学習院大学文学演習第13回

 

 

本日は、

浪曲師玉川奈々福が、

朗読ならぬ「浪読み」を致しまする。

 

お題は

「わたしはあんじゅひめ子である <お父さんと私>編」

 

曲師は渡部八太夫。

 

 

 

 

 

 

 

カタリとか詩とか、注釈なしで聴いて読みたいものですが、授業の一環でありますので、野暮ではありますが、最低限の読む・聴くポイントを以下に。

 

 

<玉川奈々福 浪読版「わたしはあんじゅひめ子である」を読む・聴くにあたって>

 

 

 

●本日の浪読みは「抜き読み」。 

抜くにあたり、あんじゅひめ子と父たちの関係のほうに焦点が置かれている。

 

 

●この詩は長年説経節を追いかけてきた伊藤比呂美による<現代の説経節>である。

 伊藤が読んできたあらゆる説経節の気配がこの詩には漂っている。

 

 極めて分かりやすいところでは、既に冒頭から、伊藤は説経世界の扉を開いている。

 (どんなところか、まずは自分で考えてください)

 

●一方、この現代の説経節からは、「説経節」のはじまりとともにあったモノの姿が

消えている。  (大切なところです、自分で考えてください)

 

 

●この詩は、基本的に「お岩木様一代記」を下敷きにしつつ、

以下のような場面に分かれる。

 

 1. お岩木様に忠実な場面、

 2. お岩木様に書かれていたことであるが、過剰に書きこまれた場面、

 デフォルメされた場面、

 3. お岩木様では重要だったのに、消された場面

4. お岩木様にはなかった場面・ことがら

    

たとえば、

「てんのじ/天王寺」

 四天王寺所在地。

 説経における「四天王寺」の役割、重要性の想起。

           

「山姥」    

 お岩木山の「姥石」を想起せよ。                    

 民俗学上、「姥」はどのようなものとして語られているか。

 

「ひるこ」   

 古事記 冒頭  二神の結婚を参照。 

       

     これらは現代説経「わたしはあんじゅひめ子」において、

 それぞれにきわめて重要な存在であり、ワードである。

 

以上、これはすべて、とーぜんに、

説経に心惹かれ、「お岩木様一代記」に刺激された伊藤比呂美が、

みずからの声で「お岩木様」を乗っ取って、

何を語ろうとしたのか、訴えようとしたのか、

ということに直結することである。

 

 

で、伊藤比呂美の声から、あなたは何を聴きとったのでしょうか?

さて、本日はあとはたぶん、玉川奈々福世界の旅をめぐるお話。

 

ウズベキスタン 高麗人のブロガーによる

「玉川奈々福 タシケントの一日」

 

https://koryo-saram.ru/nanafuku-tamagava-v-tashkente/