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学習院大学文学演習第10回

 

まずは4年前2014年10月の日記から。

 

日本の各地でその風土のなかで変容する「山椒太夫」の物語を追いかけ佐渡に渡る、その前に記したこと。

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2014-10-29 佐渡への旅の支度。 メモ。

 

ちょっと手間のかかる校閲作業を終えて、一休み。さあ、佐渡の安寿伝説を訪ねる旅の準備を始めよう。

森鴎外の「山椒大夫」のもとになっている説経節「さんせう太夫」は、人形浄瑠璃、瞽女唄、イタコのお岩木様一代記とさまざまに語られ歌われ日本各地にさまざまな形で、まるで「さんせう太夫」の物語が本当にあったことかのような伝説を残している。

佐渡には佐渡の、佐渡の風土に根差した伝説がいくつも。

森鴎外版では丹後由良で入水自殺した安寿が、佐渡で演じられてきた文弥節の人形芝居では、山椒太夫の拷問を生きのびて佐渡までやってくる。

その物語展開に添った安寿伝説が佐渡のそこかしこにある。

 

口承の物語の場合、

(近代以前、庶民が享受した物語は「読む」ではなく、「聴く」という形で声をとおしてやってきたということを想い起こしつつ)、

夢と現、虚と実、彼岸と此岸、今と昔、といったことの境目は、今を生きる私たちのような認識では受け止められてはいなかった、私達が見失ったなにか世界の別の認識のありようが

そこにはあった、と私は最近つくづくと感じている。

 

そんなことを思う時、私が思いうかべるのは、

保苅実の『ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』。

 

あるいは、ブルース・チャトウィンの『ソングライン』。

「歌は土地に名前をつけ、歌った土地を超えて存在しつづける」 (ハイデッガー『詩はなんのためにあるのか』より)

これはブルース・チャトウィンが『ソングライン』のなかで引いている言葉。

 

人間が世界を形作るために歩いてきた歌の道がある。

歌うことで真実となる世界がある。

語ることで真実となる世界がある。

まず世界があるのではない。

私たちの声が創りだす世界があり、人はその世界を歌いながら語りながら生きる。

 

そんな人と声と世界のありようを、近代の論理の彼方にいまいちど、さぐりなおす、

そんな旅を夢見つつ、一歩一歩 歩いてゆく、

佐渡の旅もそんな一歩のひとつ。

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そういうわけで、本日は院生金子君による『ラディカル・オーラル・ヒストリー』をめぐる発表です。

 

 

 本日のテーマに関わる言葉をいくつか挙げていきます。

 

1.まずはモンテーニュのこの言葉。 

  (この世界を語る「詩」の言葉の生まれくるところをめぐって)

 

「旅に出て、少しも心を改めることのない人があった」という話にソクラテスはこう答えた。「ありそうなことだ。その人は、自分を携えたまま旅をしたのだ」

 

これはピエール・クラストルの『国家に抗する社会』の第一章の扉に置かれている言葉でもあります。

 

<未開社会/国家をもたない社会>は、文明への階段のはじまりにあるのではなく、<国家に抗する社会>なのだ、

西欧近代的な進化論の発想で<未開社会/国家に抗する社会>を捕えてはならない、

というクラストルの論は魅力的です。

 

クラストルの語るところによれば、

<国家に抗する社会>では、首長に権力がない。権力を持たない首長が果たすべき役割のなかでとても意味深く、重要な役割が「言葉」です。

首長とは「語る者」なのです。誰も聞いていなくとも首長は語らねばならない。

 

つまり、

「国家を形成する社会」では、言葉とは権力の持つ権利でありますが、

「国家に抗する社会/未開社会」では、言葉は権力を持たない首長に課せられている義務、「語る者」としての首長の義務だというのです。

 

「首長の言葉は、耳を傾けられるべく発せられるのではない。首長の語りに注意を払う者はひとりもいない」

「未開社会、国家なき社会においては、権力は首長のもとにない。だからこそ、その言葉は、権力の言葉、命令の言葉たりえない」

というわけです。

 

権力は集団そのものが持っている。首長は権力の外に置かれている。

そして、聞く者もなく発せられる首長の言葉は孤独だ。

 

しかし、そうなると、いったい、それはどんな言葉なのか?

 

クラストルはこう言います。

 

「孤立の裡に発せられる首長の語りは、記号というよりは価値物として語に接する詩人の言葉を思わせる」

 

「インディアンの文化、魅惑にみちた権力を斥けてやまぬ文化、そこでは首長の豊かさは集団にとって眼ざめたまま見られる夢なのだ。」

 

この、西洋近代の外に歩み出て、多元的世界を語るフランスの若き民族学者が描き出す<国家に抗する社会>のヴィジョンは実に魅力的であり、刺激的です。

 

権力を持たぬ、その意味で「社会の空虚な中心」とも「社会の周縁/異人の立つ場」の存在とも言いうる首長が放つ言葉は、詩人の言葉なのです。

 

それは、日常生活のなかで交換され、流通する「記号」としての言葉ではないのです。

 

ある集団の日常の枠の中のやりとり(交換の記号)からはずれたところからやってくる「言葉」とは、実のところ、根底から世界を語る言葉/「神話」と接続するものであり、

生きつづける世界にその力を日々注いでゆく「語り」/「詩」につらなってゆくものなのではないだろうか。  

と、私自身の神話/詩/文学に寄せる思いも込めて、クラストルのヴィジョンをそのように受け取りたい私がいます。

 

つまり、集団のはずれに追いやられて、集団の文化によって否認された「権力」の場に詩人がいるという、

裏を返せば、そこは、詩人こそが真の権力者(=言葉によって世界を支える者)である世界である

というように、クラストルが差し出す「権力なき首長」のイメージの中に見る(というより、見たがっている)私がいるのです。

 

 

  

2.次いで、詩人の管啓次郎さんのこの言葉。

  (土地の「聖性」をめぐって)

 

「土地を知ることだけが、生存を支える」(管啓次郎『野生哲学』) 

 

東日本大震災の1年後に刊行されたこの本のあとがきで、管さんは、

「最近の二百年あまりのごくローカルな(西欧を起源とする)発想」では今後はもう絶対にやってはいけない、生存を維持できない、と語り、

大地の美しさと生命に対する尊敬を保つためには、「われわれは自然に対するばかげた戦いをやめ、(そして確実にすべての生命を予測不可能なかたちで傷つける)巨大技術をみずから封印しなくてはならない」と言います。

 

そして、土地の「聖性」に対する感覚のかけがえのなさを語ります。

(本演習でも、「語り」と「声」と土地に根づいた「小さき神々/聖性」の深い関わりを繰り返し語ってきたのだった。それを近代をくぐってふたたびよみがえらせることの意味を考えてきたのだった。)

 

確かにそうです。 

人間のみならず、すべての命を生み育む土地はこの世に無数で、すさまじく多様です。

そしてすべての土地に聖性/小さき神々は宿っている。

すべての土地に記憶は宿り、すべての土地に歴史があり、すべての土地にその歴史を語る言葉がある。

たとえ、西欧近代の思考がそれを否定したとしても。

(これは、保苅実が『ラディカル・オーラル・ヒストリー』で語っていることに大いに通ずることです)

 

 西洋近代を普遍とする考え方に徹底的に抗して、近代を越えて生きてゆくために、管さんはこんな問いを私たちに投げかけます。

 

●きみは自分を作り上げる物質の故郷を知っているか。

●きみはきみの祖霊たちが宿る場所をそれとさししめすことができるか。

●きみはきみが生活圏とする土地のいくつかの美しいポイントに回帰的にたたずむことがあるか。

 

これは、つまり、私たちが「土地の人々」であるかどうかを確かめる問いであり、普遍のなかには回収され得ない土地の固有性、多様性、聖性、豊饒さをいまいいちど想い起こすよすがでもあります。 

 

近代を超えて、私たちの中でふたたび「土地」と「言葉」が結びついた時、私たちの「声」と「聖性」が結び合った時、私たちはどのような「世界」を呼び出すのだろうか。

そんなひそかな愉しみが「土地」からは立ち上がってくるようなのです。

 

 

さらに思いつくまま言葉を並べます。

3.森元斎さんの「アナキズム入門」から

 (アナキズムとアニミズム/「聖性」をめぐって)

   

「アナキズムは、権力による強制なしに人間がたがいに助けあって生きてゆくことを理想とする思想」

 

この言葉を森さんは、鶴見俊輔『身ぶりとしての抵抗』から引いてきます。

大事なのは「相互扶助」だと念を押します。そして、さらに、鶴見俊輔のこの言葉を引く。

 

「結局は能率的な軍隊の形式にゆきつくような近代化に対抗するためには、その近代化から派生した人道主義的な抽象観念をもって対抗するのでは足りない。国家のになう近代に全体としてむきあうような別の場所にたつことが、持久力ある抵抗のために必要である。二十世紀に入ってからうまれた全体主義国家体制のうまれる以前の人間の伝統から、われわれはまなびなおすという道を、新しくさがしだそうという努力が試みられていい。(中略)人間の文明を見るわくぐみは、考え直されるべき時に来ている。カラスに変身するなどというのは、ばかげたことに思えるかもしれないが、自然と人間とを新しく結びつけるわくぐみの中で、文明を考えてゆく方法としてこのような情念の形成が意味を持つ」

 

 

ここで、また「言葉」が重要な要素として浮かび上がってくる。

 

森元斎さんは、あらゆる未開民族と呼ばれる人たちが有していた「知恵」「儀式」「生の技法」「言語」「思考方法」を語りだす、

なにより「言語」だ、「知恵」「儀式」「生の技法」「思考方法」を貫く「詩的言語」(!)なのだと。

 (これは、クラストルの「権力なき首長」の「詩人の言葉」と響き合う。)

 

論理ではなく、見えない聞こえない真偽のない権力のない地平から立ち上ってくる詩的言語。それが今を生きるアナキズムにとってとても大事。

 

21世紀の今も、日常のレベルでも、

「多くの場合、私たちは詩的言語を発話している。」

「真偽判断にかけてみれば、多くが偽となるのは明らか」な詩的言語で私たちは語り合っているのだと森元斎さんは言います。

 

(「詩的言語」というその響きは、クラストルの権力なき首長の言葉を想起させます。

それは『ラディカル・オーラル・ヒストリー』のグリンジの長老の「歴史語り」を想起させもします)

 

 

ここで、『ラディカル・オーラル・ヒストリー』からの問い。

 

近代化=世界の脱魔術化は、世界を支配する唯一の原理か?

 

「歴史学者であっても、世俗的で均質な歴史時空とは異なる、神や精霊が行為する時空にもその身を同時において生きているのである。たとえそれが、近代の公共世界から周到に排除され、生活世界の中で<断片化>されているとしても」

 

この問いは、エリアーデのこの言葉とともにあります。

「人間の思考や活動にとって、聖性は過去のものではない」

 

ここで重要なのは、

長い長い人類史のなかで、人間の生きる世界、人間の思考、人間の活動において、「聖性」はずっと決定的に重要なものであったということ。

人間が「聖性」をかえりみなくなるのは、西洋近代が世界をおおいはじめた、たかだか100年~200年くらいのことだということ。

 

「聖性」を忘れた世俗の生。

それは日本ならば、明治150年間のできごとにすぎません。

 

そこで、アナキスト森元斎は、

詩的言語の地平から、人間も動物も自然もともに存在している、心を通い合わせている、そんな「われら未開民族」として、論理や理性、近代や国家、そして権威と向き合うのだ、と説く。

「これはアナキズムの本性だ」と。「地を這うことが重要なのだ」と。 

(ここで、アナキズムは確かにアニミズムと響き合っています)。

 

そうだ、森元斎の言うとおりだ、

われらは、未開民族なのだ! アナキストなのだ! 土地の聖性を感受する者なのだ!

 

と、ひと声さけんだところで、

ここまでくれば、

私は、アニミズムとアナキズムの出会ったところから生れ出て、近代を揺さぶり、近代の彼方へと向かう言葉を放つ詩を、文学を、たとえば石牟礼道子の言葉を思わざるをえないのです。

 

4. 石牟礼道子の地を這う言葉

  (アニミズムとアナキズムの出会い直しから生まれる文学の言葉をめぐって)

 

 

石牟礼道子「幻のえにし」より 

 

ひともわれもいのちの真際 かくばかりかなしきゆえに

煙立つ雪炎の海を行くごとくなれば

われより深く死なんとする鳥の眸に逢えるなり

はたまたその海の割るるときあらわれて

地の低きところを這う虫に逢えるなり

この虫の死にざまに添わんとするときようやくにして 

われもまたにんげんのいちいんなりしや

 

文学において、既にその核心において、「聖性」の蘇生ははじまりつつあり、新たな「聖性」の語りは、既に近代的思考に縛られた世俗の超えて、近代の彼方へと命を潤す水のように流れ出しているのではないのでしょうか。

 

より分かりやすいところでは、もののけ姫、千と千尋、ナウシカ、これらジブリが描き出した世界も、近代の彼方を眼差しつつ、「聖性」のよみがえりを企む詩的言語として観てみよてもよいのかもしれません。

 

(まだわれらに時間は残されているだろうか?

 この水の流れがとどこおり、濁り、干上がってしまわぬよう祈りつつ、

 水の流れを受け継ぐ者であれることを願いつつ) 

 

 

さて、近代、近代と、近代の行き詰まりをここまで語ってくるならば、ずいぶんと言い古されたアドルノの言葉もついつい思い出してしまいます。

 

 4.近代の行きつく果ての言葉

  (新たなる「未開民族」、新たなる「野蛮人」をめぐって)

 

アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である。

 

これを、 

普遍であり文明であるはずの西洋近代の行き着く先が、アウシュビッツという「野蛮」の極致であったとき、西洋の近代精神の発露である詩もまた野蛮でしかありえない。と解するのは、容易です。

 

しかし、ここまできたなら、こう読み換えよう。

 

われらはふたたび真の意味で野蛮になるのだ、

野蛮の言葉で歴史を語るのだ、

野蛮の言葉で詩をうたうのだ、

野蛮の言葉で世界を書きかえるのだ、

 

アウシュビッツ以降、詩を書くことは素晴らしく野蛮であるべきである。

 

 

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参考)

 

幻のえにし  石牟礼 道子

 

生死のあわいにあればなつかしく候

みなみなまぼろしのえにしなり

御身の勤行に殉ずるにあらず

ひとえにわたくしのかなしみに殉ずるにあれば

道行のえにしはまぼろしふかくして

一刻の闇のなかなりし

ひともわれもいのちの真際 かくばかりかなしきゆえに

煙立つ雪炎の海を行くごとくなれば

われより深く死なんとする鳥の眸に逢えるなり

はたまたその海の割るるときあらわれて

地の低きところを這う虫に逢えるなり

この虫の死にざまに添わんとするときようやくにして

われもまたにんげんのいちいんなりしや

かかるいのちのごとくなればこの世とはわが世のみにて我も御身も

ひとりのきわみの世を相果てるべく なつかしきかな

今ひとたびにんげんに生まるるべしや 生類の都はいずくなりや

わが祖は草の祖 四季の風を司り

魚の祭を祀りたまえども

生類の邑(むら)はすでになし

かりそめならず 今生の刻をゆくに

わがまみふかき雪なりしか