学習院大学 文学演習後期第6回

植民地、水俣、苦海浄土

第六章「とんとん村」を読む。

 

石牟礼道子は、「百間排水口の沖の恋路島の根つけに、またタレソ鰯やわかめが異常繁殖して、採り手が多いということ」を知っていながら、その「水俣病わかめ」を宮本おしの小母さんから買う。小母さんのご亭主の利蔵は水俣病で死んでいる。

 

「あねさん、よかわかめじゃが買わんかな」

「わかめなあ、このわかめは水俣病の気のするばい」

「馬鹿いわんぞ。こげんよかわかめ、水俣じゃとれんとぞ。阿久根の先の東支那海から来たわかめぞ」

「ほう。(ウソウソ、会社の沖の恋路島の根つけから採ってきたくせ)えらい遠かところから来たわかめじゃなあ、よう育っとる」

 

 

この水俣病わかめで石牟礼道子は味噌汁を作る。そしてその時の経験をこう書く。

 

「不思議なことがあらわれる。味噌が凝固して味噌とじワカメができあがったのだ。口に含むとその味噌が、ねちゃりと気持わるく歯ぐきにくっついてはなれない。わかめはきしきしとくっつきながら軋み音を立てる。」

 

このとき、石牟礼は確信犯で水銀を噛みしめている。

聞き知っている「水銀微量定量法」を思い起こし、微量の水銀を舌に感じ取り、「舌を灼く」。「おしの小母さんに少しは義理が立つか」と思いもする。

 

 

今回、『苦海浄土』を読み直して、第6章のはじめに、この短い文章が置かれていることの意味をあらてめて考えています。

 

この短い文章を受けて書き出される「わが故郷と「会社」の歴史」のはじまりの部分が、「わたしの死者たち」をめぐる記述であることの意味深さをあらためて思います。

 

以下、「わたしたちの死者」をめぐる記述です。

 

「潮の回路の中にあらわれるように、わたくしの日常の中に、死につつあるひとびとや死んでしまったひとびとが浮き沈みする。ひとの寝しずまっている夜中に、まるで、きゃあくさったはらわたを吐き出すような溜息を吐くな! と家人たちがいう。自分が深い深いほら穴に閉じこもっていることをわたくしは感じ出す

 

 とある夏、髪のわけ目の中に一本の白髪をわたくしはみいだす。なるほど、まさしくこれは”脱落”した年月である! そしてその年月の中に人びとの終わらない死が定着しはじめたのだな、とわたくしはおもう。わたくしはその白髪を抜かない。生まれつつある年月に対する思いがそうさせる。大切に、櫛目も入れない振りわけ髪のひさしにとっておく。わたくしの死者たちは、終わらない死へむけてどんどん老いてゆく。そして木の葉とともに舞い落ちてくる。それは全部わたくしのものである」

 

 

水俣病わかめ。脱落した年月。死を孕んだ一本の白髪。

 

水俣病と出会って以来、(たとえば、『苦海浄土』第一章「山中九平少年」と第六章「とんとん村」との間に流れた時間に思いを致すならば)、1963年秋にひとり野球のけいこをする盲目の少年山中九平に出会ってからの四年の歳月を振り返る石牟礼道子は、すでにこのとき自身が死者たちの時間を生きていることを知り尽くしています。

 

昭和32年(1957)に、水俣市立病院 水俣病特別病棟で死にゆく釜鶴松の魂魄を身に宿してしまってから数えるならば、10年の月日が流れているのです。

  

一本の白髪は、一本の水俣病わかめと等しい。

 

死を身のうちに宿していること、宿すことへの、覚悟。とでも言おうか。いや、覚悟では言葉が強すぎるかもしれません。ことさらに意を決してそうしているわけではないのです。

おのずと受け入れてゆく。とはいえ、状況に流されてそうなっているのではなく、これが自分の命のありようなのだと肝を据えて受け入れる、そのような姿がここには見える。

 

そして、「わたくしの死者たち」とともにある風景とは、いまに始まったことではないのだという気づきに寄り添うようにして「わが故郷と「会社」の歴史」は次第次第に時をさかのぼって書き綴られてゆくのです。

 

まずは昭和六年、陸軍熊本大演習。それが石牟礼道子が物心ついてのはじめての「わたくしの死者たち」に関わる記憶の風景となりましょう。このとき、道子、四歳。道子は土下座している人びとの間で、水俣駅から「会社」の中へと入ってゆく小豆色の自動車の中の天皇陛下さまを拝んだ。それが「会社」にまつわる、そして「死者たち」にまつわる最初の記憶の風景。

 

記憶の風景を追う石牟礼道子の思考は、記憶を超え、明治末年の水俣における「会社」の草創へと向かいます。

 

「水俣村とチッソとのなれそめのそもそもを語ろうとするならばどこやらうらうらとして民話じみてくる」と考えながらも、その考えにとどまることを石牟礼道子に許さない風景がある。

 

「そう考えようとして、あの湖南里の、朝鮮咸鏡南道咸興郡雲田面湖南里の村をおもうのだ。湖南里の村のことはもはや民話などといっては済まされぬ」。

 

国策会社日本窒素が湖南里の土地を奪い、世界有数の化学コンビナートを展開する朝鮮窒素を生み出す。その収奪それゆえの植民地の民の流浪の風景を石牟礼道は見ています。数々の「湖南里」の風景を植民地朝鮮に見ています。

 

水俣の、「自分の海辺」の死者たちを指折り数える石牟礼道子は、朝鮮の海辺の死者たちの民族的呪詛を感じることなく生きることのできない、命なのです。

 

水俣病という「近代」の病を病むならば、それは水俣を超え、時を超え、「足尾」を超え、列島を超え、植民地という病をも病むことにほかならない。近代のすべての死者を抱えこむことにほかならない。朝鮮の死者までもが石牟礼のなかに入り込んでいる。そのことへの深い気づきがこの第六章には刻み込まれている。

 

重層的に病む近代を眺め渡す視座を探し求めて茫然としながら、まごまごとしながら、駆けずり回っては、自分自身の定点、近代の縮図たる「水俣」の、さらにその極点である「主婦の座」へと立ち戻る石牟礼道子の姿がそこには書き込まれているのです。

 

植民地と言い、朝鮮と言えば、思い起こすこと、ひとつ。

 

2012年5月 私は石牟礼さんを訪ねて、2時間ほど対話の時間を持った。そのときに「朝鮮」をめぐる話をしたのでした。

 

そのとき、もう一度お訪ねして対話の時間をいただく約束をしていたものの、それから少しして石牟礼さんは体調を大きく崩し、重篤な状態で入院。しばらくしてようよう回復されたのでしたが、それからのちは石牟礼さんの貴重な人生の時間に分け入ることがためらわれて、熊本地震ののちに二度ほどお見舞いに訪ねはしたものの、実質的にはこれが最後の対話となりました。

 

そのときのなつかしい対話の断片を、ここに書き写してみようと思います。

「週刊読書人」2012年6月29日号より

 

姜:石牟礼さんが書き物の中で触れられていますけれど、八幡さまの辺りには朝鮮部落があったでしょう。

 

石牟礼:ありました。闇酒を作っていらして。父は焼酎が好きですから焼酎を必ず朝鮮部落に買いに行くんですよ。それでお得意さまになったもんで朝鮮の方々が作り方を教えてくださった。

 

姜:お父さんは朝鮮の方たちへの親しみや隔てのない気持ちをお持ちだったんですか。

 

石牟礼:それはそうでございます。そうでないと伝授していただけないですよ。

 

姜:水俣と言えば、鉄道工事や河川改修工事の時に朝鮮人労働者をずいぶん使いましたよね。

 

石牟礼:そのようですね。我が家も道づくりに関わっていましたが、「うちは鉄道工事は請けあわん」と。なぜならば朝鮮の人たちが来なさる鉄道工事で、悪いことをして儲ける組ができた。トロッコにぶつかって怪我をなさると、朝鮮の人たちを犬や猫じゃあるまいし、病院にも連れていかない。そういう鉄道工事は絶対請けあわんと。そういうことをしちゃいかん、と母も父も言ってました。

 

姜:朝鮮人労働者を使うから利幅が増えるんですね。

 

石牟礼:でしょうね。そんな意味があったと思います。

 

姜:以前石牟礼さんは、何か罪深くて韓国には行けない、とおっしゃっていました。そういう気持ちは水俣で朝鮮人労働者を見ていたところからきているんですか。

 

石牟礼:(朝鮮人労働者を)そう見ていたわけではありません。つねになく低い声で人夫さん方に父と母がそういう<組>のことを非難しているのを聞きました。それから屑物を扱っていらっしゃる方もいました。女の中年の方々でしたけど。母がお茶でもてなすんですね。あとは私は代用教員をしてましたでしょう。一人、朝鮮の女の子がいて、家庭訪問をしなければならない。それをその子は何だか嫌がっているんですよ。田浦に東海電極という小さな電極工場がありまして、その工場の傍に朝鮮部落があったんです。家が近づくと彼女の足が進まない。この傍でしょうって聞くと、頷く。とても嫌そうで辛そうでした。そうしたら掘っ立て小屋からおじいちゃんが正装して出ていらしゃる。あの特有の帽子で。大変立派な朝鮮の服を着ていらっしゃった。そしてお母さんが出てきて、丁寧にお辞儀をなさった。私も丁寧にお辞儀をして。半分わからない日本語と、半分わからない朝鮮語でやり取りをして(笑)。そうしましたら、キザラという四角い黄色い小さな粒の砂糖を湯のみに八分くらい入れなさったですよ。あらーっと思って見ていた。砂糖なんて日本の家庭にはない時代ですよ。

 

姜:それは精一杯のもてなしですよね。

 

石牟礼:それに熱い湯をそろそろと入れて、どうぞって。これは大変なおもてなしを受けているなと。そしてしゃにむに飲めとおっしゃる。まだ溶けてないのに(笑)。ふと見たら、女の子は柱にしがみついて遠くから見ているんですよね。「こっちにいらっしゃい。半分いただくけん、あなたと一緒に飲みましょう」と言っても傍に来ない。私の家も貧しくて掘っ立て小屋でしたから、私の家に連れて行けばよかったと思いました。そしてご辞退する時には、家族と並んでお辞儀をして、とても安心した顔をした。そういう思い出がございます。終戦直前に北朝鮮に帰って行きましたね。

 

姜:終戦直前に北朝鮮に帰ったらその後どうなっているかわからないですね。

 

石牟礼:クラスメート全体で田浦の駅前に見送りに行きました。窓から身を乗り出して手を振って行ったのが見納め。

 

姜:その子も去り難かったでしょうね。

 

石牟礼:親しんでくれました。目にとても力がある子で、ほかの子とは目の光が違いましたね。何か考えていたに違いない。

 

姜:同じ時代に石牟礼さんもいろいろと考えることがあったでしょう。

 

石牟礼:はい。考えることがいっぱいで。

 

姜:石牟礼さんのご両親の場合、朝鮮の方に対して自分が何か酷いことをしたわけでも手を下したわけでもなく、むしろきちんとした関係があったわけですよね。

 

石牟礼:あったんです。

 

姜:全体の状況が悲惨なだけに、その悲惨な部分に力を貸していない(加担していない)人たちのほうが、(その状況を)申し訳なく思うというひっくり返った状況ってあるじゃないですか。

 

石牟礼:父の闇酒を教えてもらった時のうれしそうな顔。何か特別自分がいい人間になったような。よっぽどうれしかったんでしょう。信用してもらえて。

 

姜:そういう関係性って得難いかけがえのないもののように思うんです。そういうものがだんだん失われてきましたね。これも『椿の海の記』に書かれていますけど、朝鮮部落があった辺りはハンセン病の方々が水垢離をされていた場所でもあるんですよね。

 

――以下 略――

水俣で朝鮮の人びとと具体的な関係を結んだ大切な記憶を持つ石牟礼道子が植民地朝鮮をま眼差すとき、数々の「湖南里」を思い、朝鮮の海辺の死者を思う、その思いの切実さを私もまた切実に感じます。

 

 

実際、植民地朝鮮の「湖南里」で何が起きていたのか?

  

それを『聞書 水俣民衆史第5巻 植民地は天国だった』でたどりなおしてみることにします。

 

 『苦海浄土』で言及され植民地の風景。

『聞書 水俣民衆史 第5巻 植民地は天国だった』口絵写真より。

 

 

本日の締めくくりです。

 

石牟礼さんと植民地をめぐって書いた私の追悼文を以下に置きます。

 

 

 〈と言うのです。〉/姜 信子

 (週刊読書人 2018年3月30日(第3233号)に掲載)

 


 石牟礼さんを想えば、「あの年寄り」たちを思い起こすのです。水俣の椿の花咲く丘の上の大きな樹の下で、稚いものたちを慈しみ、鳥も獣も虫も魚も目に見えぬモノもすべての小さきものたちを愛おしむ、なつかしい村の年寄りたち。

 「あの年寄りたちは自分とはまるで生まれ替わりではなかったか」と石牟礼さんは書きます。年寄りたちに「ときどきひとみを合わせて寄り添う」稚いものたちは、「死んでゆく自分の生まれ替わりであるまいか」とも書いている。

 いま、私は、稚いものの心で、樹の下で生まれ替わり死に替わる命たちの声に耳を澄ましては、石牟礼さんを想うのです。

 

 実を言えば、相対する石牟礼さんの眼差しはいつも私を越えて、私の背後に広がる遥かな時空を見ているように感じて、それはとても恐ろしかった。親しみを全身で表わすような幼子の無邪気さとは縁遠い私にとっては、その近づきがたい空恐ろしさこそが石牟礼さんとのひそかな絆でした。

 なにより、石牟礼さんと語り合えなかったこと、石牟礼さんが口ごもったこと、それこそが真に語りつぐべきこととして、石牟礼さんからひそかに受け取った重い約束でした。

 

 たとえば、朝鮮にまつわること、代用教員時代に学校の男の先生たちが酒を飲むと演じて見せた朝鮮桃太郎の話、「ムカシ、ムカシ、アルトコロニ、オチイサント、オパアサンカ、オリマシタアリマス」、それを語る石牟礼さんの心に宿った文字の罪、コトバの罪、口の罪、存在する罪。

 あるいは、村のはずれのゴミ捨て場のような場所に住みついた朝鮮人たちのこと、(彼らは水俣の山を崩し、道を開いた労働力、新興財閥日本窒素の発展の最底辺の礎、もしくは人身御供)、そしてそこに暮らす朝鮮人の教え子の少女の眼の色の深さ、美しさを語るときの石牟礼さんの羞恥の念にまみれた心。

 

 あまりに罪深くて、朝鮮の土などとても踏めません、と私にぽつりと言った石牟礼さんは、『苦海浄土』の「わが故郷と「会社」の歴史」の章では、『日本窒素肥料事業大観』をひもといて、朝鮮の漁村で強行された土地買収のことを記しています。

「「人情風俗を異にする鮮人の土地買収」には「随分面倒」があったから、「警察官の立合いの下に行われた」とはどのようなことであろうか」と呟き、朝鮮窒素の大化学コンビナートを建設するために、まるでもともと無人の地であったかのように消された朝鮮の漁村・湖南里(現在の北朝鮮の興南)に想いを馳せて、「数々の湖南里の里が朝鮮でうしなわれ、そこにいた人びとの民族的呪詛が死に替わり死に替わりして生きつづけていることをわたくしは数多く知っている。この国の炭坑や、強制収容所やヒロシマやナガサキなどで。この列島の骨の、結節点の病の中に。そのような病いはまた、生まれくるわたくしの年月の中にある」と語っている。

 

 水俣には、日本の近代には、その闇の底には、朝鮮の消えた村々が声もなく埋められている、その闇はきっと福島にもつづいている、このままならばきっと福島の先の先までゆきゆきて、滅びの闇へとゆき果てるのだろう。と、これは、罪びとのような心で朝鮮を語ろうとしては口ごもる石牟礼さんから、植民地の民の末裔たる私が受け取った無言の声、重い付託。

 

 私もまた、消えた朝鮮の村々のかつての姿を『聞書水俣民衆史5 植民地は天国だった』で見たのです。

 村には大きなエノキの木が立っていた。神木です。この木も工場建設の為に伐り倒された。朝鮮の漁村の失われた神木の下でも、水俣の漁村の「あの年寄り」たちのように、朝鮮の「あの年寄り」たちが脈々と生き替わる小さな命たちのことを稚い者たちに語りかけていたことでしょう。

 

 私は遥かな時空を超えてその声に耳を澄まします。ばっさり切り捨てられた声たちの、歴史から消されるばかりの空白の記憶があることを、ぎりぎりと胸に刻む。苦海が浄土であると同時に、植民地が天国でもあるような、われらの生き直されるべき、さもなくば滅ぶべきこの世を、明日の稚きものたちのために私たちはなんとしても生き抜かねばなりますまい。

 

 石牟礼さんを想う私は、気がつけばしきりにこんな韓国の歌を口ずさんでいました。日本語に訳せば「と言うのです」という奇妙なタイトルの歌。

 

 

 吹雪の興南埠頭には行けなかったけれど

 この歌だけはよく知っているのは、僕のお父さんのレパートリーだから

 (中略)

 残された人生、あとどれだけ残っているのかと言いながら

 涙で夜を明かした僕のお父さん

 (中略)

 死ぬ前にきっと

 一度だけでも行けるのならば

 と言うのです

 

 

「僕のお父さん」とは、朝鮮窒素の興南工場で、水俣から来た工員の下で牛馬のように働いて、解放後の南北分断の混乱の中で家族と生き別れ、帰るべき故郷を失くした人でした。この歌は、「……と言うのです」と、朝鮮の無名の民の小さな声にじっと耳を澄まして語り伝える歌でした。この歌を私は石牟礼さんへと歌っているようなのでした。

 

(きょう・のぶこ=作家)