学習院大学 後期文学演習第8回

本日は『苦海浄土』シリーズ 最終回。

 

石牟礼道子さん没後にNHKで放映されたドキュメンタリーを観ます。

 

これ、なにがすごいかって、

石牟礼さんの顔がだんだん狐になっていきますよ、

狐になりたかった幼き日の大廻りの塘のみっちんに還っていきますよ、

 

ご覧あれ!

 

そして、『苦海浄土』シリーズ 締めくくりの文章です。

 

かなしみよ、水になれ、光になれ

(『石牟礼道子 (KAWADE夢ムック 文藝別冊)  2018/5/28 所収)

 

 

それは、遠い夢のような記憶でした。

石牟礼さんが天草・島原の乱を生きて死んでいった人びとに出逢うために、そして長編『春の城』にその声をよみがえらせるために、天草・島原を旅して歩いたのが一九九一年から九七年までのこと。その旅のはじまりの頃に、どういういきさつでそうなったのか、私は石牟礼さんのお供をして天草・島原を歩いた、というおぼろな記憶があるのです。たぶん、天草四郎を大将として戴いた三万もの切支丹の民草が籠城して殺されていった(はる)の城の跡を島原に訪ねている。本渡の鈴木神社では、乱の後に天草代官となった鈴木重成にまつわる話を宮司さんからじっくりと聞いた。海辺の旅館に泊まって石牟礼さんと一緒に温泉につかった。そんな時間が確かにあったはず。

でも、その時間が『苦海浄土』から『春の城』へと時空を超えてつながってゆく遥かな旅の一部だということを、当時の私は知らない。その旅の意味を体感するほどには私自身が熟していない。それは浅い夢のように無邪気に過ぎて、あっけなく忘却のなかに消えた。そのことを、石牟礼さんが亡くなって、もうひとつの『苦海浄土』である『春の城』を初めてじっくりと読んで、いまさらつくづくと思い知ったのでした。しかたない。地を這う者たちの声を(うつつ)のものとして感じとるには、石牟礼さんの旅が私の人生と交差するには、自身のうちに湧きおこる衝動に突き動かされ、みずからの体で地を這い彷徨う旅の年月が必要だったのでしょう。

あれから二十七年、いまは二〇一八年春です。足元から根こそぎ大きく揺さぶられた二〇一一年の春を経て、世の中はますます濁って、あることはなかったことにされ、言葉は芯を抜かれ、恐怖や憎しみを煽る声は力を得て、ますます生き難い私は、いま、『春の城』の中で名前と肉体と魂を与えられた民草の命がけの声に耳を澄ましている。その声が甘露の水のように自分の魂に染み入ることの哀しみと痛みと歓びをしみじみ噛みしめている。

「世の中の腐れ落つるのが肥やしになって、まことの国が生れはすまいかのう」と、夫を殺された島原の物狂いの老婆が言う。彼らの生きる世界には、「音もなくひび割れてゆくような気配」が満ちている。そこでは、人びとは、虫の声に「いとも小さきものたちの無数の声」を聞き、それを「遠い先祖たち」の声として聞きとり、「生き替わり死に替わりして受け継がれて来た人びとの深いかなしみ」を心に宿らせる。

世界は哀しい。人間は哀しい。でも、哀しみを知る者たちの世界には、生きることの歓びがある。生きとし生けるすべての命への慈しみがある。もうひとつのこの世への深い祈りがある。そんな哀しみと祈りとを身に降ろしては、命を削って語りつづけた石牟礼さんの声。それは、私には、油断するとすぐにも何者かに断ち切られるこの世の命の水脈をくりかえしつなぎなおしてゆく果てしない声のようにも思われます。命の水源のありかを告げる声のようにも思われるのです。

石牟礼さんと水。と言えば、忘れがたい三つの旅。

一つ目。熊本地震の直後です。私は三味線で弾き語りをする祭文語りとともに、石牟礼さんの『水はみどろの宮』を歌い語って東京から熊本まで、人々と祈りを分かち合う語りの旅をしました。熊本は私にとっては二十代後半から二十年近くも暮して、人も土地もわが人生の一部となっている場所。そして、『水はみどろの宮』には、まるで予言の書のように熊本を襲う地震とそこからのよみがえりが語られていた。

そう、この世は、この世の底の湖の穢れを祓いつづける千年狐や、月夜の山の祭りに集う鳥獣虫魚や草や木や、目には見えないモノたちの「かそかな美しい音」を聴く耳を持つ者たちのひそかな祈りによってよみがえるのです。それは、まるで、ル・クレジオが伝えるパナマの密林に生きる人びとの、この世界が洪水に襲われぬようにと夜を明かして祈りつづけるあの歌の祭りのよう。

わたしたちの命は、わたしたちの知らないどこかで、わたしたちの知らない命たちの祈りによって救われている。だから、地震直後の熊本へと向かう旅の先々で開かれた語りの場に集うわたしたちは、見知らぬ命たちへの感謝を胸に、熊本のよみがえりを祈りました。わたしたちは月夜の祭りに集う鳥になり、虫になり、草になり、木になり、獣になり、祈りつづけた。

その翌年のことです、『水はみどろの宮』の中でこの世の底の湖の入口として描かれる穿(うげ)の宮が、熊本と宮崎の県境に実在するお宮で、それは緑川の源流にあり、「みどりの宮」とも呼ばれていることを知ったのは。すぐに訪ねました。山間の集落を通り抜けて、さらに山深く分け入り、もうここから先は断崖絶壁にはりつくような恐ろしい道しかない、そんな険しい渓谷の底の、さやさや清水の流れる沢に「穿の宮」はありました。そこに立てば、石牟礼さんがこの穿の宮まで来ていたこと、この山々を歩いていたこと、かそかな美しい音を聴いていたこと、そんなひそかな旅がよみがえりの物語をこの世に呼び出したのだということがありありとわかる。穿の宮。命の源流の水。手を浸し、足を浸してみる。はじまりの水の声に耳を澄ます。はじまれ、はじまれ、よみがえれ、私もまた水の流れに頭を垂れて祈りました。

二つ目。二〇一七年冬、足尾への旅。水俣のことに関わりはじめた頃に石牟礼さんが深く心を寄せたのが足尾鉱毒事件です。そのことを知ってはいたけれど、それまで私の中に足尾に向かう必然がなかった。私を足尾に呼んだのは、庭田源八という老農の声。足尾銅山が流した鉱毒ゆえに川も土も荒廃した渡良瀬川下流の羽田村の住人です。源八翁は耐えかねるような声で「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」を書いた。それが明治三十一(一八九八)年のこと。

源八翁は季節の記憶を手繰り寄せながら語ります。

「白露八月之節也。最早菜種を蒔きまする節に御座ります。彼岸の中日の三日前に蒔きます。(中略)此時分、菜蒔とんぼと申しまして、日中午前十時頃より午後三、四時頃迄、青空に一面に蜻蛉が飛びかいました。何万何千何億と言う 限りありませんかった。鉱毒被害以来、更におりません」

「大寒 十二月の節に相成りますと、狢や狐等が多く、人家軒端や宅地等を多く回り歩きました。狢はガイガイガイガイと鳴き、狐はコンコンコンコンと鳴き、インインインインと啼くもありました。(中略)鉱毒被害のため、野に鼠もおりません。虫類もおりません。(中略)二十歳以下の青年諸君は、右等の事は御存知ありますまい」

 源八翁は、鉱毒被害で失われた野や川の鳥獣虫魚のような小さな命たちのことを細かに愛情深く書いては、「二十歳以下の青年諸君は知りますまい」と言う。二十年も経てば、どんなに身近にあったものでも人は忘れていくのだと哀しみの声をあげる。この声を初めて聴いたとき、石牟礼さんの声を聴くようだと思いました。この声に呼ばれて私は足尾を訪ね、鉱山の煤煙で山が死んだ渡良瀬川上流までさかのぼっていきました。明治の世に早くも赤い山肌がむきだしになった禿山には保水力もなく、人びとの命の水脈だった渡良瀬川は濁り水の暴れ川となり、鉱毒をまき散らした。そして近代国家は国家の発展のためという名目で一企業と結んで、有無を言わさず人間の命も鳥獣虫魚の命も踏み潰した。水俣で繰り広げられた恐ろしい光景の出発点を、私は足尾にまざまざと見るようでした。命の水脈を断つところから日本の近代は始まったのだと、あまりに遅くあまりに痛切に思い知りました。

 水。思い返せば、初めて石牟礼さんと出会った三十年前に、石牟礼さんが熱心に語っていたのが沖縄の神の島、常世を眼差す久高島のことなのでした。それもまた私にとっては、水と結び合う旅へとつながってゆく。

 しかしながら、三つ目の水の旅、久高島に渡る時機はなかなか到来しない。ようやく久高島の遥拝所でもある沖縄本島・斎場御嶽までたどりついたのが二〇一六年、秋。ここから沖に浮かぶ久高島を遠望しました。この御嶽の聖なる窟の天井からは鍾乳石が二つ、乳房のように突きだしていました。その乳房の先からは聖なる水が滴っていました。その聖なる水を神司が額に受ければ、目には見えぬ世界との声の通い路が開かれるという。聖なる乳房の前に立ち、滴る水の音を心に受けて、じゅんじゅんと染みいらせて……、二〇一八年三月、ついに久高島に渡りました。石牟礼さんが常世に旅立って二十日が過ぎていました。

 前夜は春の嵐、雨上がりの島。そこは静かな音に満ちた場所です。島の真ん中の聖地、フボー御嶽の入口にじっと立ち尽くした。耳を澄ませば、緑のトンネルのように生い茂る草木のどこかからか、かさっ、かさっ、姿なき小さなモノたちの音。さらに耳を澄ませばかすかに、ポタン、ポタン、水の音。遥かな場所から滴るような遠い響きで、ポタン。

そのとき、私は、石牟礼さんがいまわの際に流したという(ひと)(しずく)の涙の音を聴いたように思ったのです

私にとって石牟礼さんは水の人でした。生き替わり死に替わる命の哀しみ歓びを宿らせた水そのものでした。この水の恵みを受けた者がすべきことと言えば、自分なりの生き方をとおして命の水脈を断ち切るものたちと闘うことのほかはないでしょう。

闘う私は、『水はみどろの宮』の千年狐の祈りをくりかえし唱えます。

「水はみどろの/おん宮の/むかしの泉 むかしの泉/千年つづけて 浄めたてまつる」

 祈る私の心には、『春の城』の切支丹の若者の命を懸けた覚悟の声がしんしんと響きわたります。

「おん身らよ、心を澄まし耳を澄ませ。天と地の声を聴こうではないか。そして総身をひきしぼり、一本の矢となり、光になるまでひきしぼれ。この魂の矢を、必ずや後世にまで貫き通し、共に永生の国に蘇ろうぞ」

石牟礼さんが先の世の命たちから受け取ったかなしみは、今を生きるわれらの祈りとなりましょう、われらの祈りは後の世の命たちへの約束となりましょう。

 

かなしみよ、水になれ、光になれ、断ち切られてもよみがえる命であれ!

 

 

そして、もうひとつ、

 

――石牟礼道子から金時鐘へと架橋するために――

 

 

葬るな人よ、冥福を祈るな

(現代思想2018年5月臨時増刊号 総特集=石牟礼道子) 

 

 

 

「沖縄、南島、八重山、あの付近では、祈る人に神が直接降りてくるんですね。ほんとに美しい、気高い表情とたたずまいになって、(中略)ただもう信じて、祈る人たちは、ああいう美しいお顔になるんじゃないかと身ぶるいが出ました」          (『鶴見和子・対話まんだら 石牟礼道子の巻』より)

 

 

 三十年前、石牟礼さんに初めてお目にかかった時、石牟礼さんがそれはもう感に堪えぬ様子で沖縄の神の島・久高島の聖なる祭イザイホウの話をされたのを今でも鮮やかに覚えています。この祭のときには、島の女たちが白い浄衣に身を包み、神となる。のちのち、水俣の埋め立て地で、あるいは日月丸と名づけられたうたせ舟で水俣から東京へと死者や生者の魂が運ばれていった時にも、魂を降ろす<(しゅっ)(こん)()が行われましたが、その場に姿を現した白い浄衣の水俣の神司たちの姿は、あのイザイホウと見事に二重写しとなって、いつもどこか空を見つめているようだった石牟礼さんの眼差しの行方をありありと見る思いがしたもので

 二〇一八年三月一日、沖縄を訪れた私は、その数日後には久高島に渡る心づもりで、まずは伊江島を巡りあるいていました。

 いったい私は、どんな場所から、どんな声で、どんな言葉を語りだせばいいのだろうか、私はどんな世界を呼び出したいのだろうか。

と、そのとき私はそんな問いを自分自身に繰り返し突きつけつつ、二十日ほど前に旅立たれた石牟礼さんのことを想っていたのです。

葬るな人よ、冥福を祈るな。

と、叩きつける叫びが不意に耳の底から聞こえてくるようでもありました。それは、詩人金時鐘が一九八〇年五月の光州の死に向けて放ったなにより重い祈りの声。それにしても、なぜ、いま、石牟礼さんを想う私に金時鐘の祈りなのか……。

初めての伊江島でした。伊江島は弟の連れ合いの生れ島です。島の三分の一が米軍の演習地になっている。そこは見えない禍々しい線で辺野古、高江、普天間とつながっている、さらに南の宮古、八重山の石垣、与那国にもつながっている、その線は国境を軽々越えて韓国・済州島にもつながっていることでしょう。私は、日本に生きる朝鮮由来の一族の息子である弟と縁を結んだのが沖縄の島の娘だったことをひそかに大切に思っていて、あるいはそれは、いまなおつづく日本近代の植民地の民の息子と娘の出会いのようにも思われて、それだけになおさら、伊江島を歩く私は、石牟礼さんがこの世に呼び出した「もう一つのこの世」を思い、近代と植民地と水俣の果てにきっとあるはずの「さらにもう一つのこの世」を思わざるをえないのでした。

 アニミズムとアナキズム。石牟礼さんが命を削るかのような祈りとともに語りつづけた「もう一つのこの世」を、この二つの言葉で端的に言い当てたのは社会学者の鶴見和子です。近代世界が無残に切り捨ててきた、小さきモノ姿なきモノ鳥獣虫魚草木生きとし生けるすべてのモノたちがざわめく渚から語り起こされた「もう一つのこの世」とは、来たるべき世界の神話でありましょう、世界文学でありましょう。でも、この三十年間、石牟礼さんの声に耳を澄ませて、その言葉に深く心を震わせながらも、(なにしろ横浜に生まれ育った私が二十代半ばに一家で熊本移住を決めた大きな理由の一つが、そこには石牟礼道子がいる、だったのです)、語弊を恐れずに言うなら、石牟礼さんの織り上げる「もう一つのこの世」にまるまる吸い込まれまいと、そこからどれだけ遠くへ飛べるかとばかりに、ことさらに遠い荒野、遥かな島々をめざして旅する私もいました。

石牟礼さんの言葉の凄まじい美しさ、遊行の琵琶法師のような巡礼の御詠歌のような語りの引力に、そのまま無防備に身をさらすのはとてつもなく恐ろしいことなのだという、心に刻んだひそかな戒め。

 さて、伊江島をめぐり歩いた三月一日の話です。一見、石牟礼さんには無関係にも思えるこの話を、どうかしばし聞いてください。

思い起こせば、九十九年前のこの日、植民地朝鮮では三・一独立宣言をきっかけに独立運動が湧きおこり、その波の中にまだ若かった私の祖父もいたのでした。祖父は多くの人びととともに独立万歳(まんせー)と叫び、警察に捕まり、三日三晩の拷問を受け、その時の頭の傷が生涯残っていたという……わが一族の伝承を思い出して語る私の口調がどこか他人事めいているのは、私の記憶には中折れ帽をかぶっていた祖父の姿しかなく、帽子の中のことはわから、そもそも、私は三・一独立運動と言えば日本の学校でただ「万歳事件」という単語だけを学んだくらいに過ぎず、その単語を知っても怒りも悲しみも感じない、その意味では日本国籍の同級生たちと同じように植民地支配の歴史が見事に他人事でしかなかった。暗記力に秀でた優等生であると同時に記憶喪失の植民地の子供でもあった自分を、私は三月一日の伊江島でつくづくと思い出していました

 もうひとつ、七十一年前の一九四七年三月一日、済州島では、独立運動の記念行事に広場に集まった一般市民が警察隊の銃で撃たれ、中学生の少年も含めた六名の一般市民が殺されています。それは、南北分断前夜、済州島の青年たちがどこよりも大きな声をあげてはっきりと分断に抗したからで、それゆえに済州島は南側の支配を目論む者たちに<アカの島>と呼ばれ、凄まじい赤狩りの嵐が吹き荒れた。ついには、公式発表では島民の九名にひとりが、新たに誕生した大韓民国の警察や軍に殺されていくことになるのですが、(鉄の暴風雨の沖縄戦のように、四名にひとりという話もあるのですが)、そんなことはもちろん私の通う日本の学校では教えられず、形ばかりは韓国籍である私に対して、地政学的に感情的にも韓国の沖縄とでも言うべき位置づけの済州島の、国家が封印した無数の無惨な死の記憶のことなどわざわざ語り聞かせる者もない。封じ込められた闇の中で恐怖に怯える者が身内にいることも知らず気づかず、私は大人になりました。歴史は、ある立場から刷り込まれた植民地の歴史とは、ある時点まで、私にとっては単語や記号であったり他人事であったり。それを自分に関わる大切な記憶として取り戻し、生きなおすには、私自身がこの世の島から島へと旅をして、島々のひそかな声に触れていくという、歓びと哀しみと痛みと孤独の入り混じる困難な道行きが必要でありました。

 

 

 

「もっとも原始的で無欲で、大らかな牧歌の神々は死に絶えつつあった。一度も名のり出たことのない無冠の魂であったゆえに、おそらくはこの世に下された存在の錘鉛とでもいうべき人びとが、<椿の海>から生まれ出ていて、ほろびつつあった。そこから出郷したものたちも、土地や海の魂をひきついで残ったものたちも。」                      (『苦海浄土 第二部 神々の村』より)

 

 

あらためて、三月一日、伊江島。

凄まじい圧力で空気を震わせて頭上をオスプレイが飛ぶこの島の中心には、城山(ぐすくやま)という島の守り神の山があり、それはまるで済州島のハルラ山のようで、そういえば伊江島は済州島と形も似ていて、ここでもまた戦争に喰われて死んでいった者たちの骨が、済州島の赤狩りの犠牲者と同じように土中に人知れず眠っている、ここは生者が死者の骨を踏みながら生きている島なのだ、踏まれた死者たちの声が生き生きと絶えることのない島なのだ、そんなことを思いつつ、死者たちの封じられた声を宿した言葉をわが身のうちす私は、石牟礼さんが紡ぎだした恥じらい哀しみを滲ませた美しい言葉、無条件に命に寄り添う言葉、浄化する言葉、そして、ふっと漏らすあの深い祈りの声をあまりにも慕わしい想いで、同時に言いようのない複雑な心でく私でもあるのです

石牟礼さんが紡ぎだす神話はあまりにも深く強い憧れです、それは時に危ういほどの深さであり強さです、私のように出郷する故郷も帰るべき風土の記憶もあらかじめ失われていた近代の寄る辺ない子どもにとっては。

 そして、あらかじめ失われている、といえば、森崎和江です。朝鮮で育ち、標準語しか知らぬまま、戦後に福岡の父親の生まれ故郷の村に身を寄せた森崎和江の、風土に根差した共同体に生きる者たちを前にしたときの立ち尽くすような戸惑い。自他の境を持たぬかのような、つかみどころのない微笑、とらえどころのない眼差しの人びとが肩寄せ合って生きる村共同体への問いから出発するほかなかった<植民地育ちの近代の少女>の哀しみと痛みを、私もまたひりひりと痛む心で感じ取ります。

石牟礼さんとは「サークル村」の仲間でもあった森崎和江の生き直しの旅は、風土から切り離され故郷を持たない者たちの生きる炭鉱を出発点に、地の底へと潜ってゆくところからはじまった旅でした。植民地育ちの少女にとっては異郷でしかなかった日本で、生きぬくための日本語を紡いでゆく旅でもありました。それは、はじまりの場所こそ異なれども、石牟礼さんと同じように<もう一つのこの世>へと、命の神話へと向かって身悶えする、もう一つの旅でもありました。いま、旅立った石牟礼さんへの想いがいっそう強く深くなるほどに、ますます森崎和江を強く深く想う私もいます。近代以前の、一つではない日本、風土と結ばれたいくつもの日本へと分け入っていった森崎和江を想います。

曖昧なやさしさや真綿で首を絞めるような一体感を分かち合う村共同体であるからこそ、近代へと、植民地へと、戦争へと、誰のせいなのかもわからぬまま、人びとは共に流され流れていったのだということを森崎和江が語るとき、村に生きる民がおのずとひとかたまりに転がっていくことの恐ろしさにあらためて震撼します。本当に恐いのは名もなき民なのだと震えます。

 想い起こされるのは、関東大震災の折に、標準語を話せなかったばかりに殺された数多くの朝鮮人や朝鮮人と間違われた日本人(そのなかには少なくない数の東北や沖縄の人びと)がいたこと、標準語を身につけることは殺されないことであり、生き抜くことと同義であったということ、沖縄の小学校では、朝鮮人のように殺されないよう標準語を勉強しようという指導までもがあったということ。それは実に恐ろしい。しかも、「十五円五十銭」がうまく発音できなかったばかりに殺された朝鮮人たちは、米不足の日本に米を送るために植民地朝鮮で繰り広げられた産米増殖計画のあおりで農地を失ったり、あるいはそもそも食べるコメすらなく、生きるために日本に流れついたいわゆる「コメ難民」でした。コメ難民の故郷の朝鮮では、米の増産のための窒素肥料を朝鮮窒素が大量生産していた。その工場では、よりよい暮らしを夢見て水俣からやってきた人びとが、「朝鮮人はぼろくそ使え。朝鮮人からなめられるな」と言い合い、「朝鮮人は人間として見るな」とばかりにビシビシ使い、朝鮮人同士で朝鮮語を話せばビンタを張る、といった光景が繰り広げられていました、そうやって朝鮮人を牛馬のように使う者たち自身が、水俣では牛馬のように使われていました。これもまた実に恐ろしい人間たちの風景。

 石牟礼さんは『苦海浄土』に、朝鮮窒素の化学コンビナート建設のために「朝鮮咸鏡南道咸興郡雲田面湖南里、という海辺の部落が消失したことはたしかである」と書き、さらに「数々の湖南里の里が朝鮮でうしなわれ、そこにいた人びとの民族的呪詛が死に替わり死に替わりして生きつづけていることをわたくしは数多く知っている。この国の炭坑や、強制収容所やヒロシマやナガサキなどで。この列島の骨の、結節点の病の中に。そのような病いはまた、生まれくるわたしの年月の中にある」と書き記しています、そして水俣へと視線を転じて、こう呟いてもいる。「自分の海辺にいて、わたくしはただ指を折って数えているのだ。ひとり、ふたり、さんにん、よにん、四人死んだ五人死んだ六人死んだ、四十二人死んだと」。

石牟礼さんは、戦前の代用教員時代に見た、「朝鮮桃太郎」を学校の宿直室で酒を飲みながら囃し立てながら演じていた先生たちの姿も書き留めます。「ムカシ、ムカシ、アルトコロニ、オチイサント、オパアサンガ、オリマシタアリマス――」。

作家金石範の描く済州島の無惨な死の光景『鴉の死』をおろおろと読むおのれの心の動きも、水俣の鉄道建設に牛馬のように使われた朝鮮人のことも、水俣の八幡様の参道脇の朝鮮部落のことも、そこに流れついた朝鮮人たちの寄る辺なさも高貴さも、それに重ね合わせて自身の家の流亡も書き留めます。さらにさらに、八幡様の渚でみそぎをする癩病さんたちや、そのあたりの土手に棲みついている魑魅魍魎たちのことも、狂死した祖母のことも、汽車にひかれて死んだ弟のことも、おろおろと同じ地平に大切に書き記していく、そして、「生きていて相逢うことのできえないなにかを、わたしどもは持っていると思うのです。肉親とも友人たちとも、未知の魂を持った人びととも、相逢えない距離だけが互いの絆のように無限の弧をひいて、思う相手の間にかかっています。まかり間違ってもたやすく連帯などとはいうまい。支援するなどと恥の上塗りをいうまい、と自分をいましめています。ただ、ひとには云えぬ羞かしい志だけがあり、季節をうしなった蛍のようにときどき微かに灯るだけだと思うのです。」と呟く言葉の透明な美しさ、おくゆかしさ。植民地朝鮮やその民族のこととなるとますます頭を垂れて身の置き所もないように、つつましく、哀しく、寡黙になった石牟礼さんを思い出します。「血というものをとても不思議に思います。いのちたちが、いまはこんなに賑やかに、血の中にいるのだなあと。それがわたしの中の民族たちなのです。わたしが持っているのは、確実なかなしみだけで。」(「みそぎの渚」より)

そして私は、わが身わが血の中の記憶をおろおろと手繰って語りだされる、この含羞に満ちた石牟礼さんの美しくも哀しい日本語の対極に、<植民地の少年>であった在日の詩人金時鐘の、朝鮮の風土とも日本の風土とも結び合うことのない日本語を置いてみる。日本語への報復として日本語を酷使する詩人金時鐘の、ごつごつと芯の通った日本語。それは、石牟礼さんが逝ってしまった今だからこそなおさら、風土に育まれてさわさわと豊かに生い茂る草木のような石牟礼さんの日本語とともに、かけがえのないもう一つの哀しみの日本語のように思われるのです。

 

 

 

「一人の人間が死にますときに、伝えられなかった念いというのがずうっと昔からあると思うんですね。断念してきた念いが。一番深い念いを断念してひとりの胸に呑み下してきて、伝えられなかったという念いを、私たちは代々受け継いでいると思うんですね。断念の深さを、断念の深淵を。」 (神奈川大学講演「生命の連鎖する世界から」より)

 

 

石牟礼さんの言葉に響き合う金時鐘の断念と哀しみ。

済州島で植民地の立派な少国民として育ち、風土に根ざした朝鮮語をあらかじめ失ったまま、見事な日本語の使い手となっていた少年は、植民地支配からの解放を境に、日本語に飲みこまれていた自分自身を哀しみとともに取り戻します。しかし解放は絶望をも呼び寄せて、島は赤狩りの嵐に襲われ、南北分断に抗する青年金時鐘は狩られる身となって、生き延びるために密航船で日本に逃れる、もう島には帰れない、肉親にも会えない、無惨な無数の死の記憶は言葉にもならない、根を断たれた暮し。

そこには石牟礼さんが語る「断念」にも通ずる、さまざまに断ち切られた念いがあります。日本で生きることになった植民地の青年は、体の芯まで染みとおっている日本語で生きるほかはなく、詩もまた日本語で書くほかなく、やがて詩人金時鐘は、条件反射のように花鳥風月と結びついている日本の抒情を日本語から断ち切ることを企むようになる、「切れる。/はなから切れる。/切れるまえから、切れているので/切ることからも/切れている。/耐えねばならないなりわいに/つながるなにかが/わからないほど/つながることから/切れている。」と歌いだす。

それは日本語の底に流れる分かち合う情緒の破壊です、石牟礼さんが瀕死の花鳥風月=風土の上に、あらまおしき花鳥風月=風土の神話を紡ぎあげ、涸れ細った日本語の水脈をみずみずしい哀しみで豊かに潤したならば、金時鐘は阿吽で結ばれた日本的抒情と花鳥風月=風土との間に苛烈な批評の刃を振りおろす、そうやって身に染みこんだ植民地の日本語を破壊し、日本語に報復し、図らずも日本語の可能性を開き、そのザラザラとした感触の日本語をもって、また別の世の姿をいまここにありありと描き出してみせるのです。

風土と馴れあわぬ厳しい抒情を生きる「もう一つの日本語」、消えることのない植民地の民の記憶を確かに宿した「もう一つのこの世」。

そう、なによりかけがえないのは、無数の「もう一つのこの世」の可能性、そして、それを織りあげる無数の「もう一つの日本語」の可能性でしょう。

それぞれの生まれ落ちた土地、旅のはじまりの場所、そこから自分の足でどこまで行けるのか、言葉など消え入りそうな地平でどこまで言葉に命を吹き込めるのか、その言葉は祈りなのか、救いなのか、鎮魂なのか、浄化なのか、そうして生きるべき世はどんな世なのか。そんなことを追い求めるそれぞれの無数の可能性。

 

石牟礼さんは逝ってしまいました。

あとには、その言葉その世界に触れたならば、それだけで浄化されるかのような哀しく美しい「もう一つのこの世」。でも、間違えてはいけません、寄りかかっても、のみこまれてもいけない、それはあくまでも石牟礼さんにとっての「もう一つのこの世」なのであって、私にとっての「もう一つのこの世」ではないのですから。

私を浄化するのは、私自身の言葉であり、私自身が紡ぎだす「もう一つのこの世」の神話のほかにはないのですから。

それこそが、石牟礼道子が断念の深淵で、言葉すら果てるその場所で、祈りとともに紡ぎつづけた神話をとおしてわたしたちに伝えたことのすべてなのだと私は思うのです。

 

われらの無惨に澱んで歪んだこの世界、

三・一一を境にますますあらわに濁って、言葉も死にゆくばかりのこの世界、

滅びに向かっているのかもしれない、もう取り返しはつかないのかもしれない、

それでも、それがどんなに貴く浄く美しい神話であっても、そこに慌てて身を投げ込んでわが身の浄化を願ってしまえば、それは既にして滅びでありましょう。

いま、そんなことをあらためて思う私の耳の底には、詩人金時鐘のあの声がふたたび繰り返し聴こえてきます。

 

葬るな人よ、冥福を祈るな。

葬るな人よ、冥福を祈るな。

葬るな人よ、冥福を祈るな。

 

なるほど、それは、すべての死せる者たちのあらゆる断念を受け継いで、胸に抱いて生きよ、すべての生ける者たちの断念の深さを胸に刻んで生きよ、というあまりに厳しい声のようではないですか。

その厳しさを生ききったのが石牟礼道子であるのでしょう。おそらく、森崎和江も金時鐘も、まだ相逢うことのない多くの者たちもまた、ひっそりとその厳しさを生きつづけているのでしょう。

葬りさられて、忘れさられて、何か大きなものの分かちがたい一部にされて、見当違いの冥福などを祈られてしまえば、死者は死者ですらなくなるでしょう、死者が死者でなくなれば、生者も生者ではいられなくなるでしょう。

 

死者も生者もたやすく葬り去られない覚悟で、その厳しさで、今を生きる私たちひとりひとりが、「もう一つのこの世」を立ち上げること、無数の「もう一つこの世」が遍在すること、それこそが石牟礼道子の断念を引き継ぐわたしたちのアニミズムでありアナキズムなのでしょう。