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学習院大学文学演習 第8回

まずは文体の問題。

 

ちょうど526日朝日新聞書評面に面白い書評が出ました。

 

『鴎外・ドイツみやげ三部作』、鴎外の初期作品の現代語訳についての文芸評論家斉藤美奈子さんの書評です。ここには、実に簡潔に文体が映し出すものが書かれている。

漢語体で語る「余」は、その文体という鎧を剥ぎとったなら、どんな人間になるんだろ? と。

 逆に言えば、現代語訳と対比させることで、鴎外の「文体」は、いったいどういう意識で選び取られたものなのか、ということが鮮やかに浮かび上がりますね。

 

「鎧を脱いだ大田豊太郎は一種のツンデレ?」と斉藤美奈子さんは書いているけれど、現代語訳のおろおろ豊太郎は、世間知らずで想像力に乏しくて、欲望ゆえの失敗を志で覆って誤魔化す自己チューの官僚候補生。今でもよくあるタイプでしょう。

 

それはともかく、以下は、念のための繰り返しです。

 

文学において、文体とは、書き手が意識的に選びとる「声」であり、その「声」には発話の主体である近代的「個」の世界観、その世界の中での立ち位置、価値観、人間観等々が必然的ににじみでるものです。

 

そして、近代的「個」とは、森鴎外の場合ならば、誕生したばかりの大日本帝国という国民国家の国民、そして自身はその重要な担い手の一人であるという青雲の志を胸に秘めた「個」であるわけです。

 

この「個」の文体は国民国家に捕らわれている。

 

だからこその、国民文学のはじめを告げる『舞姫』であり、その文体でもあろうというものです。

 

 そうなれば、明治の世における近代文学の生成とは、「国民文学」の生成であったのか、「国民」という「枠」を形作る言葉の生成なのか、ということにもなりましょう。

 

そこで、いやでも思い起こされるのは、関東大震災直後の「標準語テスト」です。

 

これはデマに踊った人々による(「踊らされた」とは言いません、主体的な行為としての「踊った」をあえて使います)不逞鮮人を捕まえるための言葉の試験。

「十五円五十銭」。じゅうごえんごじゅっせん。

この標準語テストに不合格となった多くの人々が「不逞鮮人」認定を受けて、殺された。

そのなかには関東の人には聞き慣れない方言を話す者たちも含まれています。千葉のある村では、香川県からやってきた旅芸人の一座が女子どもも容赦なく集団虐殺されている。

賤しい河原者であると同時に神とつながる存在でもあった旅の芸能者が、言葉の違いゆえに皆殺しにされるとは、近代以前には想像しようもないことだったでしょう。

 

大正12年(1923年)、日本という近代国家においては、標準語を話すことが日本人の証であり、緊急事態においては標準語を話せないという一点をもって、(=日本国民ではないという一点をもって)殺されても仕方ない、殺してもいい、そういう野蛮な国家となっていたわけです。

 

この世を行き交う無数の声は、「国家」の枠の内外、「国民」の枠の内外に、振り分けられていく、これを「声」の近代化とするならば、近代的な声(=標準語の発話)を持たぬことが生死の分水嶺でもありうる社会にわれわれは生きているのだということは、心に深く刻みおくべきことでありましょう。

 

 先日、526日に大阪で、2011年度の高見順賞受賞詩人であり、2015年の大佛次郎賞受賞者でもある詩人金時鐘をめぐるシンポジウムに参加しました。

 

(このとき私は、「私の「切れて、つながる」というタイトルで基調講演をしたのですがhttp://d.hatena.ne.jp/omma/20180526/p1  それはさておき)

 

 パネリストのひとりである細見和之さん(ドイツ思想研究、詩人)の発言が非常に印象深いものでした。

 細見さんは、金時鐘という詩人を語り、世界文学について語りました。

 彼は、世界文学の担い手と呼びうる三名の文学者の名を挙げたのです。

 日本語で書く在日の詩人金時鐘、ドイツ語で書いたユダヤ人の詩人パウル・ツェラーン、英語で書く在英インド人の作家サルマン・ラシュデイ

 金時鐘もサルマン・ラシュディも植民地の民であり、植民宗主国の言語で表現活動をしてきた。ツェラーンは両親がナチスドイツの強制収容所で殺されたユダヤ人であり、両親を殺した者たちの言葉であるドイツ語で詩を書いた。

 

 この三名に共通していることの一つに、「その表現においてみずからが使う言葉に対する違和感を内在させている」ということを細見さんは挙げました。

 日本語ではないニホンゴで、ドイツ語ならぬドイツゴで、英語ならぬエイゴで書く者たちが、国民文学を掘り崩し、解体する世界文学の担い手となっているのだと言いました。

 

 このことに関連して、『ディアスポラを生きる詩人 金時鐘』(岩波書店)において、細見さんはこのようにも書いています。

 

「晩年ゲーテは「世界文学」(Weltliteratur)という言葉を新しく作り出し、いまや「国民文学」ではなく「世界文学」の時代が到来している、と語った。ゲーテが想定していたのは、各国の文学の寄せ集めの「世界文学全集」のたぐいではなく、各国の文学者がたがいに知り合い、「愛情と共通の関心によって共同で活躍する契機を見いだす」ことを基盤にして育っていくはずのものだった。

 皮肉なことに、ゲーテ以降、文学は「世界文学」よりも「国民文学」を主流としていった。十九世紀後半から二十世紀の前半にかけては「国民国家」の時代であって、そのなかでは二度にわたって壊滅的な「世界戦争」が生じることになったのだ。しかし、その過程で、まさしくゲーテが考えていた普遍的な「世界文学」は、ドイツ文学やフランス文学、さらには日本文学の拡大によってではなく、むしろその狭間で生み出されてきたのではなかっただろうか。」(P180

 

 そう、国民文学を解体する声は狭間からやってくる、これ、激しく共感です。国民文学の解体をとおして、より豊かで大きな可能性を秘めた文学が生まれいずる、これも激しく共感です。

 

 さらに細見さんは、「狭間から生み出されてきた」世界文学を語る上で、ドゥルーズ、ガタリによるマイナー文学の定義を引きます。

 

「マイナー文学とは、マイナー言語による文学ではなく、マイノリティがマジョリティの言語を用いて創造する文学のことである。」

 

 いまや、マイナー文学こそが世界文学であるという逆説を細見さんは語るのです。

 思うに、その逆説は、必然の逆説でありましょう。

 

国民国家が切り捨て、国民文学が排除してきた無数の声がある。いわゆるマイノリティの声ですね。人間(=国民)の数に入れられず、かえりみられず、沈黙のなかに封じられた無数の違和感に満ちた声たちが言葉を得たならば、それは国家の境界、国民の境界、文学の境界を揺るがし、穴をあける声となりましょう。

 

境界が揺らぐ、境界が崩れる、境界のうちの条件反射のように慣れ親しんだ言葉の世界に違和感に満ちた音が雪崩れ込む、これはかなりロックな風景ですね、白い音が黒い響きに揺さぶられて弾けるような声の風景ですね。

 

たとえば、金時鐘のようなひとりの詩人が、違和感に満ちたニホンゴで、日本語を震え上がらせるような表現を放つとき、その表現のなかには、切り捨てられた声たち、封じられた声たち、踏みにじられた声たち、どんなに押さえつけられてもまつろわぬ無数の声たちが溶け込んでいるのであり、そこには死者の声すら混じりこんでいる、その無数の声こそが、私がこの演習で語ることころの、名もなき語りの声の主たちであり、その声を、いわば「文学に結晶する前の『原文学』」として、私はじっと耳を傾けつづけているのです。

 

こんな風にも私は想像します。

 

中心からはじき出された無数の声が、中心を囲む境界を揺るがすようにして、それぞれの場で弾ける、揺れる、語る、唄う、それは、中心そのものを無化する、実にアナーキーで痛快な風景ではないか、世界文学というやつは、実にアナーキーじゃないか、と。

 

さらに私は想像します。

 

「乱場」という言葉があります

旅する「声」たちが村のはずれや、市の立つ「辻」に集って、歌う、語る、踊る、鉦太鼓を打ち鳴らす、無数の声が弾ける、そのとき日常を覆っている見えないドームのようなものが震える、その天蓋にぽん、ぽん、ぽん、と次々と穴が開く、無数の穴、風が吹き込み、光が差し込み、世界は生まれ変わる、「乱場」。

それは遊行の芸能者たちが集う韓国のハレの場の光景です。

同時にそれは、芸能のすべてに通ずる光景でありましょう。

私たちがそれをすっかり忘れ果ててしまっているようです。

 

 

 (CD 「乱場」を聴く)

さて、今日の本題、「神々は丹後の舟を嫌う」ということであります。

 

 その導入の「語り」として、まずは説経祭文「山椒太夫 宇和竹恨之段」。

 演者は渡部八太夫。(25分)

 

 前々回に取り上げた瞽女唄「山椒太夫 舟別れの段」、そして、おそらくそのもともとのテクストであったろうと思われる説経祭文「山椒太夫 宇和竹恨之段」。これが特異なのは、上越地方に複数存在する「乳母嶽」という名の神と結びついた物語であり、海陸の交通の要所でもあった上越という風土性抜きにしては成り立たない「語り」であるということです。

 

 説経でも、鴎外の「山椒大夫」でも、実に影の薄い侍女うばたけ(宇和竹/姥竹/姥嶽/乳母嶽)が、瞽女唄と説経祭文では恨みの大蛇(=龍神)となって荒れ狂います、海は大波荒波、一行を謀った人買い山岡太夫はうばたけ大蛇に殺される。

 

 さらに説経祭文では、直江千軒(直江津一帯)もまた大嵐に見舞われる、直江千軒の人々にはその原因がわからず、易学博士(陰陽師)に問うたところが、どうやら原因はうばたけ大蛇の恨みにあるらしい、そこで人々はうばたけ大蛇をうばたけ大明神として祀ったところ、大嵐もおさまりました。これが乳母嶽大明神の由来でござる、めでたし、めでたし、ということになる。

 

(cf  説経祭文「三荘太夫七 宇和竹恨段」 http://urx.blue/Kzfr

 

 この話には別バージョンもある。

 

 幕末、ちょうど「宇和竹恨段」が語られていた頃、一八六四年に刊行の『越後土産』を見れば、頸城郡の「神社仏閣名所旧跡」の項に、国分寺・直江津今町湊・金谷薬師堂・親不知子不知等々に交じって「姥嶽明神」とある。そこにはこう記されている。

 

「式内居多神社の末社なり。里人伝えて言う。昔丹後の人買船が来て今町湊にて安寿姫を買い取り行き、其乳母たけと云う女、是を聞き、慕い来たりしに、舟ははや沖に出、たけ女一念毒蛇となり、海中に飛び入り、追いかけしとぞ、其霊を祭りて居多の末社とす云々」。

 

 瞽女唄も説経祭文も、うばたけの怒りは人買い山岡に向けられていますが、ここでは怒りの対象は丹後へと転じている。

 

 どちらが先で、どちらが後なのかはわからないのですが、似たような伝承は海伝い、声伝いに、津軽にもあります。

 

 江戸の大百科事典「和漢三才図会」(1712年成立)の全105巻のうち、巻第65において岩木山大権現の記事があり、岩木山参詣(いわゆるお山参詣)について、以下のような記述があるといいます。

(大いに参考:『安寿 お岩木様一代記奇譚』坂口昌明 ぷねうま舎、『岩木山信仰史』小館衷三 北方新社)

 

俗にいう津志王丸、姉の安寿を祭る社であるゆえ、今でも丹後の人が登山することを許さないらしい。無理に参る者は必ず神の祟りを受けるそうである。

 

 そもそも、『和漢三才図会』は、寛文版「山椒太夫」を下敷きとして、しかも実話として伝えている。

 津軽との関係では以下のようなことになります。

  

「伝えるところでは昔当国の領主岩城判官正氏が永保元年の冬に京から西海に流謫された。本国に二人の子があり、姉を安寿、弟を津志王丸という。母とともにさまよい、出羽を過ぎて越後にいたる。直江の浦に山角太夫という人をかどわかして売るのを商売にする男がおり、逢岐の橋で彼らに会ってかどわかし、母と召使宇和竹は佐渡に売った。子二人は丹後に売る。由良の山椒太夫がこれを買い取って奴婢にした。」(現代語訳)

 

 この記述、坂口昌明によれば、「和漢三才図会」の書き手が、説経「山椒太夫」寛文版の安寿・厨子王一行のさまよいの旅路に勝手に「出羽」を書き加えている。それもひとえに津軽と「山椒太夫」の深い関係を語らんがため。

 そして、この「和漢三才図会」から、岩木山と「山椒太夫」の関係が広く世間に流布したのだろうというのです。

(ちなみに、東洋文庫『説経節』所収の「山椒太夫」は大坂与七郎の寛永版。寛文版では、御台・うばたけの買われる先が、「えぞがしま」から「さど」に変わっている)。

 

 津軽における「丹後嫌い」もそこからはじまったのではないか、と坂口さんは推測する。『和漢三才図会』刊行の四年後より、幕府巡検使や藩が編んだ公的な文書に「丹後嫌い」を証する記録が出始めるのだというのです。

 

 そういえば、「丹後嫌い」については、森鴎外もまた「山椒大夫」(1915)を書いた一年後の作である「渋江抽斎」(1916)に織り込んでいます。

 

渋江氏の若党の一人中条勝次郎は、弘前に来てから思いも掛けぬ事に遭遇した。

一行が土手町に下宿した後二に、三月にして暴風雨があった。弘前の人は暴風雨を岩木山の神が祟りを作すのだと信じている。神は他郷の人が来て土着するのを悪んで、暴風雨を起すというのである。この故に弘前の人は他郷の人を排斥する。就中丹後の人と南部の人とを嫌う。なぜ丹後の人を嫌うかというに、岩木山の神は古伝説の安寿姫で、己を虐使した山椒大夫の郷人を嫌うのだそうである。また南部の人を嫌うのは、神も津軽人のパルチキュラリスムに感化せられているのかも知れない。

(さすがに鴎外、「山椒大夫」を書くにあたって、説経節のみならず、さまざまな文献を渉猟したんでしょう。それが「渋江抽斎」に生かされたのでしょう)。

 

  この「丹後嫌い」ゆえの暴風雨のことを、津軽では「丹後日和」といいました。

 江戸後期に陸奥を旅した菅江真澄は、寛政十年(1798)6月16日深浦にて、こんな日記を書いている。(和漢三才図会から86年後の話です)。

 

 「丹後船がいるのではないか、このごろうちつづく雨といい、空模様もただならぬのは……」と、うわさして、たくさん停泊していた船のかじとり、船長らをみな、神社の御前にあつめ、岩木山の牛王宝印をのませて、岩木の神は丹後のくにのもの、とくに由良の港の人を忌みなさるから、「その国のひとではない」という誓約文に、みな爪じるし(爪印)をさせた。

 

 これもまた面白い話で、誓約をするのに、岩木山の牛王宝印を飲ませるとある。お岩木様は比叡山系の熊野修験の山だったのです。

(江戸時代までは岩木山三所権現、明治以降は神仏分離により仏教色を取り除かれて「岩木神社」となった)

 

 

 

 『岩木山信仰史』において小館衷三氏がまとめる岩木山の伝説の特徴を見ると、なお面白い。

 

1. 岩木山は女神を祭る

2. 農業とそれに関係の深い水に関するものである。また祖霊信仰にも連なる。

3. 越後・越前・丹後・出雲・近江・京都など日本海側に連なる。

4. 信仰面からみると、仏教では観音信仰(法華経観音普門品)が強く反映し、天台宗(台密)、すなわち比叡山系に属する。神道では大巳貴(大国主)―出雲系に属する。神仏混淆で修験道実践のものが多い。

5. 大石―大巌の信仰に関係がある。

以下、略。

 

(たとえば、岩木山にはこんな伝説がある。岩木山の鬼を退治するために、帝が近江篠原の花輪某に詔勅を下す。花輪某は、熊野・住吉・天王寺の三所に祈願する。越前・敦賀から船出して津軽に向かい、三所のお告げで錫杖印、曼字旗を用いて鬼を平らげる。これはそのまま、まるで、物語を運んだ山伏/修験者の動きを反映しているかのようだ)

 

 さて、岩木山伝説の何が面白いのかと言えば、うわたけ大暴れの物語を持ち、しかも津軽と同様に、「丹後嫌い」の伝承を持つ上越の「うばたけ明神」伝説との共通性が浮かび上がってくることです。

 

 まずは、上越の居多神社の北参道入口の乳母嶽明神。かつて江戸後期まで、居多神社がもっと海岸に近い場所にあった頃、鳥居の扁額に「乳母嶽明神」とあったと当時の記録にあります。居多神社の主祭神は大巳貴と、その妻であり土地の神である奴奈川姫です。

(岩木山でも大巳貴は土地の女神を妻にします)

 

 次いで、上越の岩殿山の姥嶽姫命。岩殿山もまた、大巳貴と奴奈川姫ゆかりの地。ここの窟屋で両神の子である建御名方命(諏訪明神)が生まれたとされている。姥嶽は諏訪明神の乳母です。同時に、その窟屋そのものとも言えます。なにより、ここは修験道場でした。

(大巌信仰  岩木山にも姥石。)

 

 もともと「お岩木様一代記」は岩木山の修験が書いて、それを盲目のイタコが語るようになったものと言われています。

 想像するに、上越高田の盲目の瞽女の「山椒太夫」も、瞽女が語る前に文字のテクストを書いた者がいたことでしょう。

 その文字テクストが江戸で刊行された説経祭文「山椒太夫 宇和竹恨段」であったのか、それより以前に上越で書かれた何らかのテクストがあったのか。

(あったとすればおそらく修験か、修験もどきの芸能者が書いたのだろうと私は想像するのですが)、

 

 江戸―上州―長岡(越後)―山形(東北)―高田(越後)と、祭文語りたちの道はつながって、その道は瞽女の旅の道とも重なり合うのですが、彼らはきっとテクストや声のやりとりをしたにちがいない、祭文語りたちはきっと乳母嶽明神や乳母嶽神社、うばたけの名を持つ土地の神々の祭礼の場で「山椒太夫」を語ったに違いない。

 

 さまざまな「山椒太夫」の広がりの背景には、宗教者であり芸能者でもある修験のネットワークがある、旅する語りの者たちの道がある、風土に息づく小さき神々がいる、そこには小さき神々に託された風土の記憶、人々の記憶があるにちがいない。

 

(私は福島の広野の「山椒太夫」伝説を想い起こしている。ここにもうばたけがいる、ここのうばたけも海を渡る大蛇だ。御台さまと安寿を失くした哀しみゆえに大蛇/龍となり、姥竹蛇王権現と呼ばれるうばたけが祀られているのは蛇王神社。ここにも修験の影がある)

 

 そもそも上越・直江の浦(直江津)のあたりは、古来、東と西、北と南を結ぶ交通の要所です。

 人買いにモノのように売り買いされる人間たち(安寿・厨子王のような)までも含みこんだ物流の拠点であり、旅人が行きかい、物語が行きかい、声の入り混じる境界の地であります。

 

 直江の浦とお岩木様を仰ぐ津軽の浦々、ともに「丹後嫌い」の伝承を持つ二つの地で、越後瞽女には越後瞽女の「山椒太夫」があり、イタコにはイタコの「山椒太夫」/「お岩木様一代記」がある。

(その背景には、修験ネットワークの存在もあるようだし、遊行の芸能者たちの海伝いの旅の記憶も織り込まれているようでもある)。

 

 おそらく男たちが文字で記したのであろうその物語は、盲目の女たちの声でどう変容していくのか? 

  

 次回、「お岩木様一代記」を聞きながら、それを体感したいと思います。

 

最後に、

<金子君の問いを共に考えるために>

 

 「山椒太夫」は、なぜ「山椒太夫」というタイトルなのだろうか? 

なぜ他の説経のように主人公の名を取って、「安寿と厨子王」ではないのか? 

 

「山椒太夫」をめぐって、想像力の鍛錬をしてみる。

 

●柳田國男

山椒太夫とは「算所太夫」、「算/占」をする者、つまり陰陽師のような存在。この「算所太夫」が物語を語り広め、それが物語の名前そのものに転化していったと考えた。つまり、社会的に差別されていた「算所」の民が「山椒太夫」を語り広めた。

 

 

●林屋辰三郎

山椒太夫は「散所太夫」、つまり「散所の長者」である。と考えた。

「領主権力を背景にした散所長者の壓力に對して、やはり抵抗するものがあったのであろう。こうした古い散所長者の形態が、由良長者ともいわれる「山椒大夫」の傳説の主人公の姿でもあったのである。そして散所民たちは、自己の解放を長者の没落という形であらわすほかはなかった。そして彼らの解放へのつよいねがいが、大夫を竹の鋸引にするという残忍に近いような説経節となって、ひろく民間にもひろまったものと考えられる。山椒太夫は散所長者を指すものであり、散所からの解放への願いを物語ったものである。」

 

 ●室木弥太郎

「さんせう」を「算所、散所」と解するのは無理がないか? 

 

●坂口昌明

山椒の行商人が語り広めた唱導文芸の可能性もあるのではないか。

(山椒太夫は山椒の皮を集めて丹後で売り歩くうち、峠で小判を見つけ、長者になったという伝承があるという)

 

「『双生隅田川』(1720初演 近松門左衛門)に登場する奥坂東の人商人の本締めは、秋田・坂田・蝦夷・八丈を股にかけ手広く商売し、唐がらしの惣太と異名をとったとされ、それもただの辛さではなく、昔丹後の山椒太夫が手ずから植えたものというふれこみつきで登場する」

 

 

<参考>  説経祭文「三荘太夫」より

 

「宇和竹恨之段」 短縮版

 

 

床本 説経祭文 三荘太夫 

安寿姫・対王丸 六 筐贈段 

横山町二丁目 和泉屋永吉版

  若太夫直伝

 

姜信子 脚色

 

 

さればにや、これはまた

(おりゃ、この年まで

親子一世の生き別れとやらを

見たことがねい

何と、宮崎

おのしと俺と

煙草でも飲みながら

こいつらが、生き別れの哀れな所を

見物しようじゃないか)(※第5:船別れ下の終わりを入れる)

 

宮崎、聞いて

「成る程、こりゃ、面白かろう

そんなら、おのしと俺と

こいつらが、生き別れの愁嘆

ゆるりと、見物しましょう」と

またもや、船を舫われて

情けを知らぬ、船頭(ふなおさ)が

煙草飲み付け

(中略)

空嘯いて、居たりける

 

物の哀れは、御台様

宇和竹局に誘われ

丹後の船に乗り移り

ご兄弟の方々を

右と左に引き寄せて

急き来る涙を押し留め

 

「これ、兄弟

たった今、直江が浦へ戻った

山岡太夫権藤太

ありゃ、情けの者と、思いしに

人勾引(かどわかし)にてあったと(※ぞ)いのう

我々四人を謀って、

二人(ふたり)の衆に売りしとある

自らや宇和竹は、佐渡ヶ島

そなたら二人は、丹後の国へ

売りしとよ

さすれば、これが、生き別れ

例え、何処(いづく)へ行けばとて

鳥の鳴く音は、同じ事

兄弟仲良く、睦まじく

如何なる事のあればとて

短慮な心を致しゃるな

(中略)

命さい(※え)だにあるならば

又、会う(おう)事もあるべきぞ

(中略)

必ず、必ず、兄弟よ

母が詞(ことば)を忘るるな

せめては、形見を送らん」と

涙ながらに、御台様

守り袋を取り出だし

 

「これ、兄弟

この守り袋の内には

家代々の御(おん)守り

佉羅陀山の地蔵尊

兄弟、何処(いづく)へ行けばとて

肌身離さず、朝夕、随分、信心しや

兄弟が身の上に、

自然大事のある時は

御(おん)身代わりに立ち給う

まった、きょじ(凶事)、災難は救わせ給う、地蔵尊」と

形見を送ればご兄弟

 

「母上様や、宇和竹に

ここで別れて、我々が

誰を頼りに致すべし」

 

「あの船頭に願いつつ

母上様と諸共に

佐渡へ連れさせ給われい

離れはせじ」

と、取り縋り、歎かせ給えば、宇和竹も

 

「如何なる事のあればとて

年端も行かざる御兄弟

何処へ離してあげらりょう

離れはせじ」と、主従が

互いに取り付き縋り付き

目も当てられぬ有様を

宮崎、それと、見るよりも

 

「これ、佐渡

なんだか、俺りゃ

おかしな心持ちになってきた

こんな事は、長とく聞きものではない

もう、いい加減に、引き分けて

行こうじゃあ、あるまいか」

 

佐渡の次郎、聞いて

「成る程、宮崎が言う通り

いつまで、聞いても

果てしが無い

そんなら、もう引き分けて、行きましょう

さあ、来い、失しょう、おいぼれめ」

と、御台所と宇和竹を

襟筋(えりすじ)掴んで、引っ立てる

 

「離れはせじ」と、取り縋る

「しつこい奴ら」と、言うままに

無理や無体に引き分けて

手早く、おのれが船に乗せ

舫いを解いて、突き放せば

船は、左右へ別れける

 

主従親子の方々は

「母上様」

「宇和竹、やいのう」

「兄弟よ」

「御兄弟様」と

小縁に縋り、声を上げ

呼べど叫べど、情けなや

 

船は、浮き木の事なれば

次第次第に遠ざかり

直江が浦の朝霧に

主従、親子、今は早や

姿、貌(かたち)も見えざれば

わっとばかりに声を上げ

狂気の如くの御嘆き

 

(※ここより 七 宇和竹恨段) 

 

宇和竹 何、思いけん、

居直って両手を突き

 

「申し、御台様

思えば思えば、憎っくき

直江の山岡

宇和竹、つくづく考えみまするに

あなた様と諸共に

佐渡ヶ島とやらへ売られ行き

三代相恩のご主人の

朝夕の御難義を

家来の身として、見まするも、心苦しい

只、この上は、自らに

永(なが)のお暇を給われ

言うより早く、宇和竹は

海へざんぶと身を投げる

 

御台は、はっと驚いて

「えい、情け無い、宇和竹よ

そなたばかりが、死なずとも

何故(なぜ)、自らをも、連れざりし

供に、入水(じゅすい)」

と、立ち上がれば

佐渡の次郎は、慌てて、い抱き止め

 

「どっこい、そうは参らぬ

たった今、山岡が元より

二貫づつ、四貫に

買いたてほやほや、湯気がでるわい

一人(ひとり)、飛び込まれて

二貫の損耗(そんもう)

その上又、おのれに飛び込まれてたまるものか

こりゃ、こうしては、置かれぬ

どれ、ひっ括る(くく)してくりょう」と

何の厭いも荒縄の

舫いを解いて、高手小手に括(くく)し上げ

中舟梁に猿繋ぎ

腕に任せて、艪を立てて

佐渡ヶ島へと漕いで行く

 

それはさて置き、その時に

遥か沖より、水煙り

逆波立って、荒れ出だし

黒雲、しきりに舞い下がり

震動雷電霹靂神

(しんどうらいでんはたたがみ)

雨は、車軸を流しける

 

女の一念恐ろしや

かの宇和竹が怨霊は

二十尋あまりの大蛇と、

忽ち現われて

九万九千(くまんくせん)の鱗に、

水をいららけ、角振り立て

大の眼を怒らして

実に、紅の舌を巻き

逆巻く波を掻き分けて

浮いつ、沈んず、沈んず、浮いつ

直江へ戻る山岡が

跡を慕うて、かの大蛇

雲に紛れて飛んで行く

 

其の時、山岡権藤太

直江、間近くなりけるが

後(あと)振り返り、見るよりも

宇和竹大蛇と、夢知らず

板子の下へ潜り込こむ

「命も惜しいが、金も惜しい」

例え、大蛇に飲まれても

この十二貫は、放さぬと

しっかと押さえ、

「桒原、桒原、万歳楽」

と、震えていたりしが

 

宇和竹大蛇は、大音に

「おのれ、にっくき山岡め

大切なりし、ご主人を

よくも謀り、売ったりし

思い知らせん山岡」と

聞くより山岡、驚いて

板子の下より、首を出し

 

「これこれ、申し、宇和竹様

大蛇様

売ったが、お腹が立つならば

まだ十二貫は、ここにある

取り返して、しんじょうから

命は助けて下され」と

 

がながな、震えて居たりしが

何かは以てたまるべき

山岡、乗ったるその船を

きりり、きりりと、巻き壊し

中なる山岡、掴み出し

宙にも引き立て、宇和竹が

ずんだずんだに引き裂いて

海の水屑となしにけるは

小機微(こきび)良くこそ見えにける

 

元の起こりは、直江にて

宿貸さざる、恨みとて

直江千軒、荒れ渡る

誠に、昼夜の分かち無し

 

千軒の者共内より

名誉の博士をもって、占わせ、見るに

入水なしたる局、宇和竹が怨霊と

易(えき)の表に現わるる

 

せめて、祟りを鎮めんと

早々(そうそう)、浜辺に祠(ほこら)建て

宇和竹大明神と、ひとつ社の神に勧請す

 

昔が今に至るまで

北陸道(ほくろくどう)は、北の果て

越後の国、直江千軒の鎮守

宇和竹大明神、これなりし

人は一代、末世に残るは、宇和竹社なり

 

(※以下省略)