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学習院大学文学演習 第4回

説経・祭文から、説経祭文、そして……

 

 

<まずは、今日の前口上>  

 

 本題にゆくまえに、少しばかり浪曲を覗き見。

 

 

 

(浪曲へ行こう!vol 1木馬亭 ヤング篇)

 https://youtu.be/FLqBjz4W34g

  

 

浪曲は日本の語りの最新型。

その兄弟分とも言いうるような「説経祭文」を核に、語りの現在・過去・未来を概観するのが今日の本題であります。

 

 

<説経祭文。現在・過去・未来。>

 

 見てのとおり、説経祭文は、「説経」と「祭文」。仏教の唱道文学から派生した「説経節」と山伏祭文との合体が、「説経祭文」となります。

 

 そもそもは、宗教者(修験者/山伏、仏僧、神官等)によって祭祀の場において唱えられて祝詞や願文である「祭文」が、やがて面白おかしく物語を語る「山伏祭文(もじり祭文)」という形で芸能化し、江戸の初めの頃には大道や家々の門で語られるようになってゆく。

 この場合の山伏は宗教の衣をまとった芸能者です。この芸能者の唱える祭文は、世俗の声です。が、それが「山伏祭文」であるかぎり、その意味においては、宗教と芸能は不可分のものとしてそこにあります。

 

 言うなれば祭文は、神の坐しますお山から、神の威光を背に、人住む地べたに降りてきたって芸能となった。

(三田村鳶魚の言うところによれば、「説経は鉦打ちに落ち、祭文は山伏に堕ち」た。)

 

 では、芸能者としての山伏(もしくは山伏もどき)は、どんな物語を、いかに語るのか。

 

 たとえば、当時の人びとがよく知る五大説経の物語を大道芸にそぐう形で、法螺貝吹いて調子をつけて、錫杖でリズムを取って語ったりする。

(いや、法螺貝は、山伏祭文進化系のデロレン祭文では、拡声器代わりにつかっていたようでもある)

 と、いかにも見てきたように語っていますが、ともかくも、この山伏祭文が、近代の浪曲誕生に至るまで、大道の語り芸の原型であり、芸は大道にあり、旅にあったのだということ、これを忘れてはならぬと思うのです。

  

 一方、説経の物語は、唱道のために宗教者が神仏の縁起を語ったものが、やがて大道の「説経節」として、ささらを手にした芸能者によって語られだす、それはそのうち「説経操り」として、人形と語りが舞台の上でコラボするようになる。「説経操り」では、ささらではなく、三味線にのって説経節が語られる。

 

「もとは門説経とて、伊勢乞食ささらすりて、いひさまよいしを、大坂与七郎初て操にしたりしより、世に広まり玩びぬ」(『好色由来揃』より)

 

 江戸の初期には「説経操り」は大いに流行ったそうです、が、なにしろ物語は宗教色が濃く、歌い語るその節も、後に流行する義太夫節ほど技巧的でない、ゆえにあっという間に飽きられて、田舎くさいと言われたりして、古びた芸能の風情を漂わすことになる。

 

 飽きられて舞台にかからなくなった説経節は、ふたたび大道へと帰ってゆきます。

 

 とはいえ、芸能は地べたの者、旅する者たちの領分で息づくものであるゆえ、舞台から消えたことが、必ずしもその芸の消滅とイコールではありません。大道の山伏たちが、あるいは、山伏風の祭文語りたちが、落ちぶれた説経を語りつづけていたのです。

 

 世には大道のいかがわしさ漂う語り芸を慈しむ好き者がいるもので、山伏祭文を愛好した数少ないひとりが、本所の米屋の息子、通称米千

 米千は錫杖と法螺貝でもって語られる山伏祭文を、盲目の三味線弾き京屋五鶴の伴奏で語りだして、それが面白いと評判を呼ぶ。

 

 江戸の初めの「人形操り」で既に説経は三味線と組んでいたのだけれど、ずいぶん前に廃れた「人形操り」のことなんか、もう誰も覚えちゃいないですからね。だから、山伏祭文と三味線のコラボなんてなんだか物珍しい、人形と合わせたらよさそうだ、というわけで、あっという間に薩摩座で「説経操り」復活、米千変じて初代薩摩若太夫、説経祭文家元となります。

 

 大道芸が、紋付き袴の芸になって、家元まで出現して、これはかなり成り上がった感がある。が、思えば、歌舞伎にしろ、文楽にしろ、地べたの芸が成り上がっていくのも、世の中の常で、ただ説経祭文は、いろいろ楽しい娯楽がありすぎるお江戸ではやはりブームは長くは続きません。あっという間に人気は陰る。

 そうなれば、あとは都落ちの旅が待っています。説経祭文の場合は、江戸近郊、武蔵国の農村地帯へとその根拠地を移していく。 

 村々の祭礼や日待ち行事で語られたり、人形や写し絵と結びついてゆく。

 そうして、6代目薩摩若太夫(古谷平五郎/武蔵二宮)以降、昭和半ばまで、多摩地域に説経祭文は脈々と伝えられることになるのです。

 

 

<説経祭文の尻切れ半纏 浜大夫>

 

 ところで、三田村鳶魚が説経祭文について、こういう面白いことを書いています。

 

「説経は昔から家元などというものはない。また家元のあるべき筋合のものでもない。だが三味線にさえ離れた説経を回復し、特に大坂与七郎以来の人形にも有り付かせた若太夫の功績は、彼を一派の権威として、昔はなかった家元に押し立てる理由もあろう」

 

 それでも、やはり三田村鳶魚は裃をつけた説経祭文が気に入らなかったのでしょうね。薩摩派の系列の中でも、元雲助で、裃なんかではなく尻切半纏を来て、気が乗ればいつまででも説経祭文を語ってみせたという三代目浜大夫のことを上機嫌で書いている。

 

「説経が忘れられたようで絶えないのは、芝居のお客にも寄席のお客にも離れて、いまだ生命が尽きないためである。それは大道芸として存在し得られたからだ。それはまた尻切半天の浜太夫を生命とするわけでもあろう」

 

 山にあり、野にあり、道にある芸能としての語り、その姿を三田村鳶魚は浜大夫に託しているようにも見えます。それは、私もまた深く共感するところでもあるのです。  

 

 

 

 

 

さて、いよいよこれから実演です。

演者は、祭文語り八太夫。

 

<山伏祭文・説経から、説経祭文へ 千年の時間の流れを早送り実演!>

 

 

1.まずは傘をさして、その下に広がる異界から物語る声、大道の「ささら説経」

 

演目は古浄瑠璃「阿弥陀の胸阿割」。その冒頭はこのとおり。

 

さてもその後、天竺のかたわらに、胸割阿弥陀とて、名仏、三尊、おわします。由来を詳しくたずぬるに、諸事の哀れを止めたり

 

 

[洛中洛外図 説経操]

向かって左側の文字は「むねわり あやつり」 とある。

右側は「山中常盤 あやつり」

 

2.大道の説経の声に、人形がつけば、江戸の初めに流行った「説経操り」。

 

 今日は、「人形操り」の演目の一つ、「越後国柏崎 弘智法印御伝記」

 1685(貞享2)年、江戸孫四郎作をやってみます。

  

 この物語は、放蕩者がみずからが引き起こした災いによって妻を亡くしたことから発心して、弘法大姉の導きにより仏道に入り、ついには即身成仏を遂げるというもの。

 実際に新潟は柏崎の西生寺に祀られている即身仏をめぐる物語です。

 実を言えば、この演目は久しく忘れられていて、つい最近、新潟に本拠地を置く人形浄瑠璃猿八座によって、300年ぶりに復活上演されたばかりです。 

 

 どういうわけで? 

 

 大英博物館にこの古浄瑠璃の正本が保管されていたのです。

 どうやら、江戸時代の元禄年間に、長崎の出島にいたドイツ人医師ケンペルによって禁制を破ってひそかに持ち出されたらしい。それがまわりまわって大英図書館で所蔵されることになり、300年を経て、世界にたった1冊だけの「越後国柏崎 弘知法印御伝記」が日本人研究者に発見されて、今によみがえったというわけです。

 

[弘智法印 即身仏 @西生寺]

 

越後國 柏崎弘知法印御伝記(ほうちほういんごでんき)    

江戸孫四郎 正本 大伝馬三町目

 

初段

 

さても其後(そののち)

つらつら人界の善悪を観ずれば 

色声(しきじやう)香味(かうみ)触法(そくほう)とて 

塵の境(きやう)に迷い 

六根につくる罪咎

輪廻の絆と也、いつの時にか免れん

されども一念転じて見る時は 

煩悩は菩提生死、即ち涅槃也

爰に本朝五十八代光孝天皇の御宇

越後の国には 大沼権之太夫秋弘(あきひろ)とて 

長者一人(いちにん)おわします

家富み家内(けない)繁栄にて弥彦の麓に住み給ふ

 

 芸能は、古くさいと思われて、聞かれなくなって、廃れてしまえば、すぐ忘れられる。

これもまた、当時流行の義太夫節に押されて消えた、古色蒼然の説経節の物語の一つだったのでしょう。

 

※注1 「弘智法印御伝記」のあらすじ・解説は、本ページの最後に。

 

 3.次は、貝祭文。別名デロレン祭文。

 

 法螺貝を口に当ててデロレンデロレン、錫杖振って物語る「貝祭文」は、「山伏祭文」の古形を偲ぶにはもっとも手掛かりになる語り芸と言われています。

 江戸時代、山伏が大道で演じた貝祭文は、説経祭文の隆盛によって、江戸から上州へ、さらには奥州(山形・岩手・青森)へと、押し出されるように、都落ちしていくように、北に向かってその根拠地を移していきました。

 面白いのは、上州の祭文語りが近江に出かけて、江州音頭の誕生へとつながったこと。山形を根拠地とした祭文語りたちの旅路は、越後の瞽女たちの旅路とも重なり合っていたこと。語りの声たちは旅で出会い、豊かに増殖していく。 

  

デロレン、デロレン、上州祭文

天地ひらけし世の中に、親子の別れは多けれど、ここに哀れをとどめしは、津の国、阿倍野に住まいなす、安部の保名ともうするは、迷う心の奥の間に、忍びて

事をうかがいけり

 

 

4.説経祭文 江戸で起こって、武蔵の国へ。

 

  江戸後期、三代目薩摩若太夫の頃くらいまでは、江戸の猿若町の薩摩座の舞台で活躍の「説経祭文」でしたが、これもまた面白いのは、安政の大地震の後に三代目が秩父の温泉に長逗留したことで、まずは秩父へと説経祭文の種がまかれた。

 つづいて神楽師/陰陽師つながりで、五代目若太夫 諏訪仙之助(板橋)から六代目若太夫 古谷平五郎(武蔵二宮)へ。

 ついにこれを境に説経祭文の本拠地は武蔵の農村地帯へと移ってゆくのです。

 

村の陰陽師は芸能者!

 

 この神楽師/陰陽師ネットワーク(祓講)というのが侮れない。

 

 彼らは農村の祈祷者であり医者であり芸能者であり、そのネットワークがそのまま多摩や埼玉の説経祭文のネットワークになりました。

 

 とりわけ六代目薩摩若太夫 古谷平五郎の古谷家(武蔵二宮)は説経祭文、車人形、地芝居、神楽、新派劇となんでもござれ、あっちの村こっちの村と巡業してまわり、村々の芸能の指導者でもあった。

 この古谷家の娘ていが人形を持参して埼玉の竹間沢(現・三芳町)の前田筑前の家に嫁入って、前田家も説経祭文で車人形を演じるようになる。前田家もまた神楽師であり陰陽師。前田社中は今も神楽師として活動をしています。

 古谷、前田の他にも、初代若太夫の弟子であった薩摩津賀太夫 石山美濃守(入間川)も、その孫娘の婿となる小泉因幡守(八王子)も陰陽師でした。(注2)

 

 そういえば、説経祭文とはまた違う話ではありのですが、地震がらみで言えば、関東大震災の折にも、東京・浅草あたりから多摩地域へと避難してきた役者たちがいて、それがまた多摩地域の芸能を豊かにしたとも言われています。

 

薩摩派説経節 小栗判官一代記 照手車引きの段

 

 さても照手の姫君は、夫の菩提のそのために、餓鬼阿弥車を引かばやと、父母の菩提と偽りて、主に五日の暇もらい、松の油煙で隈え取り、緑の髪を振り乱し、御身に烏帽子、狩衣や、胸に深紅の結び下げ、笹の小枝に、締めきり下げて、振り傾げ。

 その身の部屋を立ち出でて、餓鬼阿弥車のそばに寄り、女綱男綱を取り分けて、引けや、引っかしゃれ、道者達。そもこの車と申するは、一引き引けば、千僧供養。二引き引けば、万僧供養。供養の為に自らも、引くや仏の御手の綱。小萩が音頭で引きましょうと、中の引き綱手に触れる。ものの不思議はこの車。小法師達の引くときは、両輪が大地にめり込んで、押せども引けども動かずし。照手の音頭で引くときは、妹背の縁に引かされて、車の轍が浮き上がり、くるり、くるりと回り出す。思いのままに轟けば、やれ嬉やの嬉やと、涙は垂水の宿を出で。

 

 

 

 説経ネタの小栗判官、信徳丸、山椒太夫、文楽ネタの巡礼おつる、歌舞伎ネタの壷坂霊験記といった演目がよくかけられていました。

 多摩の農村で演じられた説経祭文はそのストーリーもかなり庶民的にアレンジされている。ワイドショー的な世俗の香りがしないこともない。ほんのりとエログロナンセンスはけっこう重要な要素だったようでもある。

 とはいえ、人々の耳が肥えてくれば、どろくさい説経よりも、より洗練されている義太夫を取り入れたくもなる。節は時代と共に、人と共に変わりもする。

 

 八王子のある薩摩派の年老いた太夫は、語りの秘訣は、畑を鍬で耕すときのリズムだと語ったといいます。かつての多摩の男たちは、今でいうならば、カラオケ感覚で説経祭文を歌い語ったのだともいいます。

 

 とはいえ、本日のゲスト渡部八太夫が、説経祭文再生のプロジェクト(説経節の会)に1993年より関わりはじめ、2006年に十三代薩摩若太夫を襲名した頃にはすでに、残された音源を師匠とするほかなかったといいます。

 

 

 

 しかし、過去の音源をただそのまま再現するだけならば、それは今を生きる芸能者の営みではない。それは説経祭文の再生ではない。

 

 渡部八太夫が十三代薩摩若太夫の名跡を返上し、再現のための制度の外に飛び出し、やがて山伏のようにひとり山を歩き、今の世に寄り添う祭文を語ろうとしたとき、そこには、説経祭文の底に流れつづけていたはずの、なのにすっかり忘れ去られていた<語りのはじまりの風景>、<はじまりの声>が立ち現れてきたのかもしれません。

 

 

5.よみがえる説経祭文

 

 今日の締めくくり。元十三代薩摩若太夫、祭文語り八太夫が演じるは、昔のままそのままの化石のような説経祭文「信徳丸」ではなく、声に生き生きと血も通う今の世に生きる説経祭文。

 

「信徳丸一代記 継母呪い段(20分版)」  

補綴節付:渡部八太夫

 

河内の国高安郡にも隠れ無き

信吉長者の御総領

信徳丸と申するは

不運の星の生まれにて

七つと申す明けの春

母上様と死に別れ

若き継母に育まれたり

 

さて、継母(ままはは)が恐ろしいというのは

どうやら、この物語から始まったことのようでございます。

 

信徳丸の腹違いの弟ができました。

名は「五郎丸」

継母が心に思う事には

 

「ええ、口惜しい、自らが産んだ五郎丸に家督を継がせたや」

と、子故に迷う、親心

 

いやはや、浅ましいものは、女の心であります

もしも、信徳丸が少し風邪でもひいたなら

薬と偽って、毒を盛ってやろうと考えておりましたが

憎む子は、世に憚るの道理でありまして

信徳丸は無病息災、やがて成人いたしました。

 

喜んだ信吉長者は、

亀山長者の息女、乙姫様を貰い受けて

信徳丸に家督を譲る

 

ことにしたのですが

さて、継母は

 

歯嚙みをなし

「ええ、是非に及ばぬ、この上は

神の力を借り受けて

今宵、一夜が、その内に

祈り殺してくれんずぞ」と

女心の恐ろしや

白装束を身にまとい

髪に四角の枠をのせ

百目蝋燭、四本おっ立てて

懐中には、鉄釘、百八本

口にカミソリ、手には金鎚引っ提げて

春日大明神へ飛んで行く

 

「ええい、南無や春日の大神社

願いの筋は別ならず

信吉長者の総領の

信徳丸が一命を

今宵一夜に取り給え

もしも、叶わぬその時は・・・

この池に身を投げて、

毒蛇となってのたうち回り

お参りの人をたべちゃうぞ」

 

って、神様を脅すんですよ、びっくりですね

奇蹟を起こす神様も

こういう脅しに何故か、弱い。

それに、神仏(かみほとけ)も金次第

 

黄金の鳥居を千本、奉納などとうそぶいて

「さあさあ、誠に霊験新たの神ならば

大願、叶わせたび給え

南無や春日の大明神」

と、深くも心願、籠められて

七回回る楠の、ご神木に立ち寄って

信徳丸が絵姿を

真っ逆さまに貼り付けて

用意の鉄釘、取り出だし

「おのれ、にっくき信徳丸

継母の牙のこの釘を思い知れや」

と、言うままに

金鎚おっとり、かっしかっしと

打つ音が金輪、奈落の底までも

貫き、響いて、もの凄や

信徳丸の絵姿の、足の先から頭まで、

急所を残さず

五臓六腑に立つ釘を

並べて、打ったる有様は

身の毛もよだつばかりなり

女の一念、恐ろしや

血走る眼(まなこ)に血をすそぎ

念願籠めて打つ釘は

継子(ままこ)の肝(きも)に通じてか

信徳丸の絵姿よりも

血潮が、さっと走りける

継母は、それと見るよりも

「ほほほ、朧月夜にこのように

血潮の立つまで分かりしは

ほほほ、さてこそ、大願成就間違いなし」と喜んで

女心の浅ましや

わずかに、心が緩みしか

止め(とどめ)の一本打たぬ故

情け無いかな、信徳丸

その夜、一夜がその内に

癩病病みとなり崩れ

目も当てられぬ風情なり

 

さて、明くる朝、信吉館は大騒ぎです。

 

信吉、はっとばかりに驚いて

信徳丸の顔をつくづくと、打ち眺め

「やあ、これ、信徳丸

何時の間に、このような

汚い、片端になりはてた

緑の髪も、禿げ落ちて

鼻は欠けて、落ちるやら

唇、目尻、耳鍔(つば)も欠けて

膿にまみれて、匂いを放ち

おお、これが、大方(おおかた)

癩病と言うであろ

我が家においては、昔より

筋目を選んで、縁組みいたし

この様な病(やまい)は、できぬはず、生まれぬはず

はあ、如何なる毒の喰い当たりか

ああ、はたまた、何神様(なにがみさま)のおとがめか」

 

それからといもの

医者じゃの、祈祷じゃのと、

様々に介抱なされましたが

その甲斐さらにあらざれば

泣いて、その日を暮らさるる

 

継母、この由、見るよりも

「申し旦那様

亡くなった人を悪しく言うではなけれども

定めて、先妻は、みだらな女

あのような筋目の子ができましたのも

あなたの目を、眩まして

間男をしてできた子でござんしょう

子で無いと思えば、敵も同然

神罰の当たらぬ内に

良いご了見なされませ」

と、さも真心に見せかけて

鬼より蛇より、恐ろしい女なり

 

信吉、これを聞くよりも

凡夫の心の浅ましや

死んだ女房が憎くなり

「ええ、こりゃ、信徳丸

おのれめは、いったい俺が子で無い

今日より親子の血縁(ちえん)を切って、勘当いたす

親と思うな、子でもなし

何処なりとも、消え失せおれ」

と、聞いて、信徳驚いて

「これ、のう申し、父上様

子で無いとは、何故に」

と言わせも果てず

「黙れ、業病」と、踏みのめす

踏みのめされて、信徳丸

傷む所をなでさすり

泣くより外のことぞなし

ようよう、涙の顔を上げ

「申し、父上様

私(わたし)の様に

お家の名を傷つける

業病になりし者は

最早、ここにはおられませぬ

御勘当、背きはいたしませぬ

今宵、闇にまぎれて

這い出でて参ります」

さても哀れや信徳丸

行方も知れぬ闇の底

呪われたるその身をば

捨てるようにぞ沈めける

 

さあ、救いはあるのか、信徳丸一代記

今日は悲しい結末ですが

必ず良い日がやってきます。

これにて大切り、続きは又のお楽しみ

以下、参考資料

多摩地方 「さんせう太夫」写し絵 種板

 

 

(注1)

 

(注2)

 ※背景には近世になって初めて成立した土御門家による諸国陰陽師一元的支配。

 そこには、宗教者・芸能者を、寺社奉行を介して支配統治の対象にしようとした

 幕府の狙いがある。 (『近世陰陽道の研究』による) 

 

※本文中の神楽師/陰陽師たちは土御門家より免状をもらい、官名を与えられている。

  (近世の土御門家は陰陽道を神道化したので、神楽師とは結びつきやすいのかもしれない。)

  

<地方の陰陽師の活動の一例: 武蔵多摩郡中藤村 指田藤詮の場合>

1.占い

2.病気直しの祈祷やお祓い。薬の処方。

3.地元の神明社、金比羅社での神楽の主催。

4.神明社の風祭の主催。

5.旦那場における配札 (陰陽師として自分が担当する地域の人々にお札を配る)。

6.竈注連。竈に飾る御幣、神札を用意して、竈祓い。

7.村から依頼されて、村の修験とともに、疫神送りの共同祈祷。疫神、邪気を祓うために。

 

 村の占い者、祈祷者、医者、芸能者としての陰陽師

 

   ※同様の立場の者に、村の修験者/山伏もいる。

   ※陰陽師は神道系、修験は修験道系(神仏習合を前提とする。おおむね密教系。)

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コメント: 1
  • #1

    HN あっと驚く溜池山王 (月曜日, 14 5月 2018 22:10)

    ながめ余興場公演の前日には、こんな講義をなさっていたのですね。
    このうちのいくつかを私は当日聴けたのですね。
    今日になって、あらためて感激しています。