学習院大学  文学演習後期第7回

すんなら、じょろりば語りましょうかい。

本日は、「じょろり/浄瑠璃」としての『苦海浄土』実演です。

『西南役伝説』から「六道御前」、『苦海浄土』から「九竜権現」、

それぞれ20分ほどの演目です。語り手は祭文語り八太夫。

 

ところで、石牟礼さんの言うところの「じょろり/浄瑠璃」とは何なのか?

 

それはいわゆる劇場の舞台で演じられる人形浄瑠璃のごときものではなく、水俣の草深い村々を勧進乞食のようにして巡りあるいた旅芸人ー―たとえば瞽女、あるいは祭文語り、地方の村々に行けば、祭文語りのうちには浪花節語りも含まれていたり――、要はみずからの声ひとつで旅して物語を語って生きてゆく、そういう者たちと共にあった物語が「じょろり」なのです。聞き手もまた語り手と同様、名もなき者たちです。

 

そして、『西南役伝説』の「拾遺一 六道御前(ろくどうごぜ)」こそが、実のところ、石牟礼道子の「じょろり」語り宣言なのだと、私は受け取っている。

 

そもそも、とりかかりより二十年もかかってようやく刊行された『西南役伝説』は、いかにして書かれたのか?

 

「あとがき」によれば、下記のような成り立ちとなります。

 

(以下、1988年刊行の朝日選書版より)

「なにごとにもよらず遅い方で、間に水俣のことがどうしても挟まり、致し方なくこうなった。

 中味のほうも、最初考えていたより、ずいぶん変更せざるをえなかった。非常に小さな、極小の村が始まるところ、波の音と松風の音がする渚辺に人ひとりが現われて、家というものが出来あがるところから始めたかったのである。その家が二軒三軒となり、つまり自分のいま居る村が出来、町になり、気がつけばもう人間は沢山いて、それぞれ微妙に異なる影を持ち、異なる者が仕事を持ち、その仕事の選択の仕方によって社会というものも出来ぐあいが異なってくる。それには風土の条件があり、他郷の者とどのように交わって文化(暮らしの形としての文化)を創りあげ、その文化はどのように地下の根を持っているのか、形をなぞって見たかった。地上の形はごらんの通りなので、まず勉強できる条件をつくろうとひそかに思っていたら、水俣病が発生、結果的には村、あるいは人間について、はじまりと終りを両方から考えてゆくことになった」

 

「目に一丁字もない人間が、この世をどう見ているか、それが大切である。権威も肩書も地位もないただの人間がこの世の仕組みの最初のひとりであるから、と思えた。それを百年分くらい知りたい。それくらいあれば、一人の人間を軸とした家と村と都市と、その時代がわかる手がかりがつくだろう。そういう人間に百年前を思い出してもらうには、西南役が思い出しやすいだろう。始めたときそう思っていた。それは伝説の形であるだろう。例えば天草の乱の底などに流れていた「隠れ」の思想が現代ではどうなっているか。「伝説」から読み解けないであろうか。それのほの見える入口に立ったかと思う。」

 

 

ここにはとても重要なことが書かれています。

結果的に『西南役伝説』と『苦海浄土』とが同時進行となり、「はじまりと終りを両方から考えてゆくことになった」のだと。

そして、そのとき依って立つ所は、「目に一丁字ない人間が、この世をどう見ているか」なのだと。つまり「文字」ではなく、「声」なのだと。

 

 

近代のはじまりの『西南役伝説』、そして近代のおわりの『苦海浄土』。

 これは、また別の見方をすれば、前近代の名残りの風景であると同時に、脱近代の手がかりの風景としての『西南役伝説』、

近代の無残なおわりの光景である同時に来たるべき世界への寂寞としたはじまりの荒野としての『苦海浄土』、とも言えるかもしれません。

 

いずれにしても、『西南役伝説』と『苦海浄土』は、一対のものとして読まれるべきであり、であれば、『西南役伝説』の締めくくりとして置かれた3つの拾遺のうち、「拾遺一 六道御前」の語りの意味するところが、なおいっそう重みを増してくる。

 

「すんなら、じょろりば語りましょうかい」

 

かつて狐の子になりたかった”みっちん”、こと石牟礼道子は、「六道御前」において、西南役の頃の南九州の村々を巡り歩いて旅を生きる六道御前の身の上話を、六道御前に代わって語ります。そして最後にこの一言をもって、やはり狐になりたい六道御前とともに、その頃広く世に知られていた「じょろり」である「葛の葉」の狐に化生する。

 

「すんなら、じょろりば語りましょうかい」

 

この一言をもって、『西南役伝説』の最後の最後に、石牟礼道子はみずからのじょろり語りのはじまりを告げるのです。

 

この声は六道御前の声ではなく、じょろり語り石牟礼道子の声となって、『苦海浄土』へと流れ込んでゆきます

 

 

月にむら雲 花に風

ふぶく化生の黄昏ぞ

闇六道にゆきかよう

風にも宿る 煩悩の

やつれし髪も 面変り

春らんまんの野辺の奥

ゆく手も見えで狂いゆく

畜生というが あわれなり

 

 

「六道御前」の最後に置かれたこの狐の歌は、もちろん世に流布した「葛の葉」の物語にあるものではありません。それは、じょろり語りとなった石牟礼道子の身からこぼれ出た歌。

 

人間に化生し、人間の男と契った狐・葛の葉が、畜生であることが露わになってしまったがゆえに、わが子童子丸(後の陰陽師安倍晴明)と別れゆく。

旅の瞽女や祭文語りによって脈々と語り継がれた、この子別れの「じょろり」をことさらに選んで、みずから狐となって歌いだす石牟礼道子のこの声こそが、『苦海浄土』のあの語りの誕生を告げているのです。

 

それはたとえば、『苦海浄土』第三章「ゆき女きき書」の坂上ゆき女の語り、第四章「天の魚」の杢太郎少年の爺さまの語り、第五章「地の魚」の”ミルク飲み人形” 杉原ゆりの母の語り(草の親)です。

  

この語りの生まれくるところをめぐって、石牟礼道子を終生支え続けた渡辺京二が、石牟礼道子が取材はもちろん聞き書きすらしていないことを知って、驚愕しつつ文庫版『苦海浄土』の解説に書きつけている石牟礼道子の言葉があります。

 

「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」。

 

それをふまえて、渡辺京二は石牟礼文学をこのように言う。

 

「『苦海浄土』は聞き書なぞではないし、ルポルタージュですらない。ジャンルのことをいっているのではない。作品成立の本質的な内因をいっているのであって、それでは何かといえば、石牟礼道子の私小説である」

 

とはいえ、この解説の言葉は、『苦海浄土』をいわゆる近代文学として語るならば、(つまりは、近代的個の署名入りのオリジナルな創作の所産として語るならば)、という限定が必要な話のように、私は考えます。

 

石牟礼道子自身は、講談社文庫 新装版『苦海浄土』のp362 「改稿に当って(旧版文庫版あとがき)」の冒頭に、このような言葉を書きつけています。

 

「白状すればこの作品は、誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの、である。

 

そして、『西南役伝説』のおいて放たれた声、「すんなら、じょろりば語りましょうかい」という宣言を聴き取ってしまった以上、この「浄瑠璃のごときもの」という言葉を単なる言葉のあやとして受け取るのは難しいことです。

 

では、その「じょろり/浄瑠璃」とは、どういうものであるのか?

 

冒頭に語ったとおり、それは、旅する「物語」であり、

その「物語」とは、「葛の葉」に象徴されるように、社会の底辺を這いずるように生きる者たちが、同じく社会の底辺で虐げられている者たちの痛みと悲しみとをわが身に受けて語りだすものであり、

語り手の数だけ、語りの「場」の数だけ、聞き手の数だけ、「葛の葉」の物語はある。

 

それは、目に一丁字ない者たちによって、声から声へと語り伝えられる物語であり、

それは、声を介して語り手と聞き手が集う場に孕まれる物語であり、

近代文学のようにたったひとりの特定の作者などそこにはいない。

 

石牟礼道子にとっての「じょろり/浄瑠璃」とは、水俣という「場」に孕まれた物語であり、その「場」を分かち合って生きる者たちのひとりとして、石牟礼道子は「苦海浄土」を語りだすのです。

 

そもそも、「じょろり/浄瑠璃」とは、「説経」にその源を持つもつものであります。

それはまずは神々の縁起を語るものです。

 

それが旅する無名の遊芸民たちによって語られるとき、踏みつけられて嬲られて虐げられて艱難辛苦を生き抜いて、そうして名もなき民がついには神となる物語として語られ聞かれている。

この世には苦しみを生きる者の数だけ神がいるのだと、こうして虐げられて生きている者たちこそが神なのだと語られ聞かれている。

それは、説経「山椒太夫」にもあらわなように、虐げられし者たちから放たれる抵抗の声でもある。

 

思うに、葛の葉の狐に化生した石牟礼道子が語りだした『苦海浄土』とは、そのような声によって開かれた「場」に孕まれた「語り」です。

 

その語りの「声」は、言うならば、近代文学の世界に紛れ込んだ異形の「声」なのです。私の声でもあなたの声でもない、あるいは私の声でもあり、あなたの声でもある、つまりは、私もあなたも共に在る「場」が孕んだ声で語られるという意味において、近代的な「私」小説とは異なる。異形の文学です。

 

『苦海浄土』三部作の最後の最後、第一部が書きだされてから四十年の歳月をかけてようやく書きあげられたた第二部のタイトルが『神々の村』であるのも、道理。もちろん神々とは水俣病を病んだすべての命です。石牟礼道子が「じょろり」語りである以上、『苦海浄土』が「神々」の物語となることは必然なのです。

 

いま、あらためてめくる『苦海浄土』、その第三部の冒頭の第一行に、私は水俣の「じょろり」語り・石牟礼道子の矜持を言いようのない痛みとともに感じとります。

 

「道のべに座すものにふさわしく、片っ方だけれどもやっと、盲の瞽女にわたしはなった」

 

そう石牟礼道子は言うのです。

 

『苦海浄土』から流れでるゆき女の声は、狐の化生・石牟礼道子の声でもある、じょろりを語って旅する六道御前の声でもある、水俣という「場」を共にした数限りない死者たちの声でもある。

 

文学が死者たちの声の賜物であるならば、(私は強く深くそう思っている)、その声を宿す「場」としての「じょろり/説経」を石牟礼道子が選びとった(あるいは否応なく選ばされた)ことは、まことに意味深いことです。

 

実のところ、近代の死者たちの声を聴きとりその物語を語りだすのに「じょろり」を越える「場」を近代文学は開きえなかった、ということをその「語り/声」で私たちに突きつけたのが石牟礼道子なのだ、とあらためて痛切に思います。

 

なにより、

石牟礼道子の死によってわたしたちは近代とその文学の終焉に立ち会ったのだ

と、痛切に思うのです。

 

かつて、「人間よ、滅びろ、滅びろ」と静かに語る生身の石牟礼道子を前にして、滅びろと呪詛されている近代しか知らない人間のひとりである私は「滅びてたまるか」と心ひそかに思ったのでありますが、いまだからこそなお強くこう思います。

 

石牟礼道子とともに文学が終わるわけにはいかないではないかと。

 

『苦海浄土』第一部 第三章「ゆき女きき書」の最後に、ゆき女はこう言います。それは石牟礼道子の声であり、今ではそれを聴いた私自身の声でもあります。

 

「うちゃぼんのうの深かけんもう一ぺんきっと人間に生まれ替わってくる。」

 

第4章『天の魚』(「九竜権現」「海の石」)について少しばかり。

 

この章で語られるのは、近代のはじまりとともに水俣の渚に打ち寄せられてきた名もなき庶民の「近代史」です。内容は大きく分けて三つ。

 

まずは、

いかにして天草の民は出郷したのか?

それは、杢太郎の爺さまならば、天草から水俣へと流れ着くことであり、爺やんと同郷の天草の女たちならば身売りの果ての行方も知らぬ流転です。

 

次に、

いかに「会社」は水俣に引き寄せられてきた人びとの誇りとなったか?

爺さまは、「会社」の存在ゆえに水俣を目指し、そこで漁師として生きることとなった来し方を語ります。それは「会社」が切り開いていった水俣という町のはじまりの風景でもあります。さらに「会社」ゆえに一家をあげて病むことになった爺さまは、切々と水俣の誇りであった「会社」へのぼんのうを語るのです。今では病んで生き惑う爺さまが、それでもなお……。

 

そして、なにより、この目に一丁字ない爺さまとその連れ合いの婆やんが家に祀る神々の物語。これが重要です。

 

爺さま曰く、

 

 九竜権現さま

 えびすさま

 こんぴらさま

 天照皇大神宮さま

 お稲荷さま

 お稲荷さまの小さな鳥居

 むかし爺さまの網にかかってきて、

 それがあんまり人の姿に似ておらいたけん、

 自分と子孫のお護りにといただき申してきた沖の石

 御先祖さまのお位牌

 どこぞのお宮のお守りかもう覚えこなさんが、

 御嶽さんやらイツクシマの神さまやら、

 四国のお寺に詣って来た人たちから貰いあつめたお札

 あの写真なさち子の、はい、

 さち子とは孫たちを産んだ母女の名でござす。

 そのさち子の写真 

 二度とこの家に戻っては来んおなごで――

 石ころ

 石ころは、さち子がこの家にくる前に流した赤子たちで

 死んで生まれてもやっぱりここの孫たちとはきょうだいで、

 拝んでやらねば浮かばれん仏たちでござす。(p197)

 

そして、爺さまはさらにこうも言う。

 

p213~214

「おるげにゃよその家よりうんと神さまも仏さまもおらすばって、杢よい、お前こそがいちばんの仏さまじゃわい」

「よだれ垂れ流した仏さまじゃばって」

 

もちろんこれは石牟礼道子の声でもあります。この家を訪れ、爺さま婆さまと向き合う時の心持を石牟礼道子はこのようにも書いているのです。

 

p201

「水俣の市街より一きわ高台の八の窪部落の秋は、稲とも、葦ノ穂の匂いとも嗅ぎわけられぬ匂いが立ちこめ、老夫婦の精霊信仰に抱かれて、久しくつやの失せているわたくしの頬は、そのときいくばくか紅潮し、幸福でさえあった」

 

老夫婦の暮らしの中に息づく精霊たちは、石牟礼道子にとってもかけがえのない精霊たちです。

その精霊たちの中には『あやとりの記』や『椿の海』でくりかえし大切に語られた、あの「おもかさま」や「犬の子せっちゃん」や「ひろむやん」や「ぽんた」や大廻の塘の目に見えない「あのモノたち」もいる。この世の内と外のあわいに生きるものたちの、石牟礼にとって懐かしくも愛しい世界がそこにはあるのです。  

 

さてさて、最後にもう一度、

『苦海浄土』とは、近代文学としてはきわめて異形な文学です。

 

水俣という「場」に孕まれた自他の境のない「あわい」の「声/語り」が、じょろり語りによって放たれる、その異形の声こそが『苦海浄土』の本質です。

それは近代文学が前提とする「近代的個」の対極にある。

 

同時に、無機的な近代的文章の極みとでも言うべき、診察所見や、医学会雑誌の論文や、市議会議事録や新聞記事といった「文字」が、異形の「声」と合わせ鏡のようにして、ごっそりと引用される。

 

そして、近代の極みの「文字」と、じょろり語り石牟礼道子の異形の極みの「声」を架橋するものとして、近代に生まれ落ちた生身の石牟礼道子による地の文がある。

 

石牟礼自身が近代的自我/文字と、自他のあわい/声との間をどうしようもなく行き来する「あわい」の存在なのです。

近代によって放逐され失われた小さな神々の声を、いまいちど近代に呼び戻してはくさびを打ち込むように放つきわめてラディカルな存在として、(つまり石牟礼道子はけっして郷愁の世界を情感豊かに語り聞かせる懐かしき民話の語り部などではなく)、文字と声との境界を越えて近代の文学の世界を高漂泊(たかざれき)するモノ、それが石牟礼道子なのです。

 

 

繰り返し言います。

近代の終焉にあたって、近代の死者たちの声を聴きとり語りだすのに「じょろり」を越える「場」を近代文学は開きえなかった、ということをその「語り」でもって私たちに突きつけたのが石牟礼道子であり、

石牟礼道子の死によって、わたしたちは、無数の無辜の死の上にあるどうしようもない私たちの近代の終焉と死者たちの深みについにたどりつけなかった近代文学の限界をとことん見届けることになったのです。

「すんなら、じょろりば語りましょうかい」 アルテリ第6号 石牟礼道子追悼(2018年8月)掲載

 

私、ほんとに大事なことにかぎって何も知らなかったんだなぁと、つくづく思いました。もう三十年前には出会っていたはずのヒトやコトやモノに、今日はじめて出会ったみたいな気持になって吃驚しちゃって。

東京の西のはずれの八王子の、さらに西のはずれ、奥多摩の山々がすぐそこに見えるような場所へと、山から降りてきましたと、なにやらいかがわしくもある山伏姿の男が家の門を叩いて、しわがれた声で旅の祭文語りだと名乗って、おるが語りを聞いちゃくれんか、と言うんです、私も語り物はきらいなわけでもないから、ええどうぞって、そしたら祭文語りが背中にしょっていた三味線を前に持ち直して、ドンツンテンと糸を鳴らして、おもむろに、

 

祇園さまの祭の頃になれば、いつもうちに寄りついて、語ってゆかる御前殿のおらいましたなあ。たいがい五夜の晩にな。爺さまが浄瑠璃好きじゃけん招び寄せて、酒ども御馳走すれば、よか気色になって、

「五夜ん忙しかときに来てなぁ。語ってよかろうかい」

 

と、はじめるものだから、私もつられて、よかよかって、とってつけの熊本弁で答えて、思わず身ぃ乗り出したのは、その口ぶりがどこかで聞いたことがあるようでね、しゃがれた祭文語りの声の裏側にはどうやらくぐもった女の声が潜んでいる。その懐かしい声は……、

あ、石牟礼さん、

はっと気がついたのだけど、たった今聞きはじめたこの語り物が何の話だったか、思い出せないんです、

そうだよ、石牟礼さんだよ、六道御前だよ、

うろたえる気配を察した祭文語りがぼそりと言います、

ああ、「六道御前」……、

それはあまりに遠い記憶でありました、

三十年前に読んだあの本でありました、辛子色の表紙の『西南役伝説』。

 

祭文語りは「六道御前」をかたりつづける、私はあわてて『西南役伝説』の本を書棚から持ってきて、本をめくりはじめる、私は本を読むときはいつも、ここぞと思うところには線を引きます、書き込みます、三十年前の私もまた、『西南役伝説』に沢山の傍線。

しかし、つまんないところにばっかり線引いてるなぁ、「六道御前」の語りを聞いても、すぐにそれがなんだかわからないのも道理だよ、『西南役伝説』の「六道御前」のページは実にきれいなもんでした。

今の私ならこの本のどこに線を引くかな? 祭文語りの三味の音を聞きつつ、パッと開いたページの、たとえば、ここ、

 

私はきょうは

雨のふりまっせん

雨もらいぎゃゆきよります

あすは 雨 雨

どうぞ 雨くだされ

 

このごろの私は無条件に雨や水にひかれるんです、山に水のせせらぎの音を聴きに行ったりもするんです、それで、石牟礼さんが旅立った210日の、ほんの数日後にも、私は奥多摩の山伏たちが開いたひそかな山に登って、せせらぎの音を聴きながら石牟礼さんのほうへと遥かな祈りを捧げたんです。

人知れずこの世をめぐる水の音は、深い山だからこそ聴こえるのであって、その水の流れに託した祈りは必ずや通じるのだと信じておりました、なのに、どうしたことか、山を下りる段になって、鎖伝いに降りる急な岩場で私はストンと落ちてしまって、鎖をつかんで離さなかった左手の二の腕の筋がブッツリ、ちぎれたような音を聴きました、すさまじく痛かった、その瞬間、天罰だ、と思った、祈りをこの世の水に乗せて送りだすことができるほど、私はまだきっと水を知らないのだと、そのときなぜだか思いました。

そもそもが、人間には水が必要なのだということを私が初めて知ったのが、四十も半ばになった頃のことです、水俣の友人に誘われて、水俣の海辺の集落のフィールドワークというのをやって、水俣の対岸の天草から渡ってきた人々は清水の湧き出る渚に村を作ったのだということを知ったのです、このとき心の底から感心しました、

そうか、水のあるところでしか、人は生きられないのだ、

でもね、

私もまた水なしでは生きられないのだ、

というところにストンとつながっていかない愚かさが私にはあるんですね、いい年になるまで水のことなど知らずに私は生きてきたし、水なんかなくても生きていけるような気もしていたんです、ある時点まで、いや、もしかしたら、今もまだこの世の水は私の骨身にじんじんと染みいることのないまま、ただ通りすぎているだけなのかもしれない、なのに、水のすべてをわかったような気がしているオロカモノに、天罰。なのかもしれません。中途半端な水の祈りを捧げられた石牟礼さんが、ああ、ああ、と言葉にならない声をあげたのかもしれません。石牟礼さんの声ならば、ああ、と一言放っただけでも、かなりの威力なのではないでしょうか。

 

思えば、鳥にも獣にも虫にも魚にも草木にも水に風にも命がある、魂がある、ということを私は石牟礼さんをとおして知っていったように思っています、でも、それを心で知ったのか、骨身で知ったのかと問われるとかなり心許ない、

振り返れば、三十年前『西南役伝説』を読む私が反応していたのは、たとえばこんな言葉なのでした、

 

山の峠を越えるとか、海を渡ってゆくということが、意識するにせよしないにせよ、

人の一生の大きな区切りになっていた時代があった。

海を渡るということは故郷からの別れだけでなしに、何かの境を越えてしまう、

そこへはもう戻れないということでもあったのである。そのような意味の出発が

国民的規模で始まったのは、いうまでもなく御一新前後からであったと思われる。

彼らの出てきた小さな村はその時朽ち始め、あるいは代替りし、まだ始まらない村が

ゆくてのどこかにある。

 

 海を渡って日本にやってきた植民地の民の一族の娘である私には、やはり、こんな言葉がストンと身に落ちてきて、思わず傍線を引いている、

植民地の民であるということは、否応なく海を越えて、境を越えて、風土からも遠く離れて、風土の神々からもすっぱりと切り離されていくということで、そう思えば、懐かしい故郷/過去の記憶を持たない私こそが、まさしく日本の近代の落とし子、この列島の誰よりも近代的な人間なんですよ、

そしてあらかじめ記憶を奪われている寂しい近代人は幻の故郷を夢みて、懐かしい風土を探して、寄り添う神々を求めるものでありますから、なんだかそれが妙な具合になってくると、わが家の場合なんて、私の子どもの頃は、拝み屋さんやら霊能師やらがなにかと出入りしておりました、霊能師が幼い私を怯えさせた怖い話のひとつに、ブチの犬を殺して皮をはいで、犬の毛皮のチョッキを作ったあるおばあさんの話があります、そのおばあさんに孫が生まれて、顔を見たらブチの犬と同じ模様の赤い痣……、いやいや拝み屋さんの話もすごかったな、拝み屋さんが言うには、私も含めてわが家の娘たちが行き遅れたり出戻ったりするのは、私の母方の曽祖父が朝鮮時代に両班の娘の家庭教師をするうちにうっかりその娘を孕ませてしまって、孕んだ娘をその父親が、このふしだらが!と、儒教倫理に則ってひそかに首を絞めて殺して娘の不始末を闇に葬った事件がありまして、その娘の呪いが海を越えて日本に生きる我らの人生にも影を落としているのだと、おおおおお、さすがにこれは不気味でした……、あ、話がなんだかそれました、言いたいのは、つまり、人間以外の見えない力、あなたの知らない世界と言えば、そんなものしか思いつかない、そんなものしかすがるものがない。鳥獣虫魚草木、万物に命宿る風土どころか、故郷という言葉すら自然な気持では発音できない私にとって、石牟礼さんが生きる世界は遠い憧れだったのでした。いつまで経ってもたどりつけない「はじまりの村」なのでした。思えば、私は、遠い憧れを胸にこの三十年、彷徨う人生を生きてきました。

 

 故郷といえば、こんなこともありました。三十数年前、韓国の戸籍に書かれている私の本籍地を訪ねてみたのです。祖父がそこを出たっきり、帰ることのなかった土地です、そこで初めて会う韓国の親戚たちとは、まあ、いろんなやりとりがあったんですけど、何より忘れがたいのは墓の話。

祖父の父親だかの墓がひどく湿っぽい土地にあって、いつも水浸しで、風水上よろしくない、これは死者だけでなく生者にとっても良いことではない、不幸を呼ぶから墓を作りなおしたほうがいい、日本に戻ったら目上の者たちと話し合ってくれ、と言われたのでした、もちろん日本に戻ったら、すぐに話しましたよ、結論はあっという間に出ました、祖父が故郷を出てもう百年以上過ぎている、この百年、われらには不幸らしい不幸はなかったから、風水上の問題などない、だから墓は直さなくてもよい、であります、言葉自体はそういうことであったけれど、要は故郷とか墓とか風水というものは、そもそもその記憶を持たないきわめて近代的なわが一族にとってはもはや関心の外のことで、そういう状態になっていることこそが、わが一族にとってはなによりの不幸のようにも思えたのですが、ともかくもそういうわけで、祖父の父親の墓はいまもきっとジメジメずぶずぶ水に浸っている、その水の湿りを日本にいながらにしてジワジワ感じるようになってくる私は、やがて、この世をめぐる水はすべての命を潤して流れる水なのだと言う私になってゆく。

 

 あのね、いかに根っこを刈り取られていようとも、どんなに愚かでも、歳を重ねて、旅を重ねれば、じわじわとだんだんとわかってくることもあるものです。

よるべきなにかを持たなかった私は、いつしか声だけを旅の導きとするようになりました、声のことばかりを考えるようになりました、

声って誰もが持っているものでしょう、沈黙の中にだって声はあるものでしょう、文字を持たない人はいても、声を持たない人はいないでしょう、鳥だって獣だって虫だって魚だってみんな声を持っているでしょう、風だって、水だって、石だって、土だって、黙りこくっていたって、みんな声を持っているでしょう、口を封じられていても漏れ出る声や沈黙があるでしょう、私にだって奪うことのできない声や沈黙があるでしょう、みんなそうだよね、ほんとはそうなんだよね、って体で感じはじめたら、石牟礼さんの世界がなんだか近しいもののように思えてきたんです。

無理だよ、石牟礼さんの世界は。だって、そんなのは私からあらかじめ奪われているんだもん。

と思い込んでいたけれど、どうもちがうようだと思いはじめたのはつい最近のことです。かつてそこにあった村と、近代という破壊的な時空を超えて呼び出されてくる「はじまりの村」と、ちょっと見は似てるんだけど、それは同じではないのだと、だんだんわかりはじめた。

ここで、私が言いたいのは、回帰ではなく、再生でもなく、新生ということです。

村にはいろんな声が行き交い、旅する声たちもやってきて、さまざまな声の場も開かれて、そういう場にはカミも降り立てば、目には見えないあのモノたちもやってきて、生者も死者も同じ声の響きの中にいて……、というのは私にとっての石牟礼さんの世界のありようです。

あっちこっちにさきわう無数の声たちが力ずくで封じられたり、大きな声に暴力的にのまれていったり、声に宿っていた神までも処分されたり、そんな時代が私にとっての近代です、それが私の生まれ落ちた時代です、その近代を越えるために、そこかしこに無数の声の場を開くということを企む、声を水のように風のようにこの世にめぐらしてゆくことを共謀してゆく、それが「はじまりの村」への水路です。

声を追いかけて、旅を重ねて、歳も食って、今思うことは、近代以前の声の場をアニミズムと呼ぶのであれば、近代以降の声の場はアナキズムなのだということで、そうか、石牟礼さんは実はアナキストだったんだな、と気づいた時に、私と石牟礼さんの間の水脈が開かれたようにも思ったのでした。

 

ああ、でも、まだまだなんだな、この世をめぐる水の音を聴きつつ、水に託して石牟礼さんに祈りを送り届けようとしたあの山で、左腕の筋がブッツリ。天罰。でも、実のところ、これはちょっと受け入れがたいな、と、天罰に抗う気分もあるにはありました。私、すこしだけ、負けずぎらいの頑固ですから。

そしたら、私が天罰を受けたその山から、山伏姿の祭文語りがおりてきて、「六道御前」を語りだすわけですよ、それを聞いてやっぱり思い知るほかないわけです、祭文語りの声に宿る石牟礼さんのあの声を、私は今の今まで忘れていたじゃないか、いや、忘れていたんじゃないな、聞こえてなかったんだな、聞こえているような気がしていただけなんだな。

 こないだ、NHKETV特集で「わが不知火はひかり凪(なぎ) 石牟礼道子の遺言」を観ました。幼い頃に狐になりたくてなれなかった石牟礼さんが、旅立ちが近づくにつれ、どんどん狐になっていくようでした。

今日、八王子のわが家の門に現われて、祭文語りの声を乗っ取って、「六道御前」を語りかける石牟礼さんは、(いくさ)場の死者たちの間をさまよって、浄瑠璃(じょろり)を語って、この世を旅する乞食非人の六道御前その人でありました、浄瑠璃を語るほどに、やっぱりどんどん狐になっていくようでした。

 

もしや生まれ替わるなら、こんだは六道じゃなしに、葛の葉ちゅう名をつけて貰うて、あの人と一緒に、よか世に逢おう如ある。あたや六道よりこっちの名が好きじゃ、葛の葉が。すんなら、じょろりば語りましょうかい。

 

  月にむら雲 花に風

  ふぶく化生の黄昏ぞ

  闇六道にゆきかよう

  風にも宿る 煩悩の

  やつれし髪も 面変り

  春らんまんの野辺の奥

  ゆく手も見えで狂いゆく

  畜生というが あわれなり

 

 

ようやく私の耳がほんとの石牟礼さんの声を聴いたような気がしました。三十年かかりました。やっとこれからはじまるんですね。

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コメント: 1
  • #1

    井上きゆき (月曜日, 19 11月 2018 09:15)

    しっかり拝読しました。
    水と声(音)について感応しました。
    授業を聴けてよかったです。