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学習院大学文学演習 第7回

 

さて、今日は、前回学生諸君がいまひとつピンとこなかった瞽女唄から。 

 

昭和4811] 中日ニュース No.1034 2「瞽女 -越後路に哀歌は流れる-

https://youtu.be/G7YFK8rbY7w

 

この映像、見てもらうかどうか迷ったのですが、というのも、はなから「哀歌」などという近代人の上から目線のナレーションの映像ですから。ドキュメンタリーにしろ、ニュース映像にしろ、とかく近代人の郷愁という名のロマンチシズムが染みこんでいる、その意味ではこのニュース映像も近代精神が前近代を懐かしむという姿勢で編集された映像のように思われるのです。

 

これらの映像で欠落しているのは、彼女たちが歌や語りで開いた「場」の記憶です。

 

遊行の芸能者が開く「場」というのはその場かぎりのもので、声とともに消えてしまうものだから、その再現などは到底無理なわけで、しかし、「声」と「語り」においては「場」が共有されているという感覚ほど大切なものはない。

 

それはたとえば、昔ならウッドストック、今の日本ならフジロックとか、そんな大きなものでなくとも、さまざまなライブの場に参加するときのみなさんの心持ちと同じなのではないか。CDなどでは体感できない生音、生声が放たれる「場」にいること、参加する自分も自由に声をあげることのできる「場」、そんな「場」を分かち合うことのかけがえのなさ。

 

そこで何が語られ、何が歌われたということももちろん大事ですが、わたしの声もあなたの声も同じように「場」を分かち合ったという、その感覚こそが大事、その「場」を開く声の主としての「語る者」がある、「唄う者」がある、そのような者のひとりとしての「瞽女」という視点を、わたしたちは忘れ果てているかのようです。

 

 

伊平タケ 「葛の葉」をちょっと聞いてみます。

https://youtu.be/o6POsjTEMYA

 

瞽女さんも、地域によって、人によって、歌いぶりも三味線の手も違うものだけど、伊平タケさんのこの三味線の転がるような手、これは弦楽器をやる人が聴けば、かなり面白いんじゃないか。

 

杉本キクイ 「門付唄」、これもちょっと聞いてみます。

 

つづけて、瞽女のレパートリーとも重なり合う遊芸の徒である河内音頭の河内屋菊水丸のコレも聴いてみよう。当世の流行ものを貪欲に取り込む芸能者の鑑のような声に音です。

 

「ハッピーマン」

https://youtu.be/Y6qdSZ67TQI

 

菊水丸が櫓の上で歌うコレも観てみよう。

(河内音頭(かわちおんど) 河内家 菊水丸(かわちや きくすいまる) 北御堂盆踊り大会 20140821日 はじまりの口上から)

https://youtu.be/OOPOHyb_Qa4

 

さらに、河内音頭の兄弟分、上州祭文の遺伝子を持つ江州音頭の桜川唯丸のこの歌いっぷり。(上州祭文と瞽女唄も声を交わす仲ですからね)

https://youtu.be/lDscw-XgppM

 

もし瞽女唄が今の今まで命脈を保っていれば、これくらいのことはやってのけたんじゃないか?

 

じゃ、そうならなかった瞽女唄と河内音頭の違いは何なんでしょう?

 

映像を観てわかるように、河内音頭も、上州祭文から生まれた江州音頭も、盆踊りの櫓の上が晴れ舞台です。そこには祭りの「場」がある。あるいは、彼らが歌って語って声を放つところこそが、祭りの場となる。音頭の語り手たちは、いまもなお、まがりなりにも、祭りの「場」を呼び出す人々による「小さな共同体」(国家という大きな共同体とは異なるという意味で)とともにある。

 

いまいちど問います。

 

瞽女唄が消えたのは、前回学生諸君が言ったように、「言葉がわからないから」「つまらないから」「もっと面白いものが出てきたから」というような「瞽女唄」自体の中に廃れる理由が内在していたのでしょうか?

 

瞽女唄を今聞く私達は、その言葉は聞きづらくとも、かつて「場」を分かち合っていた人々にはすんなり耳に入る声ではなかったのではないか?

 

瞽女たちは彼らのリクエストにこたえて歌い語る、歩くi-podだったのではないか?

 

「生糸」による日本の近代化を底支えしていた地方の養蚕農家の衰えとともに、農村、山村の村共同体の衰弱と崩壊とともに、村の人びとが集う「場」の消滅とともに、瞽女唄も消えて行ったのではないか?

(近世の村々では、遊行の芸能者を迎え入れるために村の予算を計上していました)。

 

つまり、瞽女よりも最初に村から消えたものがあるのではないか?

 

どんどん問いの連打です。

 

「場」(=小さな共同体)を失った者たちの声は、いったいどこに消えたのか?

 

行き場のない声は、どこに、なにに、のみこまれていくのか?

(「それはね、創価学会さ」、とその昔、私に耳打ちして教えてくれた人もいましたっけ。)

 

レコードというパッケージに収まる音楽の形式に慣らされる、レコードの音が「正しい音」と刷り込まれる、

(たとえば出版ならば、売りやすい形の本にするためには原稿用紙200枚前後が適当で、ジャンル分けのしやすい、わかりやすい、売りやすい、その意味で未知の表現スタイルや言葉よりも既知の内容のもののほうが商業出版によってはありがたい、というように)、

経済によって文化の形が規定される、そのことに私たちはあまりに鈍感なのではないか?

 

そして富の再分配の仕組みとしての政治と経済の深い結びつきを背景に、企業活動としてのメディアが政治=経済にたやすく検閲されること、あまりにたやすく「声」の管理統制が行われていることにも、(自主検閲も含めて)、あまりに鈍感なのではないか?

 

(もうずいぶんまえの話、1988年のことだけど、忌野清志郎の原発批判をした歌が収録されていたアルバムを、原発製造企業である東芝を親会社とする東芝EMIは発売中止としましたね。とても分かりやすい一例)

 

そのくらい大きな視野をもって、瞽女が歌う「場」を失っていったことの意味を、いまいちど私達は考える必要があるのではないか? 

 

そして、わが身に引きつけて考えるならば、

瞽女が歌う場を失ったということは、私たち自身が主人公となって声を分かち合う場、声を放つ場を失ったということなのではないか? 

 

この世に無数にあった語りの場、声の場、その背景にあったそれぞれに小さき神を持つ小さな共同体が、近代以降、実に丹念に、時間をかけて、消されていったということではないのか?

 

瞽女の消滅もまた、この千年以上もの間、「語りの場」を分かち合ってきた無数の「小さな声たちの共同体」の消滅の一光景、というふうに、これは考えるべきではないのか?

 

無数の「小さな声」たちや、その「小さな共同体」が、「大きな声の共同体/記憶の共同体/忘却の共同体/想像の共同体」(=近代国家)にのまれて消されたり、上から「天の声」のように降りてくる「正しい声」によって審判を受けて放逐されたり、ないがしろにされたり、いたぶられたり、そんな光景を、ありありと思い浮かべる、

そのような想像力を取り戻す「よすが」としていま私たちは、この教室をひとつの「場」として、瞽女唄を聞き、説経を聞き、失われた語りの声をことさらに聴こうとしているのです。

 

 そういえば、岩瀬君が、われらが享受する流行歌のあの定型は音楽産業の都合だろう、という話に関連して、「ピンクフロイドが30分にわたる曲をやっていましたね」と前回のコメントシートに書いていましたね。

 

LP盤に収まる長さで、たとえば「エコーズ」が30分弱。でもLiveではもっと好き勝手にやっていましたね。

ピンクフロイドも、同じくプログレバンドのELPも、とりあえず、基本的な姿勢としては、

定型(=音楽産業の枠)の破壊を試みます。(でも、レコードは売らなくちゃいけない)。

 

パンクやメタルもその意味では同じ。とりあえずは「アナーキー・イン・ザ・UK」、その「アナーキー」な音や声やスタイルが一つの「場」を生み出し、それが経済活動にもなる、ところが音楽産業の経済活動の枠にはまってしまうと、彼らはいやになる。そのサイクルでロックの歴史は回ってきたかのようです。 

 

そもそもロックとは、(いま私たちが日本で馴染んでいるロックと呼ばれる商業音楽がどんな質のものなのかはいったん脇に置いて、理想形で言うならば)、抵抗の音として、抵抗の場を開く声として、三味線のさわりのような濁った音として、社会を揺さぶるノイズとして、荒ぶる若者たちが放った音でした。

 

反抗の音、切り捨てられた声への共感の歌といえば、ある時期からジョン・レノンの「イマジン」が無闇に世の中に流れていますが、ジョン・レノンならば、むしろ私はこの歌をロックの原風景としてあげたい。抵抗の場を開く音としてのロック。

Give peace a chance

(でも、これもちょっと分かりやすすぎるか……、あまりにあからさまな抵抗の声というのは、文学的見地からは非常に恥ずかしいものである)

 

 

何度でも言います。

なぜ語りなのか、なぜ声の「場」なのか?

 

そこが、他の誰かの大きな声にのまれず、理不尽に支配されないためのよりどころとなるからです、

 

それがどんなにささやかな抵抗であっても、小さな声であっても、怒りや悲しみや痛みの滲んだ声をあげる者たちの交感の「場」となるからです。

 

それはたとえて言うなら、本来的な意味でのロックが生まれ、ブルースが生まれ、ソウルミュージックが生まれる「場」でもあるのです。

 

 

 

そして、「山椒太夫」実演。

 

本日は凄惨だったり、哀しみの極みだったり、因果応報愉快痛快だったり、三つの「死」の場面を八太夫師匠に実際に語ってもらいましょう。

 

物語のはじめは、この口上。

 

ただいま語り申す御物語、国を申さば、丹後の国、金焼き地蔵の御本地を、あらあら説きたてひろめ申すに、これも一度は人間にておわします。人間にての御本地を尋ね申すに、国を申さば、奥州、日の本の将軍、岩城の判官、正氏殿にて、諸事のあわれをとどめたり。この正氏殿と申すは、情の強いによって、筑紫安楽寺へ流され給い、憂き思いを召されておわします。

 

 

そもそも説経は神の縁起を語るものであるから、こういうはじまり方になる。

 

ちなみに丹後由良の如意寺に行けば、今も金焼き地蔵が祀られています。これが本物かどうかは問いますまい。土地の人には、今も金焼きさんと呼ばれて、身代わり地蔵の霊験もあらかたの由。 

 

ところで、若狭の貧しい家に生まれ育った作家の水上勉(19192004)は、門付の瞽女が語る「山椒太夫」の思い出を『説経節を読む』(岩波現代文庫)でこう語っています。

 

「冒頭一行目の「国を申さば、丹後の国」ときいただけで、わたしたち若狭にうまれた者は、赤ん坊の子守唄に、「かかはかわらへななつみに、ととはたんごへ金掘りに、三年たってももどりゃせぬ」とうたった丹後の国が遠い山の向うにあり、そこに酷い暮しを課せられる金掘り人夫小屋があるそうな。いったん小屋へ入った者は三年経たぬと帰ってこれない、というのだったが、その丹後の、金焼き地蔵尊のご利益にあずかりたい思いも手つだうので、じいーっと聞き入ったものである。そのことは、森鴎外の『山椒太夫』からはつたわってこず、門説経の語りには、誘いこむような力があったと思う」

 

昭和初年の若狭では、暮しの中にあった門説経が、いかに聴く者の心に哀しみと共に染み入ったことか。それを水上勉は語り伝えています。

 

では、これから八太夫師匠の語るこんな場面は、いったいどう聞かれていたのでしょう。

丹後に働きに行ったきり、生きているのか死んだのか、戻って来ぬ者たちの苦しみ、悲しみを重ねあわせて聴いたのではないでしょうか。

  

説経与七郎本「さんせう太夫」 安寿責め殺しの場面

 

姉の安寿が、弟の厨子王と山で別れて、都へ向けて「落とした」(=逃がした)そのあとに、何気ない顔でひとり山椒太夫の屋敷に戻ったところから、この場面ははじまりる。

弟を落としたにちがいないと疑われた安寿は自白を迫られ、「落ちよ、落ちよ」(白状せよ、白状せよ)と酷い拷問にかけられる。拷問するは「邪慳なる三郎」。

 

 

山椒太夫は、正月十六日のことなるに

表の櫓に、遠目を使うていたりしが

姉御の柴をご覧じて

「さても汝は、弟に増して

良い木を刈って参りたに

どれ、弟は」との御諚なり

姉御、この由、聞こし召し

「参候、今朝、某が、浜へとは申さいで

山へと申して候えば

髪を切られた、愚痴ない姉と連れうよりと申して

里の山人達と、打ち連れ立ちて参りたが

自然、道にも踏み迷い

まだ参らぬかよ、悲しや

某、参りて、尋ねて参ろう」

と、お申しある

太夫、此の由、お聞きあって

「おお、それ、涙にも五つの品がる

面涙、怨涙、感涙、秘涙、(一品欠落)とて

涙に五つ品があるが(あるいは、喜び涙を含めるカ)

御身の涙のこぼれようは

弟をば、山からすぐに落といて

首より空の、喜び泣きと見てあるぞ

三郎、いづくに居るぞ、責めて問え」

との御諚なり

邪見なる三郎が、

「承り候」とて

十二格(ご)の昇り階(はし)にからみつけて

湯責め水責めにて問う

それにても更に落ちざれば

三ツ目錐を取り出して

膝の皿を、からり、からりと揉うで問う

『今は、弟を落といたと申そうか、

申すまい』とは思えども

「物をば、言わせて給われの」

太夫、この由、お聞きあって

「物を言わせうためでこそある

物を言わば言わせい」

と、お申しある

「今にも、弟が、山からもどりたものならば

姉は、弟故に責め殺されたとお申しあって

良きに御目をかけて

お使いあって給われの」

太夫、この由、聞くよりも

「問うことは申さいで

問わず語りする女めを

物も言わぬほど責めて問え

三郎、如何に」との御諚なり

邪険なる三郎が

天井よりもからこの炭を取り出だし

大庭に、ずっぱと移し

大団扇を持って扇ぎたてて

労しや姫君の髻(たぶさ)を取って

あなたへ引いては

「熱くば落ちよ、落ちよ、落ちよ」

と責めければ

責め手は強し、身は弱し

何かわもって、堪らうべきと

正月十六日、日頃四つのおわりと申すには

十六歳を一期となされ、姉をばそこにて責め殺す。

 

 

 

つぎは、佐渡で語られてきた「山椒太夫」。

 

佐渡で語られるのだから、安寿も佐渡に渡ってきてもらったほうが、そりゃいいに決まっている。

丹後由良で拷問されて、瀕死の状態で佐渡にきて、そして母親の打ちおろす杖で殴り殺されるという、凄まじい悲劇が佐渡の「山椒太夫」では繰り広げられる。

ここには、みすぼらしい盲目の老婆を蔑む世間の実相もあれば、「めくらの打つ杖 咎にはならず」という言葉が伝える、盲者の渡世の実相もあります、(盲者の杖の届く範囲はもう盲者の領分、そのなかに入って打たれたならば、それは目明きのほうの責任です、そこは盲者の治外法権)、その意味で、いわゆる古風な説経節よりも、よりリアルです。リアルで愚かしい人間たちの哀しみの実相があります。

 

 

文弥節「山椒太夫 鳴子引きの段」 安寿の死の場面

 

 

いたわしや母上は、かくとは知らせ給わずし

又立ち上がり、鳴子を引き、

「ほうやれほう

ああ、安寿恋しや、対子王見たや、ほうやれほう

子供は何処に売られけん」

と、嘆き給うその声、

 

さすが親子の知遇にや

傍(かたえ)に伏せし安寿の姫

重き枕を軽ろく上げ

見れば恋しき母上の

御目はしいて杖を頼りに小鳥を追わせ給う態

「のう、母上にておわせぬ」

と、足立たざれば、ようように這い寄り

裳裾に取り付いて

「これ、母上様、安寿にて候なり」

 

母は、

「ええ、又最前の奴腹が

ゆかで妾を弄ぶか

盲の杖は科にはならじ

ええ、放さぬか、ええ、退かぬか」

と、我が子と知らぬ老いの闇

 

見えず、打たるるこの杖に

急所を打たれ安寿の姫

退きもやらず動きもせず

絶え入り給うぞ悲しけれ

(中略)

 

「いとおしや

思わぬ憂き目を見給う故

痩せ、荒れ果てて、骨高に冷え入り給うわ

(中略)

これのう、安寿、顔が見たいことじゃあ」

と抱き付き、嘆かせ給うぞいたわしき

 

今際(いまわ)と見えし姫君も

母の嘆きに心付き、ようよう声音を出だし給い

「ああ、有り難き御仰せ

妾が命は覚悟の前

それとても母上様に会わで、果てなば、いかばかり

黄泉路の障りになるらんに

ただいま、お姿拝むこと

これのみ、うれしゅう候なり

我が身の死する命より

母上様の両眼の

しいたることの悲しやな

(中略)

最早、暇申して母上様

回向なして給われや

南無阿弥陀」

南無無阿弥陀仏も弱弱と

惜しむべきは花盛り

十五の秋を一世(ひとよ)とし

終に、息絶え給いける

 

佐渡には、無惨な死を遂げた安寿の涙が流れ込んだ川の水は毒の水と化したという伝承があります。それは銀山の鉱毒が川に流されたことにまつわる「オーラルヒストリー」のひとつの形式とも言えましょう。

 

しかし、そもそも、安寿をこんな目に遭わせた山椒太夫一家にはそれ相応の罰が下されねばならない。見事に都に落ちていった厨子王が、奇跡のように出世して、丹後由良に舞い戻り、山椒太夫を罰するのも、語りの場においてその物語を聞く者たちの願いであり、語り手は聞き手の願いの声をみずからの声に潜ませる。

 

そんな光景を肌で体験している水上勉はこう書きます。

「哀れをとどめるふたり(うわたけ、安寿)の霊魂もうかばれまい、厨子王丸がいま世に出ることができ、丹後の守護になったぐらいでは、村の辻に集まった門説経の客たちは満足しないのである。それで、語り師はつづけねばならないのだ」。

 

さて、山椒太夫はどんな目に遭うのか?

 

 

  

説経与七郎 山椒太夫 首引き(抄)

 

「やあ如何に汝ら

姉の忍をば、何たる科のありたれば

責め殺しては、ありけるぞ

我をば、誰とか思うらん

汝が内にありたりし

忘れ草とは、それがしなり

姉御を返せ、太夫、三郎よ

(中略)

 

さても、それがしは、はかなききことを申してあり

仇を仇にて、報ずれば

燃ゆる火に、薪を添うるごとくなり

仇を、慈悲にて報ずれば

これは、仏の位なり

如何に太夫、大国が欲しきか、小国が欲しきか

望み次第に取らすべし

太夫、如何に」との御諚なり

 

太夫、にっこと笑いて

三郎が方をきっと見る

三郎、答えて申すよう

「参候、太夫は、孫子の末も広き者のことにて候えば

小国にては成り申さぬ

大国を給われ」とぞ申しける

厨子王殿は、聞こし召し

「さても、器用に好みたる三郎かな

(中略)

太夫には、広き、黄泉の国を取らせよ」

との、御諚なり

 

「承る」と申して、太夫を取って、引っ立て

国分寺の広庭に、五尺に穴を掘りて

肩より下を掘り埋(うず)み

竹鋸を拵えて

「構えて、他人に引かするな

子供に引かせ、憂き目を見せよ」との、御諚なり

「承る」と申して(中略)

 

まず、兄の太郎に鋸、渡る

「太郎には、思う子細があるほどに、鋸許せ」

との御諚なり

 

さて、二郎に鋸が渡る

二郎、鋸、受け取りて、後ろの方へ立ち回り

口説き事こそ哀れなり

「昔が今に至るまで

子が親の首を引くことは、聞きも及ばぬ次第かな

それがしが、申したる事

少しも違い申すかや

遠国、波頭の者なりとも

情けをかけて使い給えと、よりより申せしは、ここぞかし

御引かせあるこそ、理(ことわり)なれ」

と、涙にむせて、え引かねば

「げに誠、二郎にも、思う子細あれば、鋸許せ」

との御諚なり

 

三郎に鋸が渡る

邪険なる三郎が、この鋸、奪い取って

「卑怯なりや、方々

主(ぬし)の科をば、のたまわで、我らが科とあるからは

のう、如何に太夫殿

一期(いちご)申す、念仏をば、いつの用に立て給うぞ

この度の用に、お立てあれ

死出三途(しでさんず)の大河をば

この三郎が、負い越して、参らすべきぞ」

 

一引き引きては、千僧供養

二引き引いては、万僧供養

えいさらえいと、引くほどに

百に余りて、六つの時

首は、前へぞ引き落とす

 

 

 

最後に、時間あるかな、耐えて耐えて耐えて耐えてついに爆発的な声をあげた東北6県ろ~るショーの映像。遊行の芸能者の脈をつぐ者たち。

 

白崎映美&東北6県ろ~るショー!! 「まづろわぬ民 」

https://youtu.be/9Tu3R3uwPRE

 

 

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(参考)

岩崎武夫『さんせう太夫考』(平凡社ライブラリー)

 

p84より

落ちきるだけ落ちきることによってしか、生命の転換と更新の機はつかまえないのであって、落ちきることが、逆に生命の復活と再生=自己解放をもたらすという論理には、どのような抑圧や弾圧にも容易に屈しない、民衆の姿があり、そうした民衆のいわば負におけるエネルギーを抽出し、それに形を与えたのが「さんせう太夫」の世界であったといえよう。

 

P82より

 

耐えることによって情念を内部に蓄積し、蓄積することによってしか抵抗のエネルギーに転化できない、ゆっくりと歴史を歩く民衆のひとつの生の形式を象徴的に暗示している。