやると切に祈る無数のいのちの声が溶け込んだ、そんな歌を幼い谺は聴いていた。

 幼い谺の願いが叶って、ようやくおかあさんに抱きしめられたのは、谺自身がハンセン病を発病した七歳のときのこと。このときから母は「葛の葉の子別れ」を歌わなくなりました。しかし、歌わない母のその歌声は、谺の体のなかを絶えることなく流れつづけた。それは歌を失くしたすべての死者たちの歌声のようでもありました。歌は生と死のあわいに生きるいのちのほうから、時を超えて、滔々と、流れてくるようでした。

 母と言えば、歌と言えば、いのちと言えば、思い出す、「母は信太へ帰るぞえ、母は信太へ帰るぞえ」。 

 ぼくの詩の原風景はここにあるのかもしれないと、ふっと思い出したように谺がつぶやいたのは、谺がこの世をあとに旅立ってゆくちょうど一年前のこと。

 ハンセン病国賠訴訟で全面的に敗訴してもなお悠々とのらりくらりの国との闘いは、負けたはずの国がまるで勝者のようで、谺にとっては年老いてゆく肉体の時間との闘いの様相を呈して、肉体が滅びて当事者が消えてしまえば、ともに消えゆくような行間も余白もない理詰めの闘争の言葉への焦燥もつのって、その末に、ふっと……、

 ああ、ぼくは、あの母の子なのだ、あの母を愛したあの父の子なのだ。谺は懐かしい心でしみじみとつくづくと亡き母と父を想い、だからこそ、ぼくは歌わなければなるまい、いのちを歌いついでいかねばなるまい、と確かな声で語ったのでした。

 瞽女の祭文松坂「葛の葉の子別れ」は、さかのぼれば説経節「信太妻」。この世のはずれ、地べたに生きる、人であるのに人ならざる者たち、そこに在るのに見えない者たちの祈りの力で歌いつがれ、語りつがれてきた、千年の歌物語、千年のブルース。

 その歌の心を受け継ぐ者として、谺はようよう名乗りを上げた。それは二〇一四年五月一二日、熊本にて催されたハンセン病市民学会でのことでした。

 

 

 ここに生きる

 

 しかし、そんなにとんでもなく無茶な話でもなかったように思うのです。

 千年先まで届く声で歌ってよ。楽泉園に谺を訪ねるたびに、私は谺にそうささやきかけた。すると、とんでもないことを平気な顔をして言うんだ、この人は、と谺は答えて、ニヤリとした。

 そんなやりとりを繰り返しつつ、夕刻ともなれば草津の町へと繰り出して、私たちは実によく飲んでよく歌いました。

 谺の十八番は長渕剛の「とんぼ」、氷川きよしの「箱根八里の半次郎」、渡哲也の「くちなしの花」、堀内孝雄の「ガキの頃のように」、そして尾崎紀世彦の「また逢う日まで」。それが最後になるとは知らず、二〇一四年十二月も末の雪降りつもる日に、谺が朗々と歌う「また逢う日まで」を私はほんの思いつきで録音していたのです。

 

 また逢う日まで、逢えるときまで……

 

 しゃがれた声で歌いだす谺雄二のその声で、二〇一四年五月十一日から何度も読み直す、最晩年の谺のブルース、「ここに生きる」、その最終連。

 

  鏡から眼を移し窓越しに空を仰ぐ

  くしゃみ出るほどのその青さにたじろぎながら思う

  人間のふるさとは何処か

  それはあくまで偏見・差別を煽る撲滅政策に抗し

  「人権」そのものをしかと見極めたところ

  だとすればこの熊笹の尾根こそその場所

  いまなお犠牲絶えぬたたかいの歴史を踏まえ

  この尾根にきっと人権のふるさとを創りあげるため

  私はここに生きる

 

 張りつめた静けさをたたえた谺のブルース、その歌声を聴く者たちが、このブルースを生み出した「いのち」を、おのれのいのちに響き合わせて、百年先、千年先まで届けるのでしょう。届けられた「いのち」は、百年先、千年先のその場所で、ブルースを口ずさむのでしょう。

 無数のいのちと響きあった谺のいのちは、そうして千年のいのちとなるのでしょう。