学習院大学文学演習 後期第2回

[足尾鉱毒のことにつき、天皇に直訴する田中正造]

 

 

 

【問い2つ】

 

1.近代を潜り抜けた「アニミズム」とは、近代の終わりに生きる私たちにとってどのようなものとして立ち現れてくるのか?

 

2.「異人/来訪神」たちは、近代を潜り抜けて、いまどこにいるのか? 

 

 

たとえば、明治初年から吹き荒れた「神々の明治維新」(©安丸良夫)の嵐は、それ以前の人々の暮らしの中にあった風土の神々の記憶、風土の神々とともにあった水のように風のように月のように太陽のように循環する時の中の暮らしの記憶をあっという間に吹き飛ばし、消し去ったのでした。

(「二十歳以下の青年、この例を知らず」。とは1897年の庭田源八翁の言葉。この言葉が、明治初年以来起きたことの総てを物語っている)。

 

かつて、めぐる水、めぐる風、めぐる命、めぐる時間の物語は、つまりはこの世の物語の多くは、小さき神々の声をもって語られていたことを既に私たちは知っています。

 

(諸君は覚えているでしょうか? 声と語りを追いかけて、ようよう小さき神々の記憶へとたどりついたのが、前期演習の半年間でした)。

 

そもそも、

私たちの生きる世界は言葉/声によって形作られているものです。

その世界とは、「私には世界はこう見えている」「私は世界をこのようなものとして認識している」という意味での「世界観」と言ったほうがより正確でしょう。

 

かつて、世界を語る言葉は「風土を生きる体」によって紡ぎだされてきた。

風土の神々の息吹が世界を語る声には宿っていた。

そして、それを人びとは近代の到来とともにあっけなく忘れた。

 

前回に触れた、足尾鉱毒をめぐって命を賭けて国家と闘いつづけた義人・田中正造もまた、やはり、一度は、それを忘れたのでした。正造は誇りを持って「下野(栃木)の百姓/土に生きる者」を自称していたというのに。

 

正造が「水めぐる世」を思い起こすには、近代の論理と思考によって既に風土の神々が瀕死の状態に追い込まれている渡良瀬川流域を、倒れてついに命を落とすまでひたすら歩かねばなりませんでした。

 

経験は新たな言葉を産みだします。

想像力の領域を広げます。

経験によって広げられた想像力と経験を母胎として紡ぎだされた新たな言葉は、新たな思想と世界を呼びだします。

 

正造は「水めぐる世」を思い起こした、とつい数行前に私は書きましたが、正しくは、下野の百姓・正造の身体を激しく打ちすえるかのようにやってきた近代経験が「水めぐる世」という新たな世界観/思想を正造にもたらした、と言うべきなのでしょう。

 

思い起こしたのではない。近代のはじまりの時点で、近代を乗り越えるための世界観/思想を、早くも正造はその体に孕んだ。と言うべきなのでしょう。

 

そこで、冒頭の問い1にかえります。

 

明治以前、風土の神々が息づき、鳥獣虫魚草木も人も同じ命として水めぐる風土を生きる、そんな世界観をざっくりと「アニミズム」的な世界観と呼ぶならば、それが近代的経験によって傷めつけられ、鍛えあげられ、新たな言葉を得たときに、どんな世界観へと変容していくのか?

 

ここで留意すべきは、「アニミズム」の本来的な形は、拠って立つ風土があるということ。

しかし、明治近代は、人と風土と風土に息づく命を無惨にもばっさりと断ち切ってゆく。

 

人は、この「切断」を越えて、「風土」なき世界において、想像力を以てリアルに「世界」とつながりなおすことができるのか? 「命」とつながりなおすことができるのか?

 

もちろん、この場合の「つながりなおす」とは、「生きなおす」ということと同義です。

 

このような問いを芯に置いた声によって立ち上げられる「文学」、

強靭な想像力をもって新たな世界観を差し出す「文学」、

 世に文学もさまざまありましょうが、いま、われわれが語ろうとしているのは、そのような「文学」です。

語るべきは、この近代の成れの果てのどうしようもない世界を書きかえる力を持つ「言葉」の母胎としての「文学」です。

想像し、創造して、生きとし生けるすべての命をつないで生きてゆくものとしての「文学」です。

 

人はなぜに言葉を持ち、歌い、踊り、やがて文学という創造の領域を持つように至ったのか、その起源に思いを馳せるならば、そして今のこの世界を眺めわたすならば、そのようなものとして以外の「文学」など語る意味も価値もない。

 

「文学」とは、世界の終わりに、新しい世界を携えてやってくる「異人」なのである。

そのように言うこともできましょう。

 

そこで、冒頭の問い2となるわけです。

 

「異人/来訪神」たちは、近代を潜り抜けて、いまどこにいるのか? 

 

 

というわけで、まずは、↓ の『田中正造 未来を紡ぐ思想人』によって、足尾鉱毒という近代の惨禍のなかで鍛え上げられた田中正造の世界観/思想を確かめていきます。

 

佐野市立郷土博物館前に立つ田中正造。

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 「水ヲ清メヨ」 ~田中正造の声を聴く~

 

 

「治水は造るものにあらず」と正造は言った。

そこには渡良瀬川をはじめとする利根川水系全体を歩きたおして体得した「水と自然の思想」がある。

「富国強兵」「殖産興業」の日本の近代とは。これを否定することからはじまったのだ。

 

●正造の治水行脚。

齢70にして、1910年8月10日から1911年1月30日までに、少なくとも1800キロ以上歩いている。それは本州縦断の距離に等しい。

これは、明治政府の治水政策の誤りを実証するための行脚だった。

この情熱、執念。生きとし生ける命のための。


1902年7月29日付「足尾銅山鉱業停止請願書」には10項目の「天産公共ノ利益」が挙げられている。

「その第二、水質ニ付」

「古来ハ水質佳良ニシテ飲料及ビ染色織物等多大ノ公益ヲ享有セシモノ悉ク害サレテ結局其用ヲ供スルヲ得ズ」


「すなわち、鉱毒問題とは、こうした昔からの川と人間の関係そのものを断ち切ることでもあった」(小松裕)


一方、明治政府は、鉱毒問題を治水問題にすり替えようとする。

(この時点で、既に、渡良瀬川氾濫の根本原因である上流の山々の「死」は、その山の恵みで生きていた松木村等の村々の滅亡によって、訴える者もない。もちろん山と共に死んでいった鳥獣虫魚草木も訴える声を持たない)


山が死んだ以上、そして、それを蘇生させる意志がない以上、吐き出されつづける鉱毒の被害を広げないために、洪水防止の遊水池を造る。そのために渡良瀬川下流の谷中村には犠牲になってもらう。

なぜ谷中村なのか? そこが二つの川の合流地点であるから。

合流地点では、氾濫時に溢れ出る水は逆流し、中流域の村々に甚大な被害を及ぼすから。

ここに遊水池=ダムを造れば、東京に鉱毒が流れ込むことも防げる。


しかし、これは本末転倒、おかしいではないか。


元(足尾銅山)を断たずに、無辜の民が生きる村を潰すのか?

(思い起こすこと。チッソの操業を停止させずに、国家は無辜の漁民を見殺しにしていく。それどころか、暴力で封じ込める)


●正造の言葉を書き写していってみよう。

 

「古への治水ハ地勢二よる、……然るに今の治水ハ之に反し、恰も条木(定規)を以経の筋を引く如し。山二岡二も頓着なく、地勢も天然も度外視して、真直二直角二造る。之れ造るなり、即ち治水を造るなり。/治水ハ造るもの二あらず」

(田中正造 日記 1911年8月30日)


「治水とは流水を治むると云ふにはあらず、水理を治むるを云える也」


「水ハ気車道ノ如ク無利ニ山ヲキリ川ヲ移動シテ妄リニ直経直行ヲ好ムモノニアラザルハ断々乎トシテ明カナリ。川ト道トハ全ク同ジカラズ。(中略)水ハ誠ニ天地ノ如シ。天地ノ大ヘナルハ法律ノ制裁ナシ。即水ノ心ナリ。水ハ尚神ノ如し。自由ニ自在の自然力ヲ有シ又物ヲ害サズ偽ラズ、故障アレバ避ケテ通ルハ水ノ性ナリ」


●正造の言葉をさらにどんどん書き写していってみよう。


「古人モ云ヒリ、水ノ流レを見レバ人ノ行ク末ガ見ヘルト」


確かにそうだ、断ち切られた水の流れを見れば、断ち切られた命の明日の姿が見えてくる。


「又曰く、治水ハ天の道ちなり。我々の得てよくする処にあらず。只謹みて他を害さゞらんとするのみ。流水の妨害をなさゞらんと欲するのみ。苟くも流水を汚さゞらんちするのみ。清浄ニ流さんとするのみ。村々国々郡々互ニ此心にて水ニ従ハゞ、水ハ喜んで海ニ行くのみ。我々ハ只山を愛し、川を愛するのみ、況んや人類をや。之れ治水の大要なり。」

 

私はここで、たとえば、石牟礼文学の「原風景」を足尾鉱毒事件とそのなかで語られた言葉の中に観ている。ここからはじまった近代、もうひとつの明治150年のはじまりの風景を観ている。

「山や川の寿命は万億年の寿命である。三十年や五十年の昔は彼れの一瞬間である。人の短へ寿命や短へ智識で考るから三十年とか五十年を昔の予府に感ずるのである。山派天地と共に並び立つ寿命である。又尊へものである。神ならぬ人間の干渉なぞは許さぬのです」

(田中正造 1909年12月5日の弁)


この言葉 ↑ は、庭田源八翁の『鉱毒地鳥獣虫魚被害実記』の言葉へと反転してつながってゆく。たった20年かそこらで万億年の命の記憶を忘れ果てる人間への嘆き。

 

「真の文明ハ山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さゞるべし」


「人ハ万事の霊なくもよろし、万物の奴隷でもよし、万物の奉公人でもよし、小使でよし。人ハ只万事万物の中に居るものニて、人の尊きハ万事万物二反きそこなわず、元気正しく孤立せざるにあり。之れ今日の考なり。尚考へてよき事を以てせん」

考えよ、考えつづけよと、正造は言う。

それは半世紀後に、目には見えない水脈をもって石牟礼道子に受け継がれ、そして、その水脈はいま誰が受け継ぐのか、

 

いったい誰が受け継ぐのか……。


人ハ天地ニ生れ天地とともにす、些の誤りなし。安心も立命も皆此天地の間ニ充てり。よろこびたのしみ又限りなし」

 

「日本死しても天地は死せず、天地と共ニ生きたる言動を以てせよ。天地と共ニ久しき二答へよ」


思うに、

水をとおして山を想い、川を想い、海を想い、人を想い、万事万物の霊を想うならば、たとえ近代の論理によって風土と命のつながりが断ち切られたとしても、強靭な想像力をもって、万事万物/生きとし生けるすべての命を想いぬくならば、それは必然的にアニミズムとなり、アナキズムとなることを正造は身を以て示す。

 

風土が消えゆこうとするなかで、想像の風土/命のよりしろを思い描く想像力がある、それをここではとりあえず「来たるべきアニミズム」と呼ぼう。

 

それは濁流のように押し寄せた近代によって明治初年にあっという間に消し去られていった「アニミズム」の再生であり、近代の濁流を経て、あらためて鍛え直されることにより、それは必然的にその胎のなかで「アナキズム」を育みそだててゆく。

 

なぜならば、「アニミズム」とは、そもそもは風土の小さき神々という無数の中心をそのうちに持つものであるから。無数の命の声を聴くものであるから。

さらには、それは、単に、かってのように人もまた無数の命の一つであるというような世界観を持つということにとどまらず、確固としたアイデンティティを持つ「近代的個」の前提である自他の境、生死の境、進化論的な時空のありようを根底から揺さぶるものとして到来するのである。

 

石牟礼道子がそうであったように。

石牟礼道子につづき、石牟礼道子を越えてゆく文学者たちがそうであるように。

 

※たとえば坂口恭平『現実宿り』(河出書房)。これもまた恐るべきアニミズム/アナキズムの世界。ここから放たれる無数の「私/あなた」の無数の声は、近代を完全に超えた。

 

<水俣と沖縄を結ぶ水脈。石牟礼道子にとってのイザイホウという想像力>

異人の到来

~ヘイトの時代に、あらためて「歓待」を考える。~

 

 

文学のはじまりの光景。

 

たとえば、ギリシャ叙事詩、ホメロスの『オデュッセイア』をひもとくと、次のような言葉が出てきます。

 

「さあ遠慮なくつまんで、楽しくやっていただきたい。食事を終えられたら、お二人に何処のどなかたかお伺いしよう。」(『オデュッセイア』第四歌 37~64行) 

 

 

「アンティノオスよ、憐れな浮浪者を撃つとは怪しからぬことだ。もしこの者が上天から降ってこられた神であったら、そなたの身は破滅だぞ。実際、神々は遠方からの異国人に身を変え、いかなる姿にもなって、人間の無法な振舞い、正義の行いに目を光らせつつ、町々を巡られるものなのだ。」(『オデュッセイア』第十七歌 477~487行) 

 

 

古代ギリシャ。

異人がやってくる、名も聞かず、素性を確かめることもなく、無条件の<歓待>で異人をもてなす。なぜなら、きっと、異人は神であるから。

 

これははフランス現代思想の大きな課題の一つである<歓待>の淵源でもあります。

 

一方、もっとずっと日本に生きる私たちに近しいところで、文学・芸能の源としての「来訪神としての異人(まれびと)」を語ったのは民俗学者折口信夫です。

 

折口は『国文学の発生』(1929)において次のように語ります。

 

「てっとりばやく、私の考えるまれびとの原の姿を言えば、神であった。第一義においては古代の村々に、海のあなたから時あって来り臨んで、その村人どもの生活を幸福にして還る霊物を意味していた。」

 

その神のイメージはといえば、

 

「村から遠いところにいる霊的な者が、春の初めに村人の間にある予祝と教訓を垂れるために来るのだ、と想像することはできないだろうか。蓑笠を著けた神、農村のはじめに村および家をおとずれる類例は、沖縄県の八重山列島にもあちこちに行われている」

 

「このおとづれ人の名をまやの神という」

 

「蒲葵(くば)の葉の蓑笠で顔姿を隠し、杖を手にしたまやの神。ともやまの神の二体が、船に乗って海岸の村に渡り来る。そうして家々の門を歴訪して、家人の畏怖して頭もえあげぬのを前にして、今年の農作関係のこと、あるいは家人の心を引き立てるような詞を陳べて廻る。そうしたうえで、また洋上遥かに去る形をする。つまりは、初春の祝言を述べて歩くのである」

 

 

異人/来訪神の祝言、祈りの言葉に、折口信夫は「この世にあらわれたはじめての文学のこ

とば」を聴き取り、 祈りの所作に「芸能の発生」を見ます。

 

 

ということで、折口が言うところの「まやの神」、今なお行われている共同体の重要な祭祀である石垣島・川平の「まゆんがんし」を観てみましょう。

  

折口は、二度の沖縄・八重山調査の旅をとおして、異人論のイメージをつかんだのだといいます。

一九二三年九月一日、その二度目の八重山踏査を終えた折口は船で北九州の門司港にたどりつく。

関東大震災の起きた日です。

それから2日後の9月3日夜に横浜に上陸、横浜から東京・谷中清水町(今の池之端)の自宅へと歩いてゆくことになります。

そのときの経験が詩「砂けぶり」となるわけです。

ここにも「異人」は登場します。

 

ここから先は、次回の話となります。