学習院文学演習第14回

本日は前期最終日。

 

まずは学生による前期「語り集中」演習のしめくくりの発表です。

 

お題は「「わたしはあんじゅひめ子である」で伊藤比呂美が叫んでいること」

 

 

 

 

さて、思うに、

「わたしはあんじゅひめ子である」とは、

説経の千年のさまよいの旅の末の「人間宣言」なのではないか。

 

「わたしはあんじゅひめ子である」に漂う説経の気配とは、蹴られて踏まれて殺されてゆく運命を担わされた女たちの気配でもあり、同時に、同じく運命に呪われた男どもー信徳丸や小栗判官や厨子王丸ーを背負ってよみがえりの道へと導いてゆく狂的な強さの気配でもあります。

 

苛酷な運命にしたたかに流されていくあんじゅひめ子は、生まれたときから異形です、異形ゆえにこの世から排除されようとした存在です、それは「わたしはあんじゅひめ子である」が下敷きにしている「お岩木様一代記」とは決定的に違う。

 

もしかしたら、女は女である、それだけでこの世においては「異形」のものなのかもしれません、「異形」でないのは、ある種の「男」だけなのかもしれません。

 

さらに「お岩木様」と「あんじゅひめ子」の決定的違いは、「あんじゅひめ子」は旅のさいごに「カミ」にはならぬということ、どうやらくりかえし殺されているらしいということ、

この永遠の異形殺しを断ち切る者として、あんじゅひめ子は現われたようにも思えます。

 

しかし、

「異形」は生きてはならぬのか、自分の意思で生きてはならぬのか、言葉をもってはならぬのか、湧きいずる言葉を放ってはいけないのか、

 

そんなわけがない、

 

異形ゆえにくりかえし殺されるあんじゅひめ子は、異形の者たちのよみがえりの地、四天王寺をめざします、

 

あんじゅひめ子は山に連れていけという山姥を背負って山にいきます、

山姥は山で巨大男根(みしゃぐち)と性交する、山姥のいる場所もまた、四天王寺同様、生と死の境目の場所です、

 

境界、混沌、そこは生きることのエネルギー、世界のエネルギーの根源の地です、その荒々しい根源的な力のひとつの形として、山姥がいて、つぎつぎに異形の命を産み落としてゆく、ことさらにこの世から排除されてきた異形ばかりをこの世に送りだしてゆく、あんじゅひめ子が背負うことになる「ひるこ」もまた異形ですね、日本史上最初の異形がひるこですね。闇に葬られたものたち、声を封じられたものたち、言葉を奪われたものたち、その憑代としての「ひるこ」がここにいますね。

 

歴史のはじまりのときから、闇に葬られ、歴史の時間のなかで言葉を持つことのなかったひるこにあんじゅひめ子は言葉を送りつづける、

 

思い出してください、言葉をもたないはずのひるこは、声にならない声をあんじゅひめ子に送っていたのです、その声にあんじゅひめ子は言葉を送った、

 

 

わたしはあんじゅひめ子である、

 

それは、きっと、ひるこの人間宣言でもありますね。

千年、万年かけて、ようやく闇の世界のひるこは人間になる、

あんじゅひめ子は人間になる。

 

「カミ」ならぬ「人間」あんじゅひめ子のはじまりの光景へと、私たちはあんじゅひめ子の声を追いかけてたどりつく。

 

ここまでようやくたどりついたのに、どうもこのところこの世はおかしい。

 

今日が7月27日で、当然にきのうが7月26日です。

 

二年前のこの日の未明に相模原障害者殺傷事件が起きました。そして、2018年のこの日、オウムの死刑囚たちの残りの6名が処刑された。

 

ここには、まず、「生産性」で命を選別する思想があり、

また、どんな命であれ、国家による命の殺傷をよしとする、つまり国家による命に対する究極の暴力をよしとする価値観がある、

 

命を「生産性」で選別することを堂々と述べる自民党議員杉田水脈(みお)が『新潮45』に論考を寄せ、ネットTVチャンネル桜で持論を展開したのも最近のことです。

 

杉田水脈の発言は、人生観の問題であるとして政権与党自民党で特に問題とされることもない。そもそも彼女はいわゆる安倍チルドレンと呼ばれる一群の議員たちのひとりです。

男女平等などありえないという考えの持ち主でもあります。

 

あんじゅひめ子の真逆に彼女はいる。いや、彼女は人間として再生できなかった、異形のままの、異形ゆえになぶられることを受け入れたあんじゅひめ子なのかもしれない。

 

しかし、杉田水脈が主張し、政府が黙認している「生産性」とやらの基準は何なのか?

さらに、言えば、

処分してもよい(死刑に処してもいい)命の基準を決めるのは誰なのか?

 

もはやはりぼての民主主義国家、法治国家にすぎない日本ですから、選別や処分の対象は権力を持つ者が恣意的な基準で決めることの危険は避けがたくある。

 

この危うい流れのなかで、きっと「生産性」のない最たるものとされるであろう文学は、どんな場所から、どんな言葉を、どのように紡ぎだしてゆくのか、

 

文学も「生産性」に奉仕する言葉を求められるのだろうか、かつての戦争のときのように。

 

問いを胸に燃えあがらせつつ、

 

作家木村友祐が、2018年6月にパリ・フランス国立東洋言語文化研究所でおこなった講演「生きものとして狂うこと ――震災後七年の個人的な報告」から、ほんの一部、以下の言葉を引用して、前期演習は終了です。

 

 

「震災と原発事故のショックによるトラウマで、人々の心は自分の暮らしを守る方へと向かいました。それが、日本の政権を独占するように担ってきた自民党支持への回帰となり、信用できない安倍首相の耳ざわりのいい言葉を鵜呑みにして彼の長期政権を支えてきた、というのが大雑把ですが、震災後の状況のぼくの見立てです。しかし、盤石な支持への傲りから、あるいは気の緩みから、安倍首相をはじめ自民党議員らが温存してきた数々の病理が噴き出してきました。戦後から清算しないでヘドロのように溜め込んできた、日本の負の歴史を改変したい極右思想や排外主義、国民を統制する国家主義への指向です。もはや、ぼくが生まれてこれまで見たことのなかったような別の国に、日本は様変わりしました。日本はもう、たとえ建前だけでも民主主義国家のふりをしていたかつての日本ではないのです。

 もちろん、そんなことを考えなければ、これまで通りの日常が、まだそこにあります。日々の営みの機微を描いて、人生とか男女関係とか存在の質感や深みを、知的にも情緒的にも戯画的にも描くことができるでしょう。しかし、その「日常」は、ほんとうに変化していないのでしょうか

 もし作家がみんな、そうした外部の異状を「ない」ことにして、今もこれからも変わらない日常を前提にした書き方を続けるなら、作品を書かないまでも何らかの方法で意思表示をしないなら、くり返しますが、たとえ本人はそのつもりはなくても、危険な方向へ進もうとしている政府の動きを、文学界全体で追認するのと同じことになると思います。間接的に「何も異状は起きてませんよ」というメッセージを与えることになる、ということです、それだと、今の音楽業界や芸能業界と、何も変わらなくなってしまう」

 

もしかして、もう、何も変わらなくなっているのではないか?