本日は、
浪曲師玉川奈々福が、
朗読ならぬ「浪読み」を致しまする。
お題は
「わたしはあんじゅひめ子である」 <お父さんと私>編」
曲師は渡部八太夫。
カタリとか詩とか、注釈なしで聴いて読みたいものですが、授業の一環でありますので、野暮ではありますが、最低限の読む・聴くポイントを以下に。
<玉川奈々福 浪読版「わたしはあんじゅひめ子である」を読む・聴くにあたって>
●本日の浪読みは「抜き読み」。
抜くにあたり、あんじゅひめ子と父たちの関係のほうに焦点が置かれている。
●この詩は長年説経節を追いかけてきた伊藤比呂美による<現代の説経節>である。
伊藤が読んできたあらゆる説経節の気配がこの詩には漂っている。
極めて分かりやすいところでは、既に冒頭から、伊藤は説経世界の扉を開いている。
(どんなところか、まずは自分で考えてください)
●一方、この現代の説経節からは、「説経節」のはじまりとともにあったモノの姿が
消えている。 (大切なところです、自分で考えてください)
●この詩は、基本的に「お岩木様一代記」を下敷きにしつつ、
以下のような場面に分かれる。
1. お岩木様に忠実な場面、
2. お岩木様に書かれていたことであるが、過剰に書きこまれた場面、
デフォルメされた場面、
3. お岩木様では重要だったのに、消された場面
4. お岩木様にはなかった場面・ことがら
たとえば、
「てんのじ/天王寺」
四天王寺所在地。
説経における「四天王寺」の役割、重要性の想起。
「山姥」
お岩木山の「姥石」を想起せよ。
民俗学上、「姥」はどのようなものとして語られているか。
「ひるこ」
古事記 冒頭 二神の結婚を参照。
これらは現代説経「わたしはあんじゅひめ子」において、
それぞれにきわめて重要な存在であり、ワードである。
以上、これはすべて、とーぜんに、
説経に心惹かれ、「お岩木様一代記」に刺激された伊藤比呂美が、
みずからの声で「お岩木様」を乗っ取って、
何を語ろうとしたのか、訴えようとしたのか、
ということに直結することである。
で、伊藤比呂美の声から、あなたは何を聴きとったのでしょうか?
さて、本日はあとはたぶん、玉川奈々福世界の旅をめぐるお話。
ウズベキスタン 高麗人のブロガーによる
「玉川奈々福 タシケントの一日」
https://koryo-saram.ru/nanafuku-tamagava-v-tashkente/
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