· 

学習院大学文学演習 第6回

 

 まずは前回の補足からです。

 

さてさて、

説経祭文やら盲僧琵琶やらイタコやら梓巫女やら瞽女やら浪曲やら、一見文学とは縁のなさそうなものばかりを引っ張り出しては「文学」を語る、そのことにおそらく学生諸君は戸惑いを感じつつ、これはいったいなんの演習なのかと訝しく思っているのではないかと心中察してあまりある本演習であります。

 

前回の最後に見てもらった映像は、古川日出夫の「ミライミライ」を荒涼たる海辺で全身で声を放って読む姿でした。

 

今日は、もうひとつ、これも見てもらいましょう。

 

伊藤比呂美「わたしはあんじゅひめ子である」。その最初の部分を少しだけ。

山椒太夫の津軽版「お岩木様一代記」を下敷きに書かれた現代詩です。

https://youtu.be/yA7CiSxOHrI

 

文学の最前線、作家古川日出夫の声、詩人伊藤比呂美の声、テクストを手に、テクストをはみでる声を放つ。近代文学の、文字で形作られた密室の壁を体ごと打ち破って飛び出してくるような、肉体的な、声。

 

つづいて、イタコの祭文「お岩木様一代記」を読むこの声も少しだけ聞いてもらいましょうか。これも声を放つ者の肉体がありありと感じられる声。(これは教室でのみ)

 

 青森・八戸出身の作家木村友祐さんにイタコと同じ南部弁で読んでいただいたのです。

初めてイタコの祭文を声に出して読んだ木村さんの感想が実に印象的でした。

「話者が急に入れ替わる。近代的な語りとは違う。得がたい経験」と。 

 

つまり、近代文学においては、登場人物が何人いようとも、語り手(=書き手)は一人です。声は一つです。そして、その声は物語の進行を統べるひそかな声です。

 

一方、祭文を語る声は一つではない。(説経を語る声も一つではない)。

物語は複数の声によって語られる。書き手(語り手)の声は特権的な場所にはない。

そして、そのような声の複数性を聴き手もまた当たり前のこととしている。むしろ、聴き手の声が語りに介入していくことも多々ある。聴き手の声を受けて語りは容易に変わる。

 

語りの声とともにある琵琶や三味線が、さわりによって重層的に音を響かせ、世界を揺るがし、異界との通路を開くように、語りの声の複数性もまた境界を超えて語りかけ、聞きとられるものとして存在していた。

 

思うに、声によって語りだされていた物語とは、近代的な意味での「一冊の本」「ひとつの作品」とは異なり、語りの声によって開かれる「さまざまな声たちの場」として、そこにあったのではないでしょうか。

 

そして、いま、現代文学の最前線において、声を取り戻そうという動きがある。声をまさに身体的なものとして、声を放って生きている肉体の感覚(身体性)を取りもどそうという動きがある。

 

それは何を意味しているか?

 

これは、文学と私たちの生きているこの世界の関わりを考える上で、実に興味深いことです。

 

文学(もしくは物語)というものが暇人の趣味などではなく、それどころか、この世界を形作る言葉の源泉であるからには、いま言葉がどの方向に向かおうとしているのか、あるいは、どの方向に押し流されているのかを問わずにいられましょうか。

 

 文学に声や肉体を取りもどそうという動きは、確実に近代以降失われ続けてきた「さまざまな声たちの場」を取り戻す試みのなかにある、

 であるならば、それは現代においてはいかなる意味を持つのか?

 (当然に、単なる回帰でも、復古でもない) 

 

 

 これもまた大切な問いす。

 

閑話休題。

 

前回までの演習を自省しつつ、

言葉で語ろうとするとどうしても上滑ってしまう、頭の中にある「声」と「語り」と「近代文学」の風景を、一生懸命図解してみました。

 

これは、演習に関わりのある興味関心事にズームした図解なので、大変偏っている、というか、けっして網羅的な図解ではないということは、最初に一言。

 

まず最初の図は、近世から近代。

「声」と「声が呼び出す場」の風景の変容。

 

イメージとしては、中心もなく遍在する声、声の場、声とともに遍在する神々の風景が、

近代にいたって、ひとつの中心のもとに体系化されていった、という感じ。

 

 つづいて図解2は、図解1の風景を念頭に置きつつの、「語り」から「文学」、

 そして、「文学」と「文学」をゆさぶる「声」の風景。

 

 これも、かつては、開かれた声の場、複数の声の場、さまざまな声の境界の場としてあった「物語」の風景をまずは思い描き、

 

 ついで、近代的な個としての作者によるオリジナルな一冊の本、書き手と読み手の密室としての近代文学をイメージし、

 

 さらにその閉じた壁を揺さぶる声が、近代が切り捨てた領域から今や轟々と湧きおこっている、そんなイメージであります。

 

 狭いスペースに書き込まれている作家たちの名前は、本演習で主にその名が登場する人々です。その意味ではけっして網羅的ではありませんので、ご注意を。

さて、そういうわけで、今日は「瞽女唄」を聴きます。

(なにが、そういうわけなんだか、ね……。 たぶん、おいおいわかります。)

中世から千年にもわたって語りの旅を生きた瞽女の、その最後の姿を越後の瞽女に見ることができます。この越後の瞽女は昭和52年、長岡瞽女の金子セキ・中静ミサオ・手引きの関谷ハナの春の旅をもって完全に活動を終えました。

(『越後瞽女ものがたり』鈴木昭英 岩田書院)。

 

幸いにも、越後の瞽女については、音源、映像、文字による記録が数多く残されています。

そのなかから、記録映画「瞽女さんの唄が聴こえる」(34分)をまずは観てみましょう。

これは最後の高田瞽女のドキュメンタリーです。

 

 

芸能が宗教でもあった世界において、歌はどのように村々をめぐったのか?

語り物はどのように語られたのか? その村々はどのような村であったのか? 

 

まずは、近代以前の遊行の芸能者の世界の残り香をそこに感じてみたいと思います。

 

そして、「山椒太夫」にまつわることで言うならば、まことに興味深いことに、越後の高田瞽女は「山椒太夫 舟別れの段」という、説経とも、森鴎外の「山椒大夫」とも異なる、ご当地物の「山椒太夫」の物語を語りました。

 

安寿と厨子王一行が人買いの山岡太夫に騙されて売られていく、その現場が上越の直江津(直江が浦)です。瞽女たちが実際に旅して歩いた場所です。

 

説経の「さんせう太夫」でも、森鴎外「山椒太夫」でも、山岡に騙されて舟で沖合に連れ出された一行が、丹後由良の舟(安寿・厨子王)と佐渡の舟(御台さま、侍女姥竹)に離れ離れに売られていく場面は、物語の最初のクライマックスの場面となりますが、説経でも鴎外でも一番影の薄い侍女の姥竹、つまり、あっという間に海の藻屑となって消えてそれっきりの姥竹が、瞽女唄ではなんと復讐の大蛇になる。

 

その一部を紹介しましょう。

 

(まずは説経や鴎外と同様、姥竹が佐渡に向かう舟から海に身を投げる。こんなふうに)

 

直江が方を はったと睨み

おんのれ憎き 山岡が 

いまに思い 知らせんと

はったと睨んだ有り様は

身の毛もよだつ ばかりなり

舟のこべりに 立ち上がり

海へざんぶと 身を投げる

 

(そして、安寿厨子王一行を売りとばした金を懐に、山岡太夫の舟が直江が浦に戻っていく、そのとき)

 

遥か沖を 見渡せば

大風がさっと 吹き来たる

震動ないりに 鳴り渡る

白浪だって 荒れ出だす

たちまち今は うば竹が

額にかぶくと 角を振り

総身は

九万九千の うろこ逆立ち

眼は日月の如く 光輝いて

げに紅の 舌を巻き

口より火焔を 吹き出だし

逆巻く浪を 押したて蹴たて

浮いつ沈みつ

沈みつ浮いつ

ぱらぱらぱらっと 水煙り

逆巻く浪を掻き分け 掻き分けて

直江を帰る 山岡を

後を慕うて 追っかけ行く

 

(ほら、海上では、大蛇になった、つまり龍神になった姥竹の大暴れが始まっています)

 

台詞

「おんのれ憎き山岡太夫権当め。よっくも、われわれ四人を謀りしぞえ。女でこそあれ、うば竹が、いまこそ思い知らせんと」

 

(これを聞いた山岡太夫は、それはもう必死の命乞いをするのですが……)

 

なにがうば竹 聞き入れず

宙へ引き上げ 引き下ろし

ぎりりぎりりと からみつき

船を微塵に 巻きこわし

ずんだずんだに 引き裂いて

底の水屑と なりにける

小気味よくこそ 見えにける

 

こうして、山岡太夫は滅ぼされました。

めでたし、めでたし。

 

この物語がご当地物たる所以は、その風土にあります、風土に根づいた神の存在にあります。

証拠写真を数枚お見せしましょう。

そして、この荒ぶる波の風景。怒れる姥嶽!!

https://youtu.be/xIY2_dBVVIY?t=19m30s

 

長い長い「山椒太夫」の物語の中でも、越後の高田瞽女が、親子生き別れとそれを強いた者たちへの激しい怒りがほとばしるこの場面だけを歌い語ったのは、旅を生きる物語の変容を考えるうえでまことに興味深いことです。

 

ところで、さらに、最後にもうひとつ付け加えるならば、このうば竹の復讐譚は江戸時代の後期に江戸で生まれた説経祭文でも登場するんです。

 

江戸の説経祭文と越後の瞽女唄。

 

何がどうつながって、そうなったのか。これはまたのお楽しみということで。 

 

 

●さて、ここから先は、よりよく残り香を感じ取るための基礎知識です。

 

長岡出身の宗教民俗学者で、瞽女についても深く研究されてきた鈴木昭英氏は、瞽女の長い歴史をこのように簡潔にまとめられています。

 

「中世においては専ら都鄙を遊歴、徘徊し、貴族の邸宅に上がって芸を披歴することもあったが、大方は路傍や寺社の門前、境内に座して、神仏の霊言話、戦話や仇討ち話を語った。しかし、近世に幕藩体制が敷かれ、安定した生活が営まれるようになると、城下町や門前町に定住し、自治的な仲間集団を形成し、その周辺部を巡回稼業するようになった」

 

この瞽女の活動は最後まで宗教性を帯びたものでありました。

 

振り返れば、

前々回に紹介した多摩地域の「説経祭文」の主な担い手であった神楽師たちが村々で行う芸能活動の一つの支えとして陰陽師の免状を土御門家からもらっていたように、

江戸時代には、勧化僧、御師、虚無僧、山伏、万歳、座頭、瞽女たちもまた、社寺が発行する鑑札、免状を持つことで、あるいは宗教的な装いを持つ組織に属することで遊行の旅が容易になったといいます。

宗教性をまとった芸能者は村々で歓待されたともいいます。村はそのような芸能者/宗教者を受けいれるための村費も計上していました。(『瞽女うた』ジェラルド・グローマー 岩波新書 参照)

 

とはいえ、明治の世、近代のはじまりとともに、芸能者の宗教性は次々と剥ぎ取られ、宗教性なき遊行の芸能者は乞食にも等しいものとして取締りの対象になる。

 

たとえば、ちょっと目についたものだけでも、こんな感じです。

 

明治4年 盲人の官職廃止(当道廃止令) (盲人の芸能者の公的保護の廃止)

明治5年 明治政府の芸能に対する基本方針 

明治5年 修験道、陰陽道の廃止  (芸能者と深い結びつきの民間信仰の衰滅)

明治5年 「国家に益なき遊芸」という言葉の出現 (近代国家の発想の発露)

明治6年 瞽女稼業の禁止(山梨県)

明治7年 静岡・三島の瞽女組織の廃止

 

 瞽女の活動を指して、「隊を成し、各戸に銭を乞ふ」ゆえに、瞽女は開化になじまない、「旧染の陋習」とする公の側からの言葉もあります。

 

ところが、各地で瞽女の活動が取り締まられる中で、新潟県は瞽女の活動を禁止しなかったんですね。

 瞽女をはじめとして、明治に入って急速に衰えた「遊行の芸能者による語り」にあって、越後の瞽女は昭和の半ばまでその命脈を保っていたのです。

 

新潟県が瞽女の活動を禁止しなかった確かな理由はわかりませんが、越後の人々が瞽女を受け入れた大きな理由の一つに、瞽女の担った宗教性があり、農村がその宗教性を必要としたということがありました。

 

その農村とは、近代日本の大きな財源となった製糸業を支える蚕を飼う村々でした。

 つまり、越後、上州、信州、山形あたりの養蚕をする村々が越後の瞽女の旅の生活の基盤であったのです。

 それは瞽女の宗教性が発揮されるという点で昔ながらの風景であり、同時に、養蚕業に瞽女の旅が支えられていたという点では、きわめて近代的な風景でもあります。

 明治・大正・昭和をとおして、日本の近代化過程において、外貨獲得の主要な担い手は養蚕・製糸業でありました。昭和初年には全国の農家の40パーセントが養蚕業を営んでいました。とりわけ越後の瞽女の活動した地域は名だたる養蚕地帯です。  

 まるで前近代と近代が相交わる道を瞽女はゆくようでした。

 近代化を支える養蚕業を営む村々は、前近代的とされる宗教感覚が息づく村々でもあったのです。

 

 ジェラルド・グローマ―は『瞽女うた』(岩波新書)にこう書いています。

 

「とくに上州、会津、米沢、越後などの養蚕の盛んな地域においては、瞽女に対する信仰上の期待が強く、蚕棚に案内され、お蚕様に唄を聴かせてほしいという依頼は珍しくなかった。」「一年に瞽女百人を泊めれば家の魔よけになり、家に余慶をもたらすといわれた」。

 

 瞽女の三味線の糸を細かく切ったものを飲めば子宝に恵まれるともいわれました。稲穂が元気に育つよう、田んぼに向かって歌うこともあったともいいます。

 

 村々を訪ねる瞽女たちが歌い語ったのは、「山椒太夫」や「俊徳丸」「葛の葉」「小栗判官」(説経系の物語)や、「佐倉惣五郎」「塩原多助」「義士外伝」(祭文系の物語)といった、説経や歌舞伎、浄瑠璃等をもとにした長い語り物、そして聴き手が望むさまざまな歌、たとえば民謡、端唄、長唄、義太夫、新内、清元、常盤津、流行り歌、さらには正月のご祝儀に三河万歳を演じたり。もうなんでもやります。なんでもござれです。

 

山間の農村では、春になると芸能と世間の情報を携えてやってくる瞽女さんを心待ちにしていました。

 

 

 その瞽女の語る声、唄う声が、昭和52年の長岡瞽女の門付の旅を最後に巷からついに消える。

 

最後に大きな問いを一つ。

 

 なぜ瞽女唄は消えた?  

 古臭いから?  

 もっと面白いものがこの世には溢れているから?

 

そのことについて、『瞽女うた』において、ジェラルド・グローマ―は次のような問いを投げかけます。

 

「レコードの演奏に近いということが、「本格」の基準とされ、この化石のようなメロディーをなぞることによって、瞽女唄が本来持っていたはずの口頭伝承による自由さは、影を潜める結果となってしまった。」

 

 

「彼女たちの唄は、我々に問いかけている。なぜ、音楽市場から、あのように長い物語を展開する唄は消えてしまったのかと。肉体的には江戸時代の人々と変わらぬ集中力を持っていても不思議でない現代人にとってなぜヒット曲の大半は、三分程度で終わるのであろうか。なぜ、ポっプスは機械的なビートに終始しているのであろうか。柔軟なリズム感は、いったいどこに行ってしまったのであろうか。細かい装飾音の多い旋律を、なぜ聴衆(消費者)は要求しなくなったのであろうか。それを要求しなくなったのだとすれば、瞽女唄を好まない聴衆の嗜好は一体どのように発生し、どのように操作され、どれほど制限されてきたのであろうか。聴衆が無言のままに甘受している、こうした音楽の諸限界は、誰のいかなる利益となっているのであろうか。かくして瞽女唄は、枚挙に暇がないほどに多様でかつ痛烈な批判の矛先を、現代社会の我々に向けているのである」

 

 

ここでグローマーは、うたの側面から、音楽の近代化/商業化というところから、問いを起こしています。

 

 音楽の近代化/商業化の性向のポイントは分かりやすさにあり、 その分かりやすさに慣らされ人びとの感受性から、こぼれおちてゆくものがある。それを、グローマ―は、「音楽的・文学的可能性」と言います。

 

 

 この近代社会は、近代のはじまり以来、何を失ってきたのか?

 それは誰の利益になっているのか?

 

 瞽女唄をとおしてそう問いかけるグローマーの声は、今まさに文学の最前線で繰り広げられつつある、声を求め、身体性を求め、近代という密室に閉ざされているかのような文字の世界を超え出ようとする動きと響き合うものでもあるのです。

 

<参考資料 瞽女唄> 

 

数限りない歌のなかから、瞽女宿訪ねて最初に門口で歌う門付け唄と、悲しいイメージで語られがちな瞽女の歌うエロチックな戯れ歌。

 

門付け唄

 

千夜通うても 遭われぬときは

御門扉に ソリャ文を書く

御門扉に ソリャ文を書く

 

御門扉に 文書くときは

硯水やら ソリャ涙やら

硯水やら ソリャ涙やら

 

 

へそ穴口説き

 

国はどこよと たずねてきけば

哀れなるかや へそ穴くどき

国はうちまだ ふんどし郷

だんべ村にて ちんぼというて

畏れ多くも もったないなくも

天の岩戸の 穴よりはじめ

ていしゅ大事に こもらせ給い

富士の人穴 大仏殿の

柱穴にも いわれがござる

人の五体の 数ある穴に

わけて哀れや へそ穴くどき

 

帯やふんどしに 締めつけられて

音でも息でも 出すことならぬ

神祇ごときに 出ることならぬ

夏の暑さに じつないことよ

ほんに体も とけるよでござる

 

(以下省略)

 

※この歌はこんな調子で、どんどん滑稽に、実におおらかな春歌になっていきます。

へそ穴が問わずがたりにかきくどくのは、へそ穴の隣の愛嬌のある胞輩の穴の事。

胞輩穴を坊主頭の坊さんたちが出入りするさまを、へそ穴が気を揉みながら面白おかしく歌うというわけです。