学習院大学文学演習第12回

これは「かもめ組」のチラシです。

 

 

かもめ組は2012年10月に新潟の海辺の野外劇場 かもめシアターで結成。

 

メンバーは、浪曲師玉川奈々福、在日のパンソリ唱者安聖民(アン・ソンミン)、道案内役の作家姜信子。

 

ここで、まずは、日本ではなじみの薄い「パンソリ」について、説明します。

 

 

 

 

 

 

 

パンソリとは?

 

一人の唱者(チャンヂャ)鼓手(コス)の叩く太鼓の伴奏に合わせて、歌とせりふ、身振りで物語を語っていく伝統芸能。18世紀末に原型ができた頃には祭りや市の日に村の広場で行われる大道芸の一つとして演じられるものだった。

やがて支配層である両班(ヤンバン)が自宅の庭や座敷に唱者を招くことで室内でも演じられるようになり、漢詩や故事成語などが多く引用されるようになった。

2003年にはその独創性と優秀性が認められ、ユネスコ第2次「人類口伝および無形遺産傑作」に選定された。

古典演目として「春香歌(チュニャンガ)」、「沈清歌(シムチョンガ)」、「興甫歌(フンボガ)」、「水宮歌(スグンガ)」、「赤壁歌(チョッピョッカ)」の五つが現存する。

唱者は多くの登場人物を一人で演じ分け、伴奏者の鼓手(コス)は合いの手を入れながら状況によってリズムを変え、物語を展開させていく。「チョッタ(いいぞ)!」などの合いの手は観客が入れるとなおさらその場の雰囲気が盛り上がる。パンソリの場は本来、語る者と伴奏する者、そして観る者が一体となって創られるものなのである。

 

 

というように、大道の芸からはじまり、唱者と鼓手が息を合わせて、語りの場を形作ってゆくことにおいて、パンソリと浪曲は非常に似通った芸能です。

 

そして、浪曲×パンソリのかもめ組は、いわゆる「旅するカタリ(語り/騙り/加担り)」、旅ゆく先々で境をゆるがす声の「場」を開いてゆく一味です。

 

 

以下、姜信子著『現代説経集』からの引用です。

 

 

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旅するカタリの一味の名は「かもめ組」。それぞれに九十年代から蠢きはじめた。

 

玉川奈々福は一九九五年から曲師に、二〇〇一年には浪曲師の修業に入る。

 

安聖民は、一九九八年、大卒後九年間就いていた教職を投げ打ち、生まれ育った大阪から韓国へと、語り芸パンソリの修業に向かう。 (中略)  そもそも韓国自体が在日にとっては異郷、安は韓国のパンソリ修業仲間に「日本/いるぼーん」と呼ばれました、日本ではチョーセンと呼ばれてね、生まれ育った日本も異郷、異郷とはこの世の本当の名前なのでしょうか、そう、だから安聖民は異郷の声のパンソリ唱者の道をゆく。

 

そして姜信子。この人は、大きな声、白黒分かりやすい話は信じないヘソ曲がり、旧植民地の民の漂泊の旅の行方を追って島々を彷徨う。

二〇〇三年、遥かな歌声に引き寄せられて、日本の南の海の八重山群島石垣島で、沖縄最後のお座敷芸者ナミイおばあに出会います。自称、文字も知らないアキメクラ、実のところ、この世の島々の底のまた底の生を歌って踊って生き抜いてきた人でした。

姜はナミイを映画にしようと思い立つ、その映画『ナミイと唄えば』の案内人役には遊芸の民をと願った、そこに現われたのが玉川奈々福、二〇〇五年でした、奈々福は負け組と呼ばれても挫けぬ女たちの物語「浪曲シンデレラ」を作ったばかり。

 

新しい時代、新しいリズム、新しい浪曲。

 

さあ、運命はどんどん近づいてゆく。

二〇一〇年四月、大阪生野、朝鮮人の町。姜は四・三事件の追悼式典でパンソリを演じる安聖民を見た。四・三事件? それは、植民地支配からの解放後、南北分断に否と叫んだ済州島に吹き荒れたアカ狩りの狂風です、米韓連合の国家暴力です、見境なく島民の九人の一人が殺され、声を封じられた。安の祖父母は済州島出身でした。

 

二〇一二年一月、奈々福と姜は、東日本大震災の後の、芯のない言葉ばかりが宙を舞う中を、地べたの声のほうへと旅に出る。そのとき新潟から朝鮮半島を眺めやり、戦争と植民地で形作られてきたこの世界とわれらの声の行方をつくづくと想い、不意に思い立ったのです。

 

そうだ、浪曲とパンソリだ! われらは列島半島島々を行き交う新たな語りの道を拓こう! 

 

嬉しいじゃないですか、その声はすぐさま安に響いた。

 

(後略)

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二〇一三年二月九日。かもめ組結成後の初公演が、浪曲の本拠地・東京・浅草木馬亭で行われているそのとき、東京・新宿コリアンタウンでは、「朝鮮人皆殺し」を叫ぶ者たちによるヘイトデモが盛大に繰り広げられておりました。

 

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(蛇足の補足)

 

雑誌『航路』第四号のインタビューにこんな記事がありました。

 

京都のウトロ出身の在日で、世界的なジャグラーちゃんへん氏のインタビューです。

ざっくりまとめて書きます。

 

小学校四年生の時、小学校で「朝鮮人」いじめに遭っていた<ちゃんへん>、ある日、六年生たちが石を詰めたバケツを屋上から<ちゃんへん>めがけて落とした。これはぶつかれば命はないでしょう。さすがに、これは大問題と、目撃した先生によって、その犯人どもと<ちゃんへん>が校長室に呼ばれ、校長は「朝鮮人」いじめはよくないと説諭をはじめる。

(「人」をいじめてはいけないではなく、「朝鮮人」をいじめてはいけない、というところがミソの説諭ですね)

 

そこに<ちゃんへん>のオモニ/お母さんがちゃんへんを迎えに来る。

<ちゃんへん>のオモニは、若き頃、「アリラン特攻隊」というすさまじい名前の暴走族のメンバーで、日本人相手に大暴れした経験を持つツワモノです。

自分の体で、暴力をふるわれること、暴力をふるうことを知り尽くした人と言えるかもしれない。

 

このお母さんの言うことが凄い。

いじめはいかんと説諭する校長に向かって、そんな説諭は無駄だとばかりに、そんなことではいじめはなくならないと、

 

なんでいじめなくならへんのか、教えたろか、

それは、この学校の子どもたちにとって、いじめよりオモロいもんがないからや!

お前、学校のトップやったら子どもたちにいじめよりオモロいもん教えたれ。

 

いや、ほんとにすごいな、このオモニ。

 

私はこのオモニの言葉が、在日ヘイトのみならず、弱者叩きをする者たちが大手を振ってうようよと湧きだしてきた3・11後のこの日本の状況を見事についているように感じたのでした。

 

 

ヘイトよりおもしろいことがない社会って、なんなんだ?

 

そんな社会を創って支えているのは誰なんだ?

 

と、私も小声で叫んでみる。

 

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閑話休題

 

そもそも浪曲とパンソリの最初の最初の出会いは、植民地朝鮮でのことでありました。

きわめて近代的な出来事でありました。

 

出会いまでのそれぞれの動きをトレースしてみます。

 

まず「浪曲」。

 

これまでも語ってきたとおり、江戸の世に、語りを運んで旅する山伏祭文がありました。それが三味線と結び合って説経祭文という舞台芸能を産み落としたこともある、その説経祭文もやがて華やかな舞台を去って旅に出ます、祭りの場の声になります、この世の辻の芸能となります、上州祭文や阿呆陀羅経やチョンガレ、チョボクレ、願人坊主の声たちとともに。

 

語りは旅を生きる者たちの身過ぎ世過ぎでもありますゆえ、声は道の上を、こちらとあちらの境を行き交うものであるゆえ、道ゆく祭文語りたちは、旅の宿で瞽女と袖振りあうこともありました、江州音頭や河内音頭は祭文語りの旅の賜物でした。

 

文明開化の世になれば、この祭文語りの系譜のなかから浪曲が姿を現わします、

そして、浪曲は、近代以降、昭和の半ばまで、もっとも日本の大衆に愛される芸能となるのです。

それは移動と離郷の時代を生きる民の言葉と声と哀歓の賜物であったとも言われます。

 

浪曲とはきわめて近代的な語りであり、声であり、それは「近代国家 日本」の誕生と軌を一にする「草の根ナショナリズム」の声でもあった。

というのは、『〈声〉の国民国家 浪花節が創る日本近代』(兵藤裕己著)に見事に描き出されたとおりのことでありましょう。

 

そもそも、たかが祭文語りの芸能、寄席の舞台にも上がらせてもらえない辻芸(路上の芸)であった祭文が、全国的に大衆の支持を得たこと、

祭文語りなんぞをもっとも蔑んでいたはずの知識人の支持までをも得たこと、

その謎は、近代国家/国家意識からの目線、そして、国民/大衆からの目線、その二つの交差するところで、解き明かされてゆく。

 

まず国家意識との関わり。これはとても分かりやすい話。

賤しい芸能にすぎなかった浪曲が知識人や政治家の支持を得て、堂々と大劇場で演じられるようになる道を開いたのが、桃中軒雲右衛門です。

 

雲右衛門は九州・福岡の大アジア主義を掲げる玄洋社の人脈(頭山満ら)と結びつくことにより、下々への訴求力を持つ浪曲を「ナショナリズム」の器にもなしうることを知らしめ、たとえば「義士伝」(忠臣蔵)をその分かりやすい器とし、身なりもまたいわゆる国士のような衣装にあらためて、意気揚々と演じました。

(西洋列強に対抗するアジア主義を掲げて、清を打倒する辛亥革命の担い手となる孫文を支援した宮崎滔天(『三十三年の夢』岩波文庫 参照)が、雲右衛門の弟子となり、浪曲師桃中軒牛右衛門を名乗ったことも、当時の浪曲の器としての力をよく表すものでしょう。ただ、牛右衛門は浪曲師としては成功しなかったようではありますが……)。

 

こうして、巧みに国家意識と結び合ったことをもって、浪曲師桃中軒雲右衛門が「声」の国民国家の象徴として語られもするわけですが、一面ではまさにそのとおりと言えるのでしょうが、

「いや、それだけじゃないんだよね、それはあまりにきれいに整理されすぎているんだよね」という浪曲師たちの声も聞き逃すわけにはいかない。

これについては、後ほどまた詳しく語ることにします。

 

いずれにせよ、浪曲とは、近代以前の「声」、それも劇場の舞台に乗るような「声」ではなく、旅するカタリ(語り/騙り/加担りetc)どもの「声」から生まれでた近代の芸能であること。 その誕生の背景には、下記のような条件が整っていたことが重要です。

(これについては、『浪花節 流動する語り芸』(真鍋昌賢 せりか書房)を参照して、まとめています。) 

 

 

「浪花節は、国民国家の展開と資本主義の展開がからみあっていくなかで生成し変容していった、二〇世紀における最もポピュラーな「語り物」だった。」

 

という認識のもとに、整理をかけるならば――。

 

1.浪曲(浪花節)とは、地方と都市を結んで廻る芸能であったということ。

 

 ※村から都市への移動の時代でもあった「近代」を想起せよ。

  近代において都市は、地方出身者の集合体となっていったということ。

  そして、浪曲は、都市下層民のもっとも愛好する芸能であったということ。

 

以下『浪花節 流動する語り芸』よりの引用です。

 

「浪花節は明治後半期において、都市へ流入してくる人々に講談や落語以上に受けとめられていく、明治三〇年代には専門席が増殖していった。浪花節は、都市で生まれ育った者のみならず、それ以外の者にもひろく開かれていった」

 

 

「出身地の違いが、つまり文化的・言語的な地域差が、浪花節を楽しんだり、演じる上での障害になりにくかった」

 

 ※標準語の普及という視点も重要。

 ※近代というローラーで言語も文化も均一にならされていくさまを想像すること。

 ※義務教育の普及、国民皆兵、軍隊経験、戦争(日清・日露)経験による「想像の共同体」創成のなかでの、その過程と呼応する、芸能の次元での「想像の共同体」創成であったということ。それは「唱歌」や「軍歌」や「流行歌」でも進行していたこと。

 

「平易な表現によって、また韻律(フシ)にのせられて展開する浪花節の物語をたのしむ上では、江戸文化や上方文化の素養は基本的には必要ではなかった」

 

  ※清元・常磐津・端唄・長唄といった「江戸固着の演芸」や、都市文化である

 「落語」を楽しむ層とは異なる層としての近代の大衆の出現として、

  このことを考えるべし。

  

2.演者の個性を最大限に認める。/ フシの定型は個人に集約。

 ※ 路上の芸能であったゆえ、伝統や「定型」(家元制度)のような縛りはなく、

  個々の演者が独自の「フシ」を持つ自由さと、それゆえの裾野の広がり。

 

 

3.レコード、ラジオをとおして家庭に入り込んでいく/音楽産業(資本)との結びつき。

浪曲は「武士道鼓吹」という大義名分をスローガンに、それに見合った演出によって<劇場化>され、近代的メッセージの器として<媒体化>され、レコードとして<複製化>されていった。

 

 ※だが、劇場だけでなく、日本中の小屋で演じられていたのだということも、

  浪曲を論じるうえで大事なこと。

  また「武士道鼓吹」だけが語られたのではないということは、とても重要。

 

 ※浪曲は、初めてSP版が日本で発売された1902年から重要なコンテンツとして

  数多く吹きこまれた。

 

 ※ラジオ放送の開始は、1925年。もちろん、ここでも浪曲は重要なコンテンツ。

 

 

4.浪曲は素人が真似ることのできる芸能。真似るための条件が整っている芸能だった。

 ラジオでキク、レコードでキク、浪曲台本をヨム、そしてマネル。

 それは、あえてたとえて言うならば、今のカラオケ文化のようなもの。 

(戦後の浪曲教室の隆盛。素人ながら玄人はだしの天狗連の存在。レコードそのままに語って唸れるそれはもう多くの人々がいた。)

 

国民の芸能・浪曲は、植民地朝鮮でももちろん演じられました。

日本人のいるところならば、樺太でも、朝鮮でも、満州でも、台湾でも、南洋でも、近代国家日本の拡大と共に。

 

 

そして、植民地で、浪曲とパンソリが出会う。

 

植民地朝鮮で、浪曲「春香伝」のSP盤が発売されたのが、1932年のことでありました。

 

 これは、朝鮮の語り芸「パンソリ」の代表的な演目である「春香伝」の浪曲化であります。タイトル以外、詳細はよくわかりません。が、浪曲とパンソリの「語り芸」としての親和性を示す一例ではありましょう。

(ちなみに、植民地でのパンソリ「春香伝」のSP盤発売は1937年のことです。おそらく、1932年の浪曲「春香伝」は、語り手も聴き手も日本人だったのではなかろうか。)

 

このような近代的な文化的混淆ということであれば、

「戦争」と「植民地」と大規模な「移動」の時代にあって、日本では、歌舞伎や西洋のミュージカルや浪曲が出会って浪曲版和風ミュージカルである「節劇」が生まれている。

 

植民地朝鮮では、中国の京劇や日本の新派劇(西洋風の近代劇)やパンソリが出会って1900年代に「唱劇」が生まれている。

(cf 映画『西便制(邦題「風の丘を越えて」の唱劇場面))

 

やがて、戦時中には、日本でも、植民地朝鮮でも(!)、「愛国浪曲」が作られて放送されます。SPレコード盤も発売されます。

(愛国「パンソリ」ではないんですね、さすがに。朝鮮の語り芸パンソリによって、日本を愛する物語を語るとなれば、それはとてつもない捻じれとしか言いようがないでしょうから)。

 

朝鮮語の愛国浪曲として非常にわかりやすいものとしては、「壮烈 李仁錫上等兵」があります。1940年春に朝鮮人志願兵李仁錫が北支戦線で戦死するや、すぐさま李仁錫を讃えるべく作られ、京城放送局が放送したものです。浪曲師は崔八根(チェ・パルグン)。

 

朝鮮語浪曲「壮烈 李仁錫上等兵」の出だしは、大略、こんな熱烈な内容です。

 

 ――日章旗はためく玉泉停車場! 「李仁錫万歳」の声! 天をも轟かす感激に包まれた広場! 静かに厳そかに立つ李仁錫君! 故郷の先輩、家族、友人が心を尽くして見送る丈夫の鉄石のごとき胸中には熱い涙が流れるのである。これほどの真心をいただいて戦地に向かわば、大きな夢を達せずして帰られようか。七たび死んで八たび生きるのだ、お国に忠誠を捧げるのだ!

 

この、崔八根(チェ・パルグン)という、日本で三波春夫も学んだという浪曲学校で修業した朝鮮人浪曲師の朝鮮語による愛国浪曲は、愛国浪曲の雄・寿々木米若の節を使いながらも、伴奏も三味線なのだけれども、なんだかパンソリのようなものでもありました。

(崔八根の「百済の刀」という音源を現役浪曲師に聞いてもらったところ、このフシは寿々木与米若だ! と。)

 

寿々木米若「佐渡情話」と崔八根「百済の刀」聴き比べ。

 

そして、戦時下の植民地で精力的に朝鮮語浪曲を演じた崔八根と朝鮮語浪曲は、日本の敗戦と植民地支配の終わりとともに姿を消します。

 

崔八根のその後は杳としてしれません。

 

しかし、愛国浪曲を語る者も、聞く者も、心底、裏も表も、愛国だったのか? 

 

まずは「愛国浪曲」のこんな一節。

 

「今の日本は国を挙げ、大君のために益良男(ますらお)が、命捧げて支那の空、銃後の民を心して、新体制の旗の下、ともども進む非常時に、いくら正しい利益でも、私ごとや色酒に、湯水とつかふは何事です。しがない芸者のあたしぢゃとて、ラジオニュースや新聞を、日毎聴くたび読むたびに、何時も感謝で泣けてくる」

(『浪花節 流動する語り芸』より)

 

こんなセリフは演じるほうも、聞かされるほうも、かなわない。あからさまの国家からのメッセージです。

 

客ウケしなければ、いかに国家推奨の浪曲であっても、演じつづけるのは難しい。

おしなべて、愛国浪曲の寿命は短かったといいます。

つまらぬ愛国浪曲は客に「浪曲」とはみなされず、ある愛国浪曲発表会の場で、客席から、「浪花節(浪曲)をやってくれや」という声が飛んだという事例が『浪花節 流動する語り芸』に紹介されています。

 

さらには、「語り芸」においては、聴き手の側に、おしつけがましい国家からのメッセージをよけて物語を聞く自由がある、耳に入る語りの声を自分の想うままに解釈して受け取る自由がある、自分の好きな部分だけを耳をダンボにして聴く自由もある。

 

あるいは、言葉は戦意高揚の勇ましいものであれど、演じる側がそれに悲哀に満ちた節をつけるならば、その悲哀のほうに聴き手の耳は反応する。

 

声というものは、いかに枠をはめたとて、逸脱するのである、ということを『浪花節 流動する語り芸』の叙述は示唆します。

 

そう、語り手にとっても、聴き手にとっても、声は逸脱するものなのです。

それこそが声の危うさであり、声の力であり、声の魅力なのです。

 

 

 

ということで、今日は、かもめ組のメンバー、在日のパンソリ唱者安聖民のパンソリ「水宮歌」の一場面を映像で観ます。

 

 

よりよく安聖民の「水宮歌」を受けとめるために、その前段として、

彼女が在日でありながら、韓国人でも難しい伝統の語り芸「パンソリ」の修業に入った背景を、ドキュメンタリー『アリラン峠を越えてゆく』のダイジェスト版で確認します。

 

で、このドキュメンタリーのダイジェスト版を理解するために、いくつか注釈。

(と、屋上屋を重ねていくような説明にならざるを得ないのは、これがマイノリティの声をめぐることであり、それは「想像の共同体」から思いっきり放り捨てられた声であるから)

 

 

まず「朝鮮籍」について。

 

これはよく誤解されますが、一般的には「無国籍」ということです。

 

植民地時代に「朝鮮戸籍」によって管理される「日本国臣民」であった者たち(そのほとんどは朝鮮人でありますが、なかには朝鮮人と結婚した日本人妻も含まれる)は、戦後、1952年に、日本がサンフランシスコ条約の発効と同時に国家主権を回復するにあたり、一片の行政通達をもって日本国籍を持たぬ外国人とされます。そして、外国人登録においては「朝鮮籍」として処理された。これは、かつて「朝鮮戸籍」に属していたという以上の意味はありません。

しかも、日本国籍を失ったからといって、自動的に「韓国籍」や「北朝鮮籍」になるわけではなく、「無国籍」になる。それは、この地球上で、どの国家の庇護下にもない民になるということです。そういう状態に、日本国は、一夜にして、植民地支配の結果日本に暮らすようになった民を追いやったということです。

 

とりあえず最も可能性のある選択肢である韓国と北朝鮮は、どちらも米ソという大国を背後において、朝鮮半島を南北に分断する形で1948年に建国された国家です。その二つの国家は1952年現在、朝鮮戦争(1950.6.25~)の真っ只中にある。在日とは、この分断国家のどちらかを選べと、究極の選択を迫られる存在となったわけです。

 

なにがどうして究極の選択なのかといえば、

北にしろ、南にしろ、国民登録をすることは、南北分断を受け入れることになってしまう、それゆえに、いまもって、あえて無国籍でありつづける反骨の民が「朝鮮籍」保有者のなかには少なからずいる。

 

1961年に日本で生まれた私の場合、残念なことに、親が1969年に韓国の国民登録をして以来韓国籍です。自分の意思で国籍を選ぶ自由はあらかじめ封じられていました。もちろん、1969年までは無国籍/朝鮮籍でした。

 

 

「朝鮮学校」について

 

戦後、在日朝鮮人の間で、まずは国語講習所という形で、民族学校の原型と言えるものが立ち上げられます。植民地の「皇国臣民」であった間、朝鮮語や朝鮮文化は否定の対象でしかなく、日本の敗戦とともにまずは朝鮮語を取り戻すために有志の手により学びの場が作られたという経緯があります。それが次第に民族教育の場として成長してゆくのですが、この民族教育の場もまた戦後の日本政府によって否定されることとなります。

 

※1948年1月24日 文部省学校教育局長通達

現在日本に在留する朝鮮人は、昭和21 年11 月20 日付総司令部発表により日本の法令に服さなければならない。従って朝鮮人の子弟であっても学齢に該当する者は日本人同様、市町村長村立または私立の小学校、又は中学校に就学させなければならない。
(この通達により、事実上、朝鮮学校の存在は否定された。民族教育の核心となる朝鮮語教育についても、学校教育法によって認可を受けた小中学校で「課外で行うこと」以外は認めていない。これは、在日朝鮮人にとって、戦前の皇民化教育の再現として受けとめられた。このことが1948年4月の阪神教育闘争へとつながっていく)

 

 

※1965年12月28日 文部省「朝鮮人のみを収容する教育施設の取り扱いについて」(文管振第210号)(都道府県教育委員会・知事宛文部事務次官通達)

朝鮮人のみを収容する公立小学校分校が法令違反の不正常な状態にあると認められる場合はその存続を検討すること、今後設置すべきでないこと、朝鮮人のみを収容する私立の教育施設は学校教育法上の学校として、また朝鮮人としての民族性または国民性を涵養することを目的とする朝鮮学校は各種学校として認可すべきでない。

 

日本の公立学校への在日子弟の入学は恩恵として認める、しかしそこでは日本国民としての教育がなされる。

一方、日本に暮らしつつ、民族教育を受けようとするならば、その始まりのときから日本政府によって否定されてきた民族学校/朝鮮学校に行く、という選択肢しか与えられてこなかった。

 

この「日本人への同化」か「日本社会からの排除」かのひどく狭いはざまに生まれ育ってきた三名の歌い手(安聖民、宋明花、李政美)が、ドキュメンタリー「アリラン峠を越えてゆく」の主要な登場人物です。

彼女たちのうち2名(宋明花、李政美)は民族学校卒です。

そして、彼女たちは「声」を持つことで、同化でも排除でもない、境を越えて生きる場を創り出そうとしてきた。

 

それは政治的に北朝鮮を支持するとか、韓国人のアイデンティティを持つとかいうようなナショナリズムの次元の「声」ではありません。

 

「アリラン峠を越えてゆく」とは、「近代国民国家の分断の発想を越えてゆく」 ことなのであり、越えてゆく、逸脱する「声」を放つことなのです。

 

 

『アリラン峠を越えてゆく』ダイジェスト版を観る。

 

 

 

 

 ということで、ようやく「かもめ組」の仲間、安聖民のパンソリにまでたどり着きました。

 演目は『水宮歌』。

 

全編を観るのは到底無理なので、一部抜粋です。

 

物語は竜王が病に倒れ、その病には「地上に住むウサギの肝」が効くという仙医の見立てからはじまります。

誰が地上にウサギの肝を取りに行くのか、みなが尻込みする中で名乗りをあげたのが、スッポンのピョルチュブでした。

しかし、ピョルチュブはウサギを見たことがない。

そこで絵師がウサギの絵を描いてピョルチュブに持たせる。

母親や妻に行かないでほしいと懇願されながらも、ピョルチュブは地上へと旅立ちます。

初めて見る地上の風景に感動します。

地上では、さまざまな鳥たちが、誰が一番偉いのか言い争っていました(上座争い)。

獣たちも上座争いをしていました。

その上座争いのなかに、スッポンのピョルチュブは、ウサギを見つけるのです。

 

そこから、安聖民実演の映像です。

 

https://youtu.be/BAmdWuYbU3g?t=16m39s (21分)