『回帰するブラジル』(渋谷敦志 瀬戸内人)

 

 

「美しい地平線」の話からしよう。それは写真集『回帰するブラジル』の彼方に横たわる。写真家はそれをアフリカの旧ポルトガル領アンゴラで見た。十六年前のことだ。そこは内戦の果ての渇ききった哀しみの地。儚い命たちの場所。そこでは、人々が、地雷ゆえに耕すこともならぬ広大な荒地をポルトガル語で「美しい地平線」と呼んでいた。その言葉の響きに、写真家は、自身の旅のはじまりの風景を不意にありありと想い起こす。旅のはじまりに自分が世界に向けていた眼差しのありようとともに。写真家はそれを「サウダージ」と呼ぶ。

 サウダージ。ブラジルの風土の中に息づく、いわく言い難い感覚。写真家が写真家になるその出発点で出会い、写真家を写真家ならしめたもの。そこに確かにあるはずの何かに届かない、抗えない現実、その現実を越えたくて、その何かに触れたくて、心がひりひりと震える、そんな感覚、それでもあの地平線を越えてやろう、あの美しい地平線の彼方へと行ってみよう、そんな心躍る感覚。

 しかし、それは、この世の荒野のごとき現実の中では、どんなにたやすく失われてしまうことか。「世界に触れるような生き方をしたい」。写真家が17歳の少年の頃に胸に抱いたその思いを生きつづけるには、それはどれだけ大切であることか。

 だから、くりかえしブラジルに、サウダージに、はじまりに回帰するのだ。あの美しい地平線を越えようと何度でも旅立つのだ。アンゴラからブラジルへ、サンパウロ、リオデジャネイロ、バイーア、アマゾナス……、モノクロの光と闇の中で息づく人々のほうへ、その命の在り処へと旅する写真家は、やがて三・一一後の福島へ。

 ほら、写真家の眼差しを追いかけてごらん、津波にすべてを押し流された地にもまた、美しい地平線。そしてサウダージ。

 はじまれ、光あれ、祈りをこめて、写真家はシャッターを切る。いま、ここに、切なくて愛おしいはじまりの光景が立ち上がる。その光景を見つめる私の心も祈りで満ちる。

 

(西日本新聞 2016年7月3日) 

『ワンダーボーイ(キム・ヨンス CUON)

 

 一九八四年ソウル、「僕」は事故で唯一の肉親の父を失う。「僕」自身も蘇生してみれば、どうしたことか人の心の声が聴こえるではないか。(この「一九八四」というのが実に象徴的。「僕」はオーウェルの描いたあのディストピアに突然投げ込まれたかのようだ)。

「僕」は権力に翻弄され、特殊能力を利用される。拷問される者たちの沈黙の声を聴くことを強いられ、責め殺される者が最期に想い起こす幸せな日々の思い出をも知ることになるとは、なんと恐ろしい、哀しい、さみしい、苦しいことか。さあ、「僕」(=ワンダーボーイ)はどうする? 「僕」はまだ、ほんの十五歳なのだ。

 こうして「僕」の逃亡と漂泊と成長の物語が動き出す。その背景には南北分断の現実があり、一九七四、一九八〇、一九八七と、韓国の市民や若者たちが軍事政権と戦った、忘れようのない痛みに満ちた日々の記憶がある。そのなかには「僕」の父と顔も知らぬ母の秘密もある。「僕」の周囲には、ささやかな生をかけがえのないものとして生きる人々がいて、そのひとりひとりを見つめる作家の温かな眼差しがある。三〇〇〇億もの星がある銀河で生命体が確認されている唯一の星、地球。そのあまりに孤独な星に、これまで存在した人間は一〇六五億人。三〇〇〇億分の一の星に生きる、一〇六五億分の一の存在。そうだ、人間はちっぽけだ、だけど、そのひとりひとりが特別な存在なのだ。

 「僕」は銀河を見あげ、問いを立てる。(大切なのはゆっくりと呼吸をすること、より自分らしくなること、正しい答えを導き出すための正しい問いを立てること)。たとえば、こんなふうに。

 「宇宙にはあれほどたくさんの星があるのに、僕たちの夜はなぜこんなにも暗いのでしょうか」

 「僕」は出会いと問いを重ね、闇から光へ、孤独から愛へと向かうだろう。「僕たちの夜が暗い理由」を、私たちに明かしてくれるだろう。夢はいつか現実になるだろう。それは、いまなお暗い彼らとわれらの夜を照らすだろう。

 

(西日本新聞 21016年7月3日)

『サハリン残留』

     (玄武岩&パイチャゼ・スヴェトラナ 高文研)

 

 

 ときに人はみずからは動かずとも、不意に頭越しに動く国境線によって、望まぬ越境を生きることがある。勝手極まる国境線に翻弄されながら生き抜こうとする者たちの中から、やがて、国境線を踏み越え、国家の枠を横断する生のありかたを形作る者が現れる。それは、近代国民国家の落とし子であると同時に、近代国民国家をじわじわと揺さぶる存在でもある。本書が描き出しているのは、そんな人々の生きる姿。日本・韓国・ロシアにまたがる生活空間を、それぞれに選び取った形で生きる十の家族の物語である。

 そもそものことの起こりは、敗戦を境に植民地帝国日本が一気に収縮したこと。日本領樺太がロシア領サハリンへと変ずる過程で、多くの人々が日本の外へとはじきだされた。植民地もろとも放り出された朝鮮人はもちろんのこと、朝鮮人と結婚した日本人女性やその子たちも打ち捨てられた。国家はその手で辺境の不可視の領域に追いやった者こそを、真っ先に捨てたのだ。その歴史的・社会的・政治的背景については本書の解説に詳しい。

 国家とは本質的に民を守らない。弱き者声なき者ほど守られない。それを思い知った民が生き抜こうとすれば、生きるということ自体がおのずと越境にもなろう、国家への異議申し立てにもなろう。ひそやかにしたたかに生きる者たちの声、この一冊から溢れいずる。聴くべし。

 

(東京新聞 2016年6月5日)

『ひとりの記憶』(橋口譲二 文藝春秋)

 

 戦前に日本を出て、あるいは植民地で生まれて、何らかの理由で戦後日本に生きることを選ばなかった十人の人生が語られている。一言では到底くくりようのない、凄まじい人生を生き抜いてきた十人の共通点を強いてあげるなら、敗戦を境にキュッと縮んだ日本の外で忘れられていった人生、ということだろうか。

 彼らひとりひとりに印象深い顔があり、声がある。日本の外で生きることを選んだ理由がある。「頭がこんがらがっちゃってですね、希望が迷ってしまった」と語ったインドネシア在住の井上助良さんのような方もいれば、「八路軍のことは知らなかったけど、生きる道があるのなら入ろうと決めた」中国在住の中村京子さんのような方もいる。

 他の八名も、旧植民地の台湾、韓国、サイパン、ポナペ、占領地だったタイ、ミャンマー、移民地のカナダやキューバ、抑留されたロシアと、その生き抜いた場所も生き方もさまざまだ。また、「生き抜いた人たち」と題された章に写真と簡単なキャプションで紹介されている二十名の中には、無国籍で現地の言葉も日本語も話せない方も二名いる。もちろん、その沈黙のうちにも人生がある。

 橋口譲二は八十四名の「生き抜いた人たち」に出会い、その人生を聞き、そのうちの十名の人生の物語を自分の声で語り伝えるのに、二十年かかった。それだけの時間が必要だった。

 どうしたことか、戦争をはさんで人生が大きく変わってしまった人々の記憶を語ろうとすれば、その声は、知らず知らず、戦後日本で形作られてきた集団的記憶としての歴史や、人々の記憶を仕分けて分かりやすい物語に収める手ごろな言葉に取り込まれてゆくようなのだ。そもそも言葉というもの自体が、一種の刷り込みでもあるゆえに、集団的な記憶や幻想に馴染みやすいものでもある。

 その強力な磁場からいかに身を離すか? 

 思うに、そんな切実な問いに橋口は直面した。それは、誠実なる表現者ならば、誰もが根本的な問いとして抱え持つものだろう。個であること。孤独であること。突き抜けること。そこからしか生まれない表現がある。

 橋口にとって、『ひとりの記憶』を形にするまでの二十年とは、大きな何かに溶かし込まれない、類型化しようのない「ひとり」の「人間」の「記憶」を語り伝える「語り口」を模索する年月だった。

 大事なのは、出会った人々をただ記録の対象とするのではなく、すぐそこにいる生身のひとりの人間として寄り添うこと。イタコのように彼らの感情をわが身に降ろし、その息遣いや体温を感じること。

 それに気づくきっかけとなったのが、ある企画で自身が書いた子供たちのモノローグのテキストをみずから声に出して読んだこと、というのが実に興味深い。そのとき、声が、脳ではなく、身体の芯を揺さぶった。だから、ハッとして、「ひとりの記憶」に芯から触れるために、ひとりひとりのインタビューを文字に起こした原稿を、声に出して読んだのだという。

 声から声へ、生身から生身へ。受け取った人生の記憶を、ひとりの人間の物語として語り出す。そこでは、もはや、「語り口」などという方法論を超えた何かが起こっているように見える。橋口は、出会った人々の人生を語るというよりも、その人生を背負ったかのようでもある。「ひとりの記憶」をひとつひとつ積み重ね()ていく、気が遠くなるほどの果てしない営為のなかにこそ、人間の歴史というものが息づくようでもある。

 そこには愚直なひとりの表現者がいる。

 

(週刊読書人 2016年5月13日)

『奇妙な孤島の物語』

     (ユーディット・シャランスキー 河出書房新社)

 

 本書の原題を直訳すれば、『孤島の地図帳』。そこには、著者自身も「行ったことのない、生涯行くこともないだろう50の島」の地図がある。

 そもそも、「私は地図帳とともに大きくなった」と著者は言う。今は地図にはない東ドイツで、幼い頃から地図を見ては、ここではないどこかに思いを馳せてきたのだと。あるいは著者はこうも言う。「どれほど正確で客観的であろうとも、けっして現実をありのままに写したものではない。地図は、敢然たるひとつの解釈なのである」。歴史と同様、地図にもまた、イデオロギーや信仰や夢や妄想が溶かし込まれている。その意味で地図は物語であり、物語だからこそ真実を映し出しもする。

 さて、孤島の地図帳を開いてみれば、第1番目の島は「孤独」。ノルウェー語だ。ロシア語で「隠棲」ともいう。島の名前は関わった人間の数だけあるらしい。島の物語もまた、関わった人間の数だけ。21番目のラパ・イティ島は不思議な夢を通じてひとりの男を呼び寄せた。一方、50番目のピョートルⅠ世島は断崖絶壁、人を寄せつけない。島の大地の組成のほかには語ることもない。

 島といえば、たとえば沖縄の南の果ての波照間島のさらに南にあるというパイパティロマのような桃源郷を私は思わず探すのだが、それはどうやら人間のもっともお手軽な想像の産物のようで、本書の50の島々は桃源郷どころか、どれも不気味だったり、苛酷だったり、奇妙だったり。しかもそれは、人間やその社会の本質に関わる現象であるらしいのだ。

恐ろしいことに、「(島へと)遠路はるばるやってきた人間たちが、ここで化け物になる」。「現実世界のでたらめさは、広い陸地では相対化されて見えなくなるが、島ではそれがむきだしなる」。なるほど、この孤島の地図帳は、世界地図そのもの、人間の物語そのものであるということか。

 島めぐりの果てに今も心に残るは、運命を歌う大西洋のブラヴァ島の歌謡、そして太平洋のセント・ジョージ島の海牛のみじかい吐息。

 

(西日本新聞2016年5月1日)

 

 

『Oe 60年代の青春』(司修 白水社)

 

 

 思えば、60年代に青春を生きた者たちは、子供の頃に、敗戦を境に虚も実もくるくると入れ替わるような経験をした者であった。だが、それ以上に忘れてはならぬことがある。虚実がくるくる変わったようで、実のところ人も世もそう簡単に根底から変わりはしない、ということを司修は本書の冒頭でそっと語る。戦前も、戦後もずっと、この世界はみずみずしい感受性を持つ者にとっては「死人として生きる苦しみ」をもたらす「恐怖の時代」でありつづけたのだと。その認識から 『Oe 60年代の青春』は出発する。

 主な手がかりは、司修が同時代を生きてきた大江健三郎の二つの作品。『叫び声』と『河馬に噛まれる』。司は丹念に60年代を読み直し、たどりなおしてゆく。安保闘争。原発と核実験。広島、沖縄、ベトナム、朝鮮をめぐる政治と社会のさまざまな状況。あの頃、小松川事件も狭山事件も差別も憎しみも悲しみもあった。無惨な隘路に落ち込んだ連合赤軍もいた。そうして司修が60年代を「迷いに迷いながら歩いた」迷路の地図は、今も本質的には何も変わらぬ、それどころか3・11以降いっそう迷いを深める私たちの「恐怖の時代」を実に鮮やかに指し示すのだ。

 「恐怖の時代」とは、司修が大江健三郎の言葉を引いて語るところによれば、「人間がみな遅すぎる救助を待ちこがれている」時代であり、「誰かひとり遥かな救いをもとめて叫び声をあげる時、それを聞く者はみな、その叫びが自分自身の声でなかったかと、わが耳を疑う」時代だ。

 そう、この地図には、こんな叫びにも似た問いも描き込まれているようだ。いま、われらの耳に叫び声は聴こえているだろうか? もはや恐怖に対する感覚すら失ってはいないか? 

 司修は声を聴く。愚直に声をたどって描き出した時代の地図を、いま、共に「恐怖の時代」を生きる者たちにそっと差し出す。大江のこんな言葉を添えて。

 「(想像力とは)ここにあるかれ自身にとっては到達不可能なところへ、われとわが身を投げ出す力である」

                        (西日本新聞 2016年2月14日掲載)

 

『優しい鬼』

    (レアード・ハント著 柴田元幸訳 朝日新聞出版)

 

  エピソード一つ。南北戦争前のアメリカ。ある白人女の夫が死ぬ。二人の奴隷女が反乱を起こし、主従が入れ替わる。白人女は監禁虐待酷使され、ついには自分が何者なのか分からなくなる。

 なるほど、では、その白人女が語りはじめたらどんな声を発するのか、反乱を起こした奴隷女が語るならば、それはどんな声なのか、そして彼女たちを取り巻く人々が声を発するなら? こうして、ほんの一片のエピソードから、レアード・ハントは、響き合う「声」たちが織りなすとんでもない物語を紡ぎ出した。

 物語は、水を失くした男の声からはじまる。水なき者は闇の住人。この世には闇をみずからの内に揺らめく禍々しい炎で照らす者がいる。そんな恐ろしいことを呟く少女の声もやがてどこからか聴こえてくる。そう、これは命と水と闇と炎をめぐる物語でもある。

そこは楽園と呼ばれる地。ひとりの暴君がいる。その男に騙されて妻となるジニー、まだほんの少女の奴隷の姉妹ジニアとクリオミ―、まるで預言者のような黒人奴隷はアルコフィブラス。

 楽園には溢れる暴力。そこでは、支配と服従、愛と憎しみ、罪と罰、呪いと祈りが複雑にねじれて、重い足枷となって、絡みつく。なぜだろう、暴君が死んでもなお、楽園からは逃げられない。たとえどんなに遠く楽園を離れても、救いの神に出会っても、どんなに誰かに愛されても。「この世にもあの世にもいったんはじめてしまったら止められないものがある」のだ。「そういうのはひとの中に入って、うごきだしたら、もうとまらないのだ」。そうしてうごきだした物語は声から声へ、百年もの旅をする。

 ほら、耳を澄ましてごらん、あの人たちの声がありありと聴こえる。生も死も嘘も真も不条理も越えて声はやってくる。生きることの哀しみと痛みの迷路へと聴く者を誘い込む。私たちはその不穏な声を繰り返し聴かずにはおれないだろう。深く祈らずにはおれないだろう。なぜなら、その声が語りかけるのは、残酷で美しいこの世界と私たち自身の魂の物語なのだから。  

(西日本新聞 掲載)

『ここすぎて水の径』(石牟礼道子 弦書房)

 

 

 読みながら、ずっと、さらさらと水の流れる音を聴いていたような気がする。あるいは、それは耳元で囁きかけるかのような石牟礼さんの語りの声か。

 水音に導かれ、あれもこれも、あまりに当たり前のことばかりを想いだすのである。たとえば、ほら、人は水がなければ生きてはいけないということ。水は水辺だけにあるのではなく、緑豊かな山があってこそ、山の奥の幻の湖があってこそ、澄んだ清水も湧き出づるのだということ。地の底にも川は流れているのだということ。地の底の川は青いのだろうか? そんなことを一生懸命に語り合うような心持ちがあらばこその、地の底の川なのだということ。地上の川にかけられた石橋の、石のぬくもりを感じる力があってこそ、川も山も守られるのだということ。

石牟礼さんの語り伝えることには、水俣の水銀を封じ込めた海辺の埋め立て地の、地の底にも水は流れるのだそうだ、かつて渚だったその場所を海の潮が懐かしがって、そこに戻ろう、戻ろうとするのだそうだ、ぴたん、ぴたんと埋め立ての泥の下に音がするのだそうだ。

きっと、人の命も魂も、水のように潮のようにひたひたと、戻ろう、戻ろうとするのではなかろうか、私たち自身が忘れ果てて久しい、生きとし生けるものたちの渚のほうへと。

しかし、どうやって?

 目には見えぬ水脈をたどっていくんだよ。

 行間から呟くように石牟礼さんの声。

 石牟礼さんの語りの水脈は、水底に沈んだ村にもしんしんと浸みいってゆく。そこは三十余年前にダム建設のために水没した村で、それが日照りで水が消えたダム湖の底に泥まみれの姿を現したのだ。草木一本ない泥ばかりの腐臭漂う世界。そこに降り立つ石牟礼さんは、ダムの底に残っている魂を感じる、流れて忘れられてゆくばかりの大切なものを感じる、南無阿弥陀仏と思わず唱える、横たわる墓石たちを見る、赤んぼの墓碑に刻まれた一輪の蓮の花を見る、死者と語らう。死はもちろん人間だけのものではない。「草木虫魚万霊供養塔」と刻まれた墓石を見つける。すべての死せるものとの対話がはじまる。みずみずしくよみがえる世界がある。

 しかし、つくづくと思うのだ。本書には、一九九九三年春から二〇〇一年秋までの日々のエッセイ四七編が収められているのだが、暮らしの中からこぼれおちる水の滴のようなそのさりげない声、その飾りのない言葉には、恐ろしい予感がひたひたと……。そして、今、私たちは、二〇一一年を境にようやくのこと、近代の破綻をわがこととして感じはじめたようなのである。それは、予感を受け取りそこねつづけたわれらの、湖底の泥沼の世界のごとき「今」である。

そんな泥沼にあってもなお、目には見えぬものたちとの対話があり、交感があるならば、まだ取り返しはつくのかもしれない。「前世も未来も、人はみな魂の灯りを連ねて、ゆき来して来たのだ」と石牟礼さんが語る、その連なりの灯りの一つを大切にわが身に宿すならば、そこに希望もほのかに灯るのだろう。(週刊読書人 2015年11月27日号)


『会津物語』(赤坂憲雄+会津学研究会 朝日新聞出版)


 

 それは光の玉なのか、それとも幻なのか、ワーッという歓声と笑いと幸せの気配とともに廃校から駆けだしてきたのはザシキワラシだったのか……。

『会津物語』第99話。その物語を読む私の目に、東日本大震災の三か月後に見た不思議な光がよみがえる。そこは石巻の海辺の廃墟となった小学校で、周囲には津波に押し倒された先祖代々の墓地。もう陽は落ちていた。廃墟に向けてそっとカメラのシャッターを押した。その瞬間、ファインダーを覗きこむ私の目のほうへと、無数の光が凄まじい勢いでほとばしりでた。

あ、いるんだ、姿はなくとも彼らはここにいる……。

おのずと湧きおこる思い。それは生も死もあらゆる境も越えた命の実感とでも言おうか。近代の論理の綻びから漏れ出た、この世界の秘密を明かす光とでも言おうか。

そう、『会津物語』にもまた、大震災の後の亀裂だらけの空虚な近代に生きるわれらをあたたかく照らしだす光がある。

狐にばかされ、狸に騙され、蛇に魅入られ、天狗に諭され、お地蔵様に救われ、虫の知らせに身を震わせ、そんなさまざまな不思議の光が宿る話が百編。柳田國男の『遠野物語』にならって、会津の人々によって語られ、記録された、どれも本当の話だ。

 日本で狐が人をばかさなくなったのはほぼ半世紀前、高度経済成長の頃のことというが、想い起こせば、水俣から真っ先に姿を消したのも狐だった。狐がモノノケからただの獣になり、近代の論理や仕組みや数字に収まりのよいものがわれらの現実となり、世界は危ういほどに分かりやすくなって、その末に崩壊した原発が放つ破壊的な光に曝され……。

その兆しは、百年前に既に、失われゆく民俗の智慧、懐かしき過去の物語として編まれた『遠野物語』のうちにも孕まれていただろう。今、われらに必要なのは、近代を越えて、人と世界を語り直す遥かな智慧の光をたたえた物語だろう、懐かしい未来への出発の声だろう。そのささやかな一冊として私は『会津物語』を読んだ。


(西日本新聞 2015年11月1日)

 

『幼年画』(原民喜 サウダージブックス)

 

 あなたにもこんな経験はないだろうか。大切な人と共にいると、遥かな幼い日々がありありとよみがえってくる。幼い心に宿ったさまざまな想いを語りたくなる。気がつけば、初めて触れる世界に魂を震わせる幼子に戻っている。

 原民喜の連作短編集『幼年画』とは、そんな幼子自身による幼き日の物語。この世に生まれ落ちて、物心ついて、すべてが初めてのことばかりだったあの頃の、いのちの歓び、哀しみ、怒り、驚き、おののきに満ちたさまざまなはじまりの光景がそこにはある。柔らかな手のひらでそっと守ってあげたいようなガラス細工の心が静かに震えている。

 主人公の雄二は原民喜の分身。想う力の強い子だ。目を閉じて、何でもいいから見たいと思うもののことを考えれば、すぐその見たいものの形が浮んで来る。その想像力はあまりに感じやすい心と表裏一体のものでもある。「母よ、あなたの胎内に僕がゐたとき、あなたを駭かせたといふ近隣の火災が、あのときのおどろきが僕にはまだ残つている」と、民喜が一篇の詩に記したのは、『幼年画』を編んだのと同じ頃のこと。生きることに生涯慣れることのなかった民喜の、いつまでも初々しく痛々しい生の不安。それが『幼年画』の全編を貫き、読む者の胸を疼かせる。まるでマッチ売りの少女のように、淡く揺らめく橙の光の中に幼子の姿が浮かび上がる。

 初めての色鉛筆、初めての汽車、初めての学校、初めての死……。いつも泣かしていた小さな勢子が死んだとき、幼い雄二は思う。勢子はもう生きては居ないから、今は自分よりも強くなっていると。勢子の葬列、空を裂く稲妻、襲いくる真黒な雨の塊。雄二の耳に響く声ならぬ声。「憶えておけ!」。死は心に深く刻まれて……。

雄二は、いや民喜は、あれからずっと死の気配とともに生きたのだろう。それは、原爆の広島を描くあの名作「夏の花」を包み込む気配でもあろう。読むほどにしんしんと切なくて哀しくて愛しい幼子、原民喜、幼年の日々。

 

(西日本新聞 2015年10月4日

 はじまりとおわりとその間と 

 

 

ウリツカヤの『子供時代』を読んで眺めているうちに、(この本は挿画も素晴らしい!)、私の中にずっと住み着いている小さな女の子が久しぶりに姿を現した。

この子は石ころだらけのあの空き地にポツンとひとり立っている。それは六〇年代も初めの頃の日本で、どこもかしこも空き地だらけ。女の子の空き地の片隅には廃材やパチンコ台が投げ捨てられている。パチンコ台はがらくただけど、彼女には宝物。夢中になっていじくって遊ぶうちに、気がつけば茜色の夕暮れ、誰もいない。コツコツコツ、声もなく背中のほうから近づいてくる足音は人さらい? 足音を聞いている、聞き入っている、何かが道をやってくる、引き込まれている、心はもうどこかにさらわれている、はるかな世界に旅立っている……。

 子供時代、世界は驚きと不思議と歓びに満ちていた。言葉にできない恐怖や不安や淋しさでいっぱいだった。見えないものたちの気配に包まれていた。草とも石とも話ができた。いつか自分が大人になるなんて信じられなかった。旅ははじまったばかりだった。

 そんな子供時代、あなたも私も誰もが心のうちに宿している「生のはじまりのとき」が、一九四九年の貧しいモスクワの少年少女、ドゥーシャやワーリカやジーナやセリョージャやコーリカやゲーニャのいる情景のなかに溶け込んでいる、その懐かしさ、かけがえのなさ! 読むほどによみがえる、いつのまにか失くした大切なあんなこと、こんなこと……。

 「わたしは、十になった子供の頃から、やし酒のみだった」という告白からはじまる『やし酒飲み』は、もっと根源的、おそろしく荒唐無稽な神話的な時間の記憶の物語。

 主人公の「やし酒飲み」には、十の年から十五年間欠かさずやし酒を造って運んでくれた専属の「やし酒造り」の名人がいた。ところが、この名人がやしの木から落ちて死んでしまう。名人がいなければ、やし酒は飲めない。なにしろ、やし酒飲みは、朝から晩までやし酒ばかり、一日に二百二十五タルも飲むのだ。ならば、「死者の町」に行ってしまった名人を呼び戻すしかあるまい。というわけで、やし酒飲みは死者の町へと旅立つ。

ナイジェリアに生まれ育ったチュツオーラは、このやし酒飲みの旅を、まるで日本の神話の「古事記」のように、あるいはギリシャ神話の「オデュッセイア」のように、怒涛のように、滔々と語る。生者の町から死者の町へ、森から森へ、精霊たちや得体のしれない生物や神々に出会ったり、他の誰かに「わたしたちの死」を売ったり、「わたしたちの恐怖」を貸したり、呪術を使ってみたり、「ドラム」、「ソング」「ダンス」という三人の善良な生物に「わたしたちの苦しみを取り除いて」もらったり、そうして、はたして、「やし酒飲み」は「やし酒造り」に会えるのか? 

 ただこれだけは伝えておこう。はじまりのとき、旅人は何かを求めて未知の旅路に足を踏み出して、やがて旅の終わりに、追い求めていた何かとは違うものを手にすることになる。それは新しいはじまりをもたらす大切な何かだろう。神話とは、そうやってめぐりめぐる生と死を、はじまりとおわりを、歌い語るものだから。

 そして、はじまりとおわりの間に生きるわれらの日常の中の異界、と言えば、内田百閒、『冥途』。なぜだか胸が騒ぐ、わけもなく恐ろしい、行間から漂いだす気配に心がしびれる、いったい夢なのかうつつなのか、そのどちらでもあるような世界が、めくるページの行間からひたひたと押し寄せてくる。理屈好きな人々が軽んじる理屈ではない何か、見えないものは存在しないとする論理的思考が切り捨てた何か、この世に生まれ落ちたばかりの子供たちにはきっと見えている何かが、百閒の世界には息づいている。

 「高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解らない、静かに、冷たく、夜の中を走っている」。

 短編「冥途」はこの一文ではじまる。物語はしんしんと私たちの心の闇にしみとおってゆく。  (「婦人之友」2015年10月号)

 

『唄めぐり』 (石田千 新潮社)

 

一か月かけて、一曲一曲、この『唄めぐり』と題された唄の旅をたどっていった。唄は読むものではなく、感じるもの、出あうもの、ときには唄はその底に潜む声にはならぬ記憶の渦へと心をさらってゆくものだから、どんな唄であってもおろそかにはできぬ。

さて、石田千の唄の旅は、北は秋田の「秋田米とぎ唄」からはじまって、香川はこんぴら船々シュラシュシュシュ、沖の鴎にヨ潮時問えばわたしゃ立つ鳥サ浪に聞けダンチョネと歌う神奈川三崎港、またみゃおみゃおと猫が鳴けば沖縄は南の果ての八重山の島々、こきりこの竹は七寸五分じゃと言うは富山・五箇山だね、酒を酌み交わし、湯につかり、唄は荷物にならないおみやげですとなめらかに旅の出会いを紡いで、佐渡は居よいか住みよいか、草津よいとこ一度はおいで、河内の男はヨンホ―ホイイホイちょいと出ました私はお聞きのとおりの悪声ながらも元気いっぱい歌いましょうと音頭を取って、さあ福岡に飛べば、酒はのめのめ黒田武士、ハァーーー、踊り踊るならチョイト東京音頭ヨイヨイと、ぐるり日本全国二十五か所「お国めぐり」の旅の最後は、福島「あまちゃん音頭」「新生相馬盆唄」。

民謡とはいえ、一色ではない。明治以前から歌い継がれてきた山や海や島の労働の唄もあれば、遊び唄もある。祭りの時に神に捧げる祈りの唄もある。明治以降に村おこし町おこしのためのご当地ソングとして作られた近代的な新民謡の類もある。さらには311を越えて歌って踊る新しい唄もある。

めぐる唄にいろんなことを私も想い起こした。

歌う者が唄の主。

それは唄の旅人石田千が石垣島の唄者に教えられた言葉で、かつて私自身もまた、石垣島のなにげない民家で歌い踊るおじいおばあのお座敷や、町なかのさびれた居酒屋の片隅でその日出会った二人が、八重山情歌「とぅばらーま」の節に即興で言葉をのせて突然の恋人のように想いを交わした唄の「場」で、つくづくと思い知らされたことでもあった。

 歌い殺せ。

 これは石田千が宮崎の刈干切り唄をめぐって『鬼降る森』(高山文彦 幻戯書房)から引いてきた言葉。そうだ、歌い殺すのだ、あちらの山とこちらの山とで、薪を拾いながら女たちが激しい歌合戦を繰り広げて、そうして入山禁止の山で一日を終えて里へと下りるときに山守りに出くわしたなら、みんなで一斉にウワーッと叫んで、おっぱいを出して、山守りの目をくらまして脱兎のごとく逃げたという、これも石垣島で聞いた私の唄の旅の思い出。そうだ、歌うこと、生きることは、命がけなんだよ……。

本書にも登場する「こきりこ節」の名手岩崎嘉平さんをかつて私も訪ねている。そのとき聞いた話をつくづくと思い出した。それは七十年安保の時のこと、代々木公園に集まった五万人の中に若き嘉平さんもいた。「臨場感がすごかった、俺らの力で世の中が変わると本気で思った、でも完全に敗北した」。歌うことも生きることも臨場感があってこそのものだけど、「臨場感だけじゃ人はよう生きてはいかれん」、なのに人間ってやつは臨場感にのまれて終わってしまうのだと苦い言葉を嘉平さんは吐いた。

いま、民謡とくくられる唄の多くは保存会で守られて、コンクールで歌われて、観光の役にも立って……。そんな風景も本書からは見えてくる。

これは、人と風土と命の交感の中で育まれてきた唄たちの最後の風景なのか、それともこれから新たな唄が孕まれるはじまりの光景なのか、そんなことを想いながら本書を閉じた。


(「週刊読書人」2015年7月3日)

われらの夜の語り部たち

 

書くこと、読むこと、生きることに思いをめぐらすときに、手に取る本たちがある。たとえば、ボルヘスの『七つの夜』。一九七七年に七七歳の盲目のボルヘスが七夜にわたって語った七つの話。それはこの世の秘密をそっと耳打ちするような話。

「盲目について」と題された第七夜、若くして失明したボルヘスが言うことには、「盲目とは人の生活様式のひとつ」なのであり、「芸術家の仕事にとって、盲目はまったくの不幸」というわけではなく、むしろ「神の賜物」なのだと。実際、ボルヘスは闇からどれだけの詩を受け取り、闇からの言葉でどれだけこの世界を照らしたことか。「詩について」と題された第五夜、ボルヘスはこうも言う。「物事はあるがままです。あるがままだけれど、隠れている」。そして、詩人とはそれらを見つけ出す者なのだと。

なにより、詩を歌い、物語るのは、闇に生きる夜の人々なのである。これは「千一夜物語」と題された第三夜で語られること。実際、アラビアの夜の語り部たちは千一夜物語を語り、しかも千一夜とは永遠ということだから、物語は果てしない。この世に歌い語る者がいるかぎり、ひそかな魂たちは闇から呼び出され、息を吹き込まれ、私たちのもとへとやってくる。つまりはそれが詩を読み、本を読むということ。ひそかな魂たちがこの世にあることを知る者の生は、この世のさまざまな喜び哀しみ痛み慈しみと響きあい、どんなに深く豊かになることだろうか。

『朝鮮と日本に生きる ――済州島から猪飼野へ』。その語り手、詩人金時鐘もまた、夜の語り部である。金時鐘は、ひそかに闇をくぐって、暗い海を越えて、済州島から日本の大阪・猪飼野へと渡ってきた。あとにした済州島は、日本の植民地支配から解放されてまだ間もない頃に、朝鮮半島をめぐる現代史の闇の中へとずぶずぶと沈んでいった悲劇の島。その悲劇は「四・三事件」と呼ばれる。一九四八年四月日、朝鮮半島の南北分断固定化につながる南側だけの単独選挙と政権樹立に断固反対する島の青年たちが、南側の権力者たちの手段を選ばぬ弾圧に対して怒りの武装蜂起するのである。この蜂起をきっかけに、済州島はアカの島とされて、米国の支持を取りつけた韓国政府によって凄惨な島民虐殺が繰り広げられる。

植民地支配、南北分断、東西冷戦、日米安保にも深く関わるこの事件の底に広がる、人間世界の深く濁った闇の中をもがいてさまよって生き抜いてきた者として、恥じ入りつつ、悲しみつつ、金時鐘はひそやかな声で、とつとつと、闇の記憶を語りだす。闇を言葉で語りつくすことなど到底できないから、それでも言葉にはならぬ魂の声が確かにそこにあるから、生きてゆくかぎり言葉を探して語りつづけるほかはない。詩人とはそのようにしか生きることのできない者なのである。しかも、この詩人は、日本語に復讐するように、日本語を破壊するようにして、ごつごつと、新たな日本語の表現の地平を開く者でもある。なぜならば、かつて、植民地朝鮮の立派な少国民として、両親の言葉であった朝鮮語を軽蔑し、日本語とその抒情を血肉として育ったその苦い記憶が、詩人の日本語の芯に食い込んで、うずきつづけているから。

闇の記憶、うずく言葉、夜の声。そう、夜の声には、ときには笑い声も入り混じる。『無意味の祝祭』。ほら、そこに響きわたるクンデラの笑い声を聞いてごらん。からからと破壊的な笑い声だ。時にはなんだか爽快すぎて残酷ですらある。『冗談』『存在の耐えられない軽さ』『笑いと忘却の書』等々、これまでのクンデラ作品のタイトルを並べてみても一目瞭然、いつもクンデラは人生の無意味を笑おうとしてきた。シニカルに、にやにやと、けらけらと。人生は無意味だ、だからこそ愛すべきなのだ。人間は偉大? いや、それは美しい錯覚だ。無意味さを受け入れてこそ、人生は意味深くなる、かもね、と、呵呵大笑。これもまた、味わい深い夜の語り部の声。(『婦人之友』2015年7月号)


同じことを三度云わされたら現実になる



 すみからすみまで真っ白な海図を手に、船に乗って、スナーク狩りに行くのです。メンバーは船長に肉屋に銀行家にパン屋に弁護士にビーバーに帽子屋にブローカーにビリヤード・マーカー、そして名無しくん。しかも、名無しくんが名前をなくしたのは出航のときで、すべての荷物いっしょに自分の名前を港に忘れてきた。名無しくんは名前がないから、どんな名前で呼ばれても返事をする。(つまり名無しくんは無数の名前を持っていて、そのなかにあなたの名前だってあるわけだ)。しかし、スナークって、いったいナニ?  『スナーク狩り』。このお話を書いたのは、あの『不思議の国のアリス』の作者のルイス・キャロルだから、一筋縄ではいかない。正体不明のスナークは、「細心の注意をもって指貫で探すのがいい、ぴかぴかのフォークと希望で狩りたてて鉄道株で脅かして、笑みとシャボンで金縛るべし」。でも、実に厄介なことに、スナークだと思って捕まえたら、それがプージャムだったりもして、プージャムに遭遇してしまった者は瞬時に消えてしまう。(だから、プージャムを見た者はこの世にいない)。ああ、恐ろしい。なのに、彼らはスナーク狩りに行く。なのに、私もあなたもスナーク狩りに行く。(そこのあなた、スナーク狩りなんて他人事の作り話だと思っているでしょう? それは大間違いだ、まったくひどい物忘れだ、まるで名無しくんだ。あなた自身も、この世に生まれ落ちた瞬間に、真っ白な海図を持って、スナーク狩りの旅に出たというのにね)。

 スナーク狩りで唯一確かなこと、生きてゆくのに大切な教訓を、ここでいまいちどあなたに伝えておきましょう。「同じことを三度云ったら現実になる」。

 しかし、私たちは、誰かにつられて、みんなと一緒に、合唱するように、流されるように、簡単に同じことを三度くらいは云わされてしまうことはよくありますね。人とは違う、自分の心の底からの願いを、自分の声で、合唱にかき消されずに三度云うのは思いのほか難しい。そして知らず知らず流されて三度云わされて招き寄せた現実は、たいていは恐ろしい現実。知らず知らず人は大きな声に引きずられていく。ひそかな危うい声も、それが世に漂いだした声である限りは、それを無防備に耳にした者をあらぬほうへと押し流す。そのことを、確かな耳を持つ人ほど、よくわかっているものなのです。古井由吉の『聖耳』には、そんな耳の物語が収められている。その昔、京の夜に、ひとりの女が、燃えあがる炎のような欲望をひた隠して、偽りの悲嘆の叫び声をあげたとき、その密かな欲望を聞き取った帝がいたといいます。帝は、御所の誰の耳にも聞こえてはいなかったその声の主を探させた。帝の耳は、京のはずれで放たれた女の声に潜む欲望が、夜の闇を伝って京の人々の心にひたひた染み入り、京の都が欲望の炎に包まれることまでをも聞き取っていたかのようでもあったといいます。そんな逸話を書き記す古井由吉は「自分がどこにいるか感じ取れていなくては、音も声も聞き取れない」と、これまた恐ろしいことを書き記す。それどころか、自分がどこにいるか感じ取れていない耳は、自分のなかにどんな声や音が忍び込んできているのかも分からぬ耳なのだと、『聖耳』はそっと私に耳打ちする。恐ろしいことです。でも、耳を閉じるわけにはいきません。

 そして、『わたしは灯台守』。確かに開かれた耳は、誰にもその存在を知られていない孤独な灯台守たちの声だって聴くことができるかもしれません。灯台守は「そんなことをして何になる」と呟きながら、たったひとり、闇に向かって光を放つ。たったひとり、それは違うと世界に向けて声を放つ。そんな孤独の声が、実はこの世界の崩壊を押しとどめているらしいのです。その声を聞く耳を、私は持っているか? あなたは持っている? 灯台守の恐ろしい問い。 (「婦人之友」2015年4月号)

 

『新訳 説経節』(伊藤比呂美 平凡社)

 

 これは旅する「語り」の物語。この旅は、いつ始まったんだか、いつ終わるんだか、行方知れずの果てない「声」の旅でもあるし、幾多の語り手たちの「遊行」の険しい道のりでもあるし、そんな語り手の旅の途上で行き合ってしまった聞き手の「人生」でもある。そして、聞き手の中には、幸か不幸か、声に憑かれてみずからも「語り」の旅の果てない道行きに足を深く踏み入れてしまう者もある、詩人伊藤比呂美のようにね。

 この「語り」の時空には、好き放題のあげくに殺されて地獄に落ちて閻魔のはからいで餓鬼のような姿でよみがえる小栗を気丈に救う照手姫がいて、継母の呪いに病み崩れて世をはかなむしんとく丸をぐいと立ち上がらせる乙姫がいて、弱気の厨子王の背を命がけで押して山椒太夫のもとから逃がす安寿がいて、私は照手だ私は乙姫だ私は安寿だとひそかに声をあげながら、小栗のようなしんとく丸のような厨子王のような男どもを追いかけたり背負ったり執着したりしながら、えいさらえいと生きている詩人がいて、やがて詩人は「苦の多い人生を送ってきました」と説経節につられて声をあげてつるつる語りはじめて……

 しかし、説経節の世界は理不尽です。祈りも呪いも等しく聞き届ける神も理不尽、いとも簡単に人をかどわかしたり責め殺したり病んだり取り返しがつかなくなったり、人の世もまことに理不尽。そして、その理不尽に耐えて、理不尽を受け容れて、そうして理不尽を越えて道行く者たちによって語りつがれてきたのが説経節なのだとも言えましょう。

 それだけに、地名がつるつるつらなり、心を先へ先へと曳いてゆく説経節の「道行」の場面ほどおもしろい部分はないという伊藤比呂美の言葉にはまったく同感。しかも、このおもしろさはずきずきと重い。詩人の言うとおりだ、苦の多い人生だ、だからこそ立ち止まらずに、一歩、一歩、とにかく歩くのだ、歯を食いしばって生きるのだ。新訳説経節。これは生きてゆく私たちの物語。


(西日本新聞社 2015年3月15日)

世界は言葉を待っている 

 

 

 人はなぜに物語を読み、物語を書くのだろうか? その秘密をあなたは知っているだろうか? 

 たとえば、『文盲』のアゴタ・クリストフの場合。彼女は一九五六年、二十一歳で、ハンガリー動乱を逃れて闇をくぐって国境を越え、スイスにたどりついた。人間らしく生きることを夢見た末の逃亡。だがそれは、気がついてみれば、祖国に残してきたすべてを一夜の夢のように失うことだった。逃亡の地スイスの言葉は、アゴタにとっては未知のフランス語。水のように空気のように身にしみとおっていた母語ハンガリー語はそこでは何の役にも立たない。アゴタは難民となると同時に文盲となった。そこには独裁者はいない、難民は憐れまれ、気遣われ、仕事も与えられる、でも思いを伝える言葉がない、つながる誰もいない、そのことに誰も気づかない、そこは人間の砂漠、とてつもない孤独。

『文盲』にアゴタが記すところによれば、彼女は逃亡前から書く人だった。そして文盲の難民となっても書く人でありつづけた。よちよちとたどたどしくフランス語で書きはじめた。なぜ? 人間は「世界」を必要とするから。ただ食って寝て息をするだけじゃだめだから。誰かよその人の世界の片隅に置いてもらったり憐れまれたりするだけじゃ生きられないから。

世界中で読まれたアゴタの『悪童日記』が世に出たのは、実に祖国を離れて三十年後のことだった。そしてそのときもなおアゴタはみずからを文盲と呼んだ。なるほど、「世界」を求めて書く者は、すべからく「文盲」なのかもしれない。今ここにはない「世界」を創りだそうと、今ここにはない言葉を闇の中で手探りする者という意味において。

おそらく、石牟礼道子もまたそのような「文盲」のひとり。水俣を見つめて、近代社会を超えて、響き合う魂たちの世界を描きつづけてきた、その原風景が『あやとりの記』にはある。三つ子のみっちんと、みっちんが心惹かれるあの人たちが織りなす夢のような世界。

心を病んで「神経さま」と呼ばれた盲目の祖母のおもかさま、一本足の仙造やん、村のはずれの火葬場の岩殿(いわどん)、生きづらいほどに心やさしい大男のヒロム兄やん、いつも子犬を懐に入れて彷徨い歩く犬の子せっちゃん、海辺の往還道である「大廻りの塘」をねぐらにする勧進さん、狐のおぎん女、ぼんぼんしゃら殿、そして姿の見えぬ小さな神々……。

人のゆくのは かなしやな

鳥のゆくのは かなしやな

雲の茜の かなしやな

物心つくかつかぬか、ほんの三つですでにこの世のはずれに生きる者たちと心を通わせ、目には見えぬものたちの魂に触れ、その声を聴きとっていた石牟礼道子がそこにいる。見えるもの聞こえるものがすべての近代世界に身を置きながらも、自分の魂はそこにはないことを痛いほどに感じ取っていた石牟礼道子が、それでも生きようとするならば、そう、書くしかない。見えない聴こえない大切なものたちにまで響きわたる言葉を、手探りして、つかみとって、おのれの魂が求めている「世界」をみずからの言葉で立ち上げるほかないのだ。だから生きているかぎり、八十七歳になる今も、石牟礼道子は三つ子のときの心持のまま生きて書きつづける。

「私が生まれる前から宇宙はあり、私が死んだ後も時間は流れつづける」。ということを呆れるほどに一生懸命に考えつづけているのは小説家保坂和志だ。だから、『小説修業』において保坂は、敬愛する小説家小島信夫を相手に、<個人を超えた何か>が立ち現れるようなシステムのようなものとしての小説を語る。すでに今ここにある世界観や人間観でいっぱいいっぱいの一回使い切りのような小説ではなく、新しい世界観や人間観に耐えうる小説を思い描く。それを言葉にしようと右往左往ぐるぐるしながら紡いでいく思考と対話のなんと切実で面白いことか!

世界はつねに新しい言葉を待っている。人はつねに新しい物語をめざす。その果てしない営為を担うのは、読んで書いて生きてゆく人間のほかにはないのだ


(「婦人之友」2014年1月号)

 

『死者のざわめき』  (磯前順一著 河出書房新社)

               2015年7月 西日本新聞掲載

 

『死者のざわめき』とは、いかにも不穏な名付けではないか。語られていることはなお不穏。そこには、生きてゆくわれらの命が見失ってはならぬ「ざわめき」がある。近代という時代の行き止まりの今だからこそ取り戻すべき「不穏」の心がある。

思うに、日本の近代とは、こんな号令で始まったのかもしれない。

「ざわめきを封じ込めよ!」

 そもそも、ざわめきとは何なのか? それは、たとえば、3・11のあのときの声にも言葉にもならない心の軋み。揺さぶられて崩れてあらわになったあの裂け目から噴き出してきたもの。流されて洗われてすべてを失くした空白の場所に蠢くもの。「絆」とか「日本は強い国」とか「花」とか、さまざまな言葉や神話や歌に封じ込められ、忘れさせられようとしているもの。それは、3・11以前からずっと、繰り返し封じ込まれて、繰り返し忘却の縁に沈められてきたもの。おわりとはじまりが交差する生と死のあわいから湧きいずるもの。

ざわめきはひそかに語りかける。

(実はね、東北は今も昔も日本の内国植民地だったのだよ。東北だけじゃない、この国の誰もがまつろわぬ者たちの末裔なのだ。見てごらん、何かにすがりたい不安な呟きは、容易に「封じ込める物語」の神への祈りにすりかえられる。生者も死者も誰もが、知らず知らず「封じ込める物語」に取り込まれる。さあ、思い出せ、解き放て、結び直せ……)。

ざわめきは厳しく問いかける。

バラバラの生と死をいかに結び直すのか? この世を生きなおすための新たな物語をいかに語りだすのか?

 被災地をめぐり、鎮魂の場を訪ね、その生と死の風景、そのざわめきに真摯に向き合いつづけてきた著者は言う。「鎮魂とは、生者と死者の世界を区別したうえで、そのふたつの世界の関係を結び直す行為」なのだと。そう、著者の言うとおりだ。新たな物語は鎮魂からはじまる。ざわめきをざわめきのままに生と死を結び直さんとする覚悟とともに。誠実で不穏な表現者たちによって。

 

『イザベルに ある曼荼羅』

(アントニオ・タブッキ著 和田忠彦訳 河出書房新社)

              西日本新聞 2015年6月掲載 

 

 

物語のはじまりは、赤い満月の夜。

男がひとり、おおいぬ座のシリウスのあたりからポルトガルのリスボンへとやってくる。名はタデウシュ。作家だ。男は女を探している。女の名はイザベル。イザベルはサラザールのファシズム体制下のポルトガルで公私ともに厄介なことになり、姿を消した。自死したのだという。いや、どこかに身を潜めたのだともいう。

その真相を知るのはイザベル本人だけ。男はイザベルを探す旅に出る。イザベルと深く関わったおのれの人生の、イザベルとともに失われたその空白、「無」の領域へと行きつかないかぎりは、生きていても生ききれない、死んでいても死にきれない。その魂は生と死のあわいをさまよいつづけるようなのだ。気がつけば、さまよえる魂たちとともに物語は生まれては消え、消えては生まれ、果てしないようなのだ。

イザベルを追う男は、イザベルと縁のある人々のさまざまな人生を横切ってゆく。イザベルの女友達、イザベルの乳母。サックス吹き、写真家、神父、亡霊のような詩人、宇宙物理学者、アルプス山中の聖人、裸足のヴァイオリン弾き……。それぞれの声が織りなす物語は、イザベルという「無」を中心とする同心円を描き、その円をたどって歩いて旅する男の足取りは曼荼羅を描いていく。

男が言う。「死とは曲がり角なのです、死ぬことはみえなくなるだけのことなのです」。また男が言う。「肝腎なのは探究すること、みつかるかみつからないかはどちらでもよいのです」。アルプスの聖人が言う。「曼荼羅というものは、解釈を待っている」。そして赤い月、そしてイザベル、そしてヴァイオリン弾きの奏でるベートーヴェン「告別、不在、再会」の調べ……。

そう、赤い満月の夜は、どうか気をつけて。「無」から物語がやってくるから。「無」は誰のうちにも潜んでいるものだから。「無」の声に触れたなら、あなたの魂もまた彷徨い、惑い、震えるから。

その彷徨い、惑い、震えこそが、文学の歓び。

『霧の犬』 (辺見庸著  出版社・鉄筆) 

                      2015年1月 西日本新聞掲載

 

 

 三つの短編と書き下ろし長編「霧の犬」が収められている。「野の果てか海の果てを、ふたりして裸でゆらゆら流れていた」(「カラスアゲハ」)とはじまる。「かれはふかい水のなかにいる心地がした」(「アプザイレン」)とはじまる。「霧であった」(「霧の犬」)とはじまる。世界が朦朧としている。実のところ、この幻燈のような一冊の本が映し出す世界は、はじまりもおわりもさだかではない、生と死の境も溶けてなくなっているようである。「死者だって夜にはどこかへと泳いでいこうとするものだ」(「カラスアゲハ)」という。いつから? 3・11のあの日から? いや、そうではないようだ。3・11の前からずっとそうだったことに気づいていなかっただけのことに、ようやく気づいたようだ。そこでは歌が流れている。それは絆を歌う合唱からは遠い孤独の歌のようである。見失われた言葉はくだけて、ゆがんで、ずれて、とどこおる。声は発するものではなく、のみこむもののようになっている。「私」は私であると同時に、「ん」であり「犬Z」であり「ゐ」であり「て」でもある(「霧の犬」)。生と死のあわいで男と女は交わる、交わるとはそもそも生と死のあわいの営みなのだろう、上になったり下になったり、足を洗い肝を洗いあったり、男と女は生きているのか死んでいるのか、「なんだかこれからえらいことがおきるよな、いやいや、なんもおきんよな、もうおわってしもたよな」(「まんげつ」)、そんな揺らめく世界を、「霧はながれた。ふしだらにながれた」(「霧の犬」)。幻であると同時に現実でもあることの空恐ろしさがながれていく、命がながされていく。

 そう、不穏で空恐ろしい何事かを辺見庸は確かに語っている。3・11後の世界に向けて、ありきたりの言葉では言いようのないアノコト、みなが見ぬふり知らぬふりをしているソノコトを。ながれながら、ながれに抗して、命がけで、ゆらゆらと、がくがくと言葉を探して刻んでいるのだ。

 『祖さまの草の邑』(石牟礼道子著 思潮社)

         『現代詩手帖』2014年10月号

 

水俣の海辺の村のすすきが原の大廻りの塘。たとえば、そこにはおしゃらがいた。おしゃらは古い説経の一節を遠い声で口ずさむ。「恋しくばたずねてきてみよ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉」。おしゃらはしゅり神山のお使い狐で、昔々命を助けられた恩返しに安倍の保名の妻となり陰陽師安倍晴明の母となった信太の森のあの葛の葉の末裔でもあるという。おそらくそこは人と神を結ぶ狐の眷族の最後の棲み処だった。(1960年代を最後に人が狐に化かされることはなくなったという話を私は民俗学の徒から聞いた)。

チッソの会社の裏のたんぼ。そこには蟇左衛門がいた。うをおーん、うをおーん、丑三つ時に天に向かって声をあげる蝦蟇ガエル。「花の蕾も 夜鳴く虫も 大昔からあの声に育てられたのだ」。会社のサイレンの音にぶった切られた魂を「蟇左衛門は治療してまわるのだ」。この蟇左衛門は狐たちの大将で、田の神の使いなのだという。そこではケモノも虫も魚も貝も木も草も南瓜さえも喜怒哀楽豊かに息づく魂を持っていて、その息遣いを交わしあっていた。(その昔そこでは人間もまた虫ども草ども神々と交わしあう魂を持っていたのだと石牟礼さんから聞いたことがある)。

たとえば、ほら、大廻りの塘のはじまりのところの八幡さまの参道の松並木の渚では、かつて真冬の夜の闇の中、癩病さんたちが八百よろずの神、川の神、渚の小さき神々の名を唱えながら水で命を洗い浄め、よみがえりの祈りを捧げて、その声を聞く海辺の村の人々は、癩病さんたちの祈りにじっと耳傾ける神々の気配を感じて厳粛な心持ちで夜を過ごしたのだと、これも以前に石牟礼さんから聞いた話。

すすき茂れる大廻りの塘、精霊どもの豊葦原の渚、水俣の海と空と陸の交わるところ、生と死の行き交うところ、こちらでもあって、あちらでもある、そこが「祖さまの草の邑」、夢の名残のような言葉で語りだされる世界。いや、でも、それは、石牟礼さんにとっては「夢」の名残どころか、「うつつ」そのもの、今ではすっかり滅んで失われた「うつつ」なのである。

そして、哀しいかな、私は石牟礼さんの語るその世界その言葉を、夢の名残のような、と言うほかない。(私は一九六一年生まれ。高度経済成長の真っ只中の都市の子どもだ)。「うつつ」を知らず、魂を交わしあうすべも知らない私を石牟礼さんの言葉は照らしだすから、私は戸惑い、恐れ、羨み、恥じ入る。思うに、この近代の行き止まりの華やかな滅びの時代に生まれ落ちた多くの者にとって、そのようなものとして石牟礼さんの詩はあり、言葉はあるのではなかろうか。私はけっして手放しで石牟礼道子の言葉を受け取ることができない。それでも受け取りたいのが石牟礼道子の言葉なのであって、なぜならば私はこのまま滅びに身をまかせたくはないのだ。

想い起こせば、詩人の伊藤比呂美と連れ立って熊本市内の寺に初めて石牟礼さんを訪ねたのは、一九八〇年代も末の頃だったろうか。当時は伊藤さんも私も熊本市民で、バスに乗って、大きな花束を持って、少女のような気持ちで石牟礼さんに会いに行った。何を話したのかはよく覚えていない。ただ、滅びろ滅びろという石牟礼さんの声があの日から私の中でこだまする。滅びろ滅びろ人間は滅びろ、それが世のため、人間以外のすべての命のため、滅びろ滅びろ……。

 ああ、立つ瀬がないな、私は滅びの世界しか知らなくて、滅びをはじまりの場とするしかないというのに、滅びを生きて生きぬいてゆく言葉を紡いでいくしかないというのに……。

 あれからそう絶望的に呟きつづけて、やがて三・一一がやってきて、そのあとに生まれでた石牟礼さの詩をずきずきする心で私はいまこうして読んでいる。「ええ わかっております すべてのえにしや絆よ さようなら」と石牟礼さんは言い放つ。「まだ名づけられない創世記」を語ってみせる。そして「花を奉る」。そう、花を奉るのだ。大仰な何ごとかではない、ちっぽけな花。

滅びの底、この世の縁と無縁のその境にあって、「灯らんとして消ゆる言の葉といえども いずれ冥途の風の中にて おのおのひとりゆくときの花あかり」。そのほのかな光を手放すことなく、「ただ滅亡の世せまるを待つのみか ここにおいて われらなお 地上にひらく 一輪の花の力を念じて合掌す」。

 一輪の花、おのおのがおのおのの命を生きてゆくその道に咲く。私にも私の道に咲く一輪の花を私は想う。命を照らす言葉、生きかわり死にかわり連なりゆく命から生まれいずる言葉、命への祈りの言葉、祈りの花、おのおのの花、生けるもの死せるものおのおのが捧げて捧げられる花々を私は想う。 

まだ滅びない、またはじまる、滅びとはじまりの境の時空に、花は咲く、花は笑う。咲くは笑うなのだと古語にいう。咲け、笑え、祈れ、ものがたれ、滅びを、ふたたびのはじまりを、くりかえし、くりかえし。そんな声を、ついに、『祖さまの草の邑』から私は聴いている。

『津軽 いのちの唄』 (坂口昌明著 ぷねうま舎)

          2014年9月週刊読書人掲載

 

 サイギサイギ ドッコイサイギ オヤマハサハチダイ コンゴウドウジャ イツニナノハイ ナムキミョウチョウライ。津軽・お岩木様への巡礼行、お山参詣(山カケ)の唱文の力強い声が、忘れられた世界への扉を開く呪文のように、この一冊の本から立ちのぼってくる。「懺悔懺悔六根懺悔お山は八大金剛童子一々礼拝南無帰命頂礼」。唱文を漢字で書けばこういうことだが、年に一度、旧暦8月1日に神妙かつ高揚した心で山をめざす津軽の巡礼者たちがそれを深く承知しているわけでもなかろう。むしろ、分からなさのなかにこの世の秘密、命をめぐる秘儀が溶け込んでいることを感じ取り、それを大切に守って生きる者たちの世界がそこにあるのだろう。津軽の人々がこの日にこそと、闇をくぐって山を登る、それは一度死んでまた生まれること、山の力、野性の力、生命の力、唄の力、宇宙の力、都市の囲いに生き馴染んだ人間が忘れて久しい見えない力に満たされること。だから、一九七〇年代東京で生きることに飢えていた坂口昌明は山をめざした。飼い馴らされることなく荒々しく息づく津軽のいのちの唄をめざした。津軽最後の座頭、盲目の旅芸人、東京で功成り名を遂げ牙を抜かれる前の高橋竹山の津軽三味線に心を震わせた。

「津軽よ、わが津軽よ、おまえの胸のここに、初めてさまよい着いた異邦人である私は、いまはじめてのように自らの燃える血と出会い和解し、おまえのうちにひたされてともにやすらぐ」「師(高橋竹山)は誰のために三味線をしてかく歌わしめるのか。われわれのためにか。違う。自らのためにか。違う。では、おまえ、津軽のためにか。それも、違う。そのすべてであって、しかも名前のないもの、いま悠久の中のこの一瞬、無言のうちに注意をこめて世界の至るところに開かれている数知れない耳たちのためにだ」

 ここからはじまる。身も心も熱をもって動きだす。ノスタルジーではない、失ってはならないいのちの唄のほうへ、風土のなかへ。それはたとえば、民俗学の文献・知見も広く渉猟しつつ津軽の代表的民謡でありながら出自不明の弥三郎節の謎にぐいぐいと迫っていくその足取りに、あるいは、お山参詣の宇宙の奥深く入り込んでゆくたゆまぬ語りへと結実してゆくのだ。

 もっと内へもっと奥へと分け入る探究の情熱があり、広く大きく開かれた視野がある。さすらう民が津軽にもたらしたクレオールの響きを確かに聞きとる繊細な感受性もある。思えば、私自身もまた越後の瞽女唄に引き寄せられ、説経節山椒太夫から越後へ佐渡へと漂い出たさまざまな安寿の物語の行方を追ううちに、イタコの語るお岩木様の神・彷徨うあんじゅが姫に出会い、引き込まれるようにして「いのちの唄」の息づく地・坂口昌明の語る津軽へと行きついていたのである。それは坂口の『安寿 お岩木様一代記奇譚』から『津軽 いのちの唄』へと読みついでいく旅であり、津軽の民俗の世界へと誘われる旅でもあり、サイギサイギと坂口が丹念に掘りぬいてゆく地下通路をたどって「いのちの唄」さきわう宇宙のほうへと導かれてゆく巡礼の道のりでもあった。

 

 岩木山から、スペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラの「聖ヤコブの道」へ、イタリアのサン・ベッソのお山参詣の道へ、さらには中国、韓国、インドネシア、ペルーはアンデスへ、坂口昌明の眼差しは遥かにのびてゆく。津軽へ、いのちの唄へ、いのちの祝祭へ寄せる思いはますます深まってゆく。なにより、そこには、よみがえるすべを忘れつつあるわれらの「いのち」への痛切な祈りがあるのだ。

その瞬間の感覚を手放すな   2014年『婦人之友』8月号掲載

 

 作家の赤坂真理は『愛と暴力の戦後とその後』において、幼い頃から今にいたるまで、身の回りのささやかなことから国家にまつわる大きなことまで、分からないことをいちいち考えてみる。家族の秘密、ドラえもんのジャイアンや科学忍者隊ガッチャマンのこと、バブルの頃の漫才ブームのこと、日本の学校はなぜ軍隊みたいなのか、なぜオウムは語りにくいのか、なぜ日本社会は息苦しいのか、「憲法」ってそもそもどういう意味なのか、戦後私たちは何を忘れてきたのか、何を見ないことにしてきたのか、いったい日本ってどんな国なのか……。問いは震災後にあふれ出た。私たちが生きるべき日本の新しい物語を思うほどに問いは増した。そもそも物語とは、あるルールで人間を囲い込むものである以上、外に向けては敵を作りだし、内に向けては暴力を呼び出しもするものだから、物語という発想そのものまで問わざるをえなくなった。

とことん問うて考える赤坂真理の言葉を追ううちに、私もまた自分の記憶をたぐり、物語を作りだす言葉そのものについて考えていた。かつて私は韓国語を知らぬまま韓国で暮らしはじめ、生活の中で赤ん坊のように韓国語をたどたどしく覚えるという経験をした。それは、日本語と文法構造の似ている韓国語をとおして、日本語という言語の「癖」を痛切に知ることでもあった。たとえば日本語では受動態をよく使うが、韓国語では受動態はほとんど使わない。意思の所在が明確な能動の言葉の厳しさを知れば、曖昧な受け身の言葉の居心地の良さも実によく分かる。

言語の癖とは、思考の癖であり、感情の癖でもある。そして、「癖」は無意識のものだから、一つの言語の内側で共に生きる人々は無意識のうちにその癖を分かち合う。無意識の癖とは、つまりは思考停止である。どんな言語であれ、同じ言語で考えて感じて生きるかぎり、私たちは良くも悪くもみんなで同じように思考停止する。いちいち考えていたら、言葉というのは集団のなかでぺらぺらと滑らかには流れていかないものなのだ。

思考停止しない人、とことん自分の言葉で問うて考えて語ろうとする者は集団の中の異物だ。堀田善衛の『方丈記私記』によれば、『方丈記』の鴨長明もまたそのような人だった。戦乱、大火、飢渇、平家の滅亡、大地震……、末世そのものだった平安末期に鴨長明はその現実を直視して、みずからの心をみずからの言葉で記して、『方丈記』が生まれた。

一方、その当時の貴族たちはまるで末世の現実などなきかのような、夢の浮橋のごとき幽玄の歌を詠っていた。堀田善衛いわく、新古今和歌集の選者藤原定家は古今和歌集を踏まえて、今の言葉ではなく三百年前の言葉で詠えと言った。歌は本歌取りが基本なのだと。目の前の現実に対しては思考停止、とにかく日本語の「癖」にどっぷり浸かって幽玄の美を追求せよというわけだ。鴨長明もまた歌を詠んだが、現実離れした幽玄の世界には馴染まなかった。

この平安末期の本歌取りの思想と文学を突きつめれば、どうしても天皇制にぶつかる、それと同じ思考が戦時中の日本にもあったと堀田善衛は言う。そして、そのような思考の外に出ていった異物としての鴨長明を語る。なにより堀田善衛もまた昭和の戦争の時代に異物でありたいと願った者なのである。世の異物であること、みずから問うて考えて紡いだ言葉で今の世を越えて書きかえてゆくこと、そこにこそ表現者の矜持はある。

ほら、見渡してみれば、今も異物たちは危ういほどに息苦しいこの世にひそかに風穴を開けている。なかには本歌取りを試みて本歌にのまれることなく、別の不穏な歌に仕立てて世に放つ痛快な異物もいる。万城目学。『悟浄出立』。ここでは、西遊記でいつも他人の足跡をなぞって最後尾をゆく沙悟浄が、先頭に立って道なき荒野を歩きだす。「その瞬間、俺のなかで少しだけ生の風景が変わったような気がした」。 

そうだ、その感覚を手放すな! 異物たちはひそかにそう囁きかけている。

 『瞽女うた』(ジェラルド・グローマー著 岩波新書)

        2014年6月西日本新聞掲載

 

 瞽女といえば越後である。私はつい先日も、昭和の越後の高田瞽女を主人公にした映画『はなれ瞽女おりん』(水上勉原作)を観て涙したばかりだ。しかし、盲目の旅芸人・瞽女の旅路の行方に思いを馳せる心はなぜか哀切な物語めいて、彼女らが生きた現実とはずれていくようでもある。思うにそれは、旅芸人とか消えゆく文化とか、人間が滅びの匂いに触れたときに引き出される感情の癖のようでもある。

 本書の著者ジェラルド・グローマーは、この条件反射のごとき危うい感情の癖を遠ざけ、クールな情熱をもって、社会的文脈の中で瞽女の文化と歴史を語る。それが実に好ましい。

 そもそも瞽女は越後ばかりにいたのではない。「盲女」として文献に現れる中世、そして瞽女文化の黄金時代が始まる近世中期より数百年間、日本各地に瞽女はいた。それが遂に姿を消すのが一九七〇年代。その最後の瞽女たちが越後の高田や長岡にいたのだ。

 瞽女の最後の時代は、瞽女の唄と文化の記録と保存の時代だった。越後の瞽女に集中した記録の背後には、記憶も記録も保存もされなかった無数の瞽女と唄とその遥かな旅路があった。

 そもそも瞽女は唄で商売をするプロの芸人だった。その場に応じて流行り唄も歌えば、民謡、万歳、浄瑠璃までこなした。民間信仰を背負って蚕や稲のために歌いもした。口承の世界では歌う者が唄の主、同じ唄でも歌う者の息遣いで趣も変わる。唄は自由だ。自由は生きる苦難と背中合わせだ。瞽女は歌って生きるための組織と掟とを整えた。そうして、近代のシステムが旅芸人を排除するようになった明治以降も、息長く生き延びたのが越後の瞽女だった。

 しかし話はここで終わらない。著者は瞽女を語って、やがて人間の生の営みと唄にまつわる深い思考へと読者を誘う。もしや、われらは誰かにただ歌わされているだけなのではないか? われらの唄の主は誰? 命の主は誰? いま瞽女を知るとは、このような空恐ろしい問いに出会うことでもあるのだ。 

『幽霊さん』  (司修著 ぷねうま舎)

        2014年7月西日本新聞掲載

  

 間がいいのか悪いのか、短編集『幽霊さん』を一気に読んだのは二〇一四年七月一日で、閣議で憲法の解釈を変えるという立憲国家ではありえないことがぬけぬけと行われたその日だったものだから、その味わいのなおいっそう苦いこと、恐ろしいこと……

 なにしろ『幽霊さん』には、人間をまるごと死の世界へと連れてゆく得体の知れない何かが潜んでいるのだから。その何かに捕まっちゃならないのは分かっているのに、結局は捕まるばかりの人間たち(つまり、わたしたち)が描かれているのだから。

 物語は3・11の大津波の後の東北にはじまり、欲望と開発と原発とをひそかな結び目に、沖縄、奄美、福島へとつらなってゆく。そこに9・11の理不尽な光景も結び合い、さらには原風景として、おそらく司修自身のものであろう空襲の体験や戦後の風景が重なり合う。

 「冷戦時代からの私の皮膚の下にある恐怖腺は、自分の力ではどうにもならない危険に対して麻痺状態でありながら、ぶるぶる震え続けなければなりません」と書くその筆は、ますます濃くなる死の匂いに抗して、生きるほうへと声を探して彷徨うようでもある。それは時に異界へと滑り出してゆくようでもある。分かりやすいお決まりの言葉なら、人は簡単に読んで分かったふうになってくれるけれど、そういう人間の変わらぬ愚かさを超えたい筆は、「分かる」と「分からない」の境界線上で生き生きとジタバタとするようでもある。それがまことに面白い、そして恐ろしい。

 たとえば、スサノオノミコトに殺されたオオゲツヒメノカミの頭から蚕、耳から粟、鼻から小豆、尻には大豆、陰部からは麦が生えたという、「死」から「生」が生まれでる始まりの神話も、『幽霊さん』の世界では、そのままではすまされない。荒んだ性と生の風景の中に放り捨てられる。

 ああ、人間の希望はどこにある? 知りたかったら幽霊さんに聞いてごらん。あなたに幽霊さんが見えるなら、聞こえるなら。

『未明の闘争』(保坂和志 講談社)   

       2013年12月西日本新聞掲載

 

 死んだ知人と交差点ですれ違う、深夜に誰かが家の呼び鈴を鳴らす、同じく深夜に幼馴染がいきなり訪ねてきてドストエフスキーの『分身』を語りはじめる、おそらく彼もなにかの分身に違いない、さらに同じく深夜に隣人が訪ねてきて不倫について口走る、猫がいる、猫たちとの日々を愛情深く語る男がいる、その男は不倫をしている、その昔犬を飼っていたという、犬には可哀想なことをした、男は不倫相手と逃げようとする、富士山をめざす、猫たちはどこからかやってきては生きて死んでゆく、いろいろな出来事が夢のようにきれぎれにつながって、そう、きれぎれだけど触れあい響きあい、夢のように不穏に揺らぎながらも、それは確かな世界として今ここに立ち現れるのである。

 そのようにして保坂さんの小説『未明の闘争』に巻き込まれてゆく私はロシアの農婦のワシリーサのようでもある。そして、『未明の闘争』を書く保坂さんはワシリーサにペテロの涙の物語を語り聞かせるロシアの学生のようでもある。

 ペテロの涙? それは、チェーホフの『学生』の中の「鎖の一方の端にふれたらもう一方の端がゆらいだ」という、あの話だ。イエスの予言通り夜明けまでにイエスを知らないと三度嘘をついて激しく泣いたペテロの話を学生から聞かされたワシリーサの心が千年も前のペテロの心と響きあう、そのとき学生は「過去はつぎからつぎへと流れ出す事件のまぎれもない連鎖によって現在と結ばれている」と考える、保坂さんは鎖でつながっている必要はないんじゃないか、出来事と出来事が重ね合わされることによって時空を超えて何かになるのではないかと考える、しかし、その何かは言葉になんかならない、言葉に馴れてしまうわけにはいかないのだと保坂さんは抗う、闘う。その末に言葉に絡めとられない、未明の夢のような、素晴らしくくリアルで、読み終えた瞬間に深く温かく恐ろしくもある余韻を残して消えさる極上の小説が生まれた。私は今年最高のとびきりの夢を見た

2013年 今年の一冊 (西日本新聞掲載)

 

『傷と出来事』(ジョー・ブスケ 河出書房新社)

 

 

「私とは、私のうちで大きくなったひとつの巨大な存在の傷口にほかならない」とジョー・ブスケは書く。彼は第一次世界大戦で負傷、その後半生を病床で過ごし、傷と人間の運命と言葉についてひたすらに考え抜いた詩人だ。そして『傷と出来事』は、詩作のための詩想を記した、つまりは言葉が生まれくるその源へと降り立って書かれた一冊のノートだった。そこには、「傷」という生と死の裂け目そのものになってしまった人間が、「生」のほうへと向けて、世界と人間と自分自身を語り直さんとする厳しい言葉の数々がある。ブスケが「君の思考の努力は、存在のための君の努力の光でなければならない」と語るその声は、不穏な予感漂うこの時代に生きる一個の傷である私の胸に強く響く。「すべての言葉は声高に語られるよりも、密やかに聞かれるものである」というその声は、不穏なざわめきの中で聞き取るべき言葉のありかを教えるのである。

『露草の青』(谷川健一 冨山房インターナショナル)

 

 この八月に九十二歳で亡くなった民俗学者谷川健一さんの生前最後の本である。現代短歌にまつわるこの本を読み終えた心には、繰り返し、波のように、問いが寄せくる。

 此の世に生まれて最初にうたった歌は何だったろう?

 此の世を去るとき、最後にどんなをうたうのだろう

 そんな問いを静かに手渡して、どこか哀しく切ない想いを滲ませて、この孤高の旅人はゆきすぎていったようなのだ。問いとともに、その旅の人生を溶かし込んだ幾つもの歌を残して。それは、たとえば、このような歌。

漂浪の一生のはてのかなしみよただ露草の青に嵜りゆく

 青年時代、谷川さんは学業そっちのけで短歌に熱中したのだという。その熱が、一九四一年、開戦の詔勅を聞いたときを境に消えうせた。以来、歌を押し殺した。作歌を再開したのはそれから半世紀も経ってから。大病を患った病床でのことだった。その頃、ようやく自分なりの民俗学の輪郭が見え始めていたのだという。

 谷川さんの歌と民俗学とをめぐる回想は、近代国家にありながら「日本人の原初の魂」を生きることの困難をつくづくと感じさせる。谷川さん自身、近代の病を振り払おうとしつづけた長く厳しい漂浪の年月があったのだ。南島の民俗の奥深く分け入りもした。無数の地名の記憶を掘り起こしもした。それは、異神や草木や石や水までもが意思を持って騒がしく声をあげていた「草木言問う」時代へとさかのぼことでもあった。神話の時代よりもさらに昔の日本に息づいていた魂たちと出会うことであった。そしてそこには、まつろわぬ魂が神に願いを聞き届けさせるための烈しい祈りの言葉としての歌があった。そういうものとしての歌を、谷川さんは漂浪の果てに取り戻したのである。

 現代短歌を語り、みずからも歌う本書に、私はこんな谷川さんの祈りの声を聴く。

 人間よ、言問う者であれ! 烈しく歌え

<物語の力>

 

「小説家の役割は人々が持つ『物語』のモデルを提供すること。読者がそれを読んで共鳴し、呼応することで、魂のネットワークができていく。それが物語の力」と語ったのは、村上春樹。発行部数百万部に達した『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』刊行直後の言葉だ。

 「物語の力」。これを「結び合わせる力」と言いかえてもよい。生きてゆく言葉を呼びだす場、それを「物語」と呼んでもよい。そして、「物語」には、その書き手、読み手、それぞれの思惑や都合がある。そして、「物語」が百年千年先まで語り伝えられていくような深く遥かな命を持つかどうかは、ひとえに、書き手や読み手の思惑や都合を越えた「なにか」が「物語」のなかに息づいているかどうか、なのである。「なにか」とは、書き手・読み手の思惑・都合で切り取られたり縛られたりする前の、この世界そのものの思惑や都合と言ってもよいかもしれない。人間の思惑・都合だけではなく、草木や石や土地や空や海や神や魔や姿形なきものの思惑・都合・理不尽までがひそかに蠢き、脈々と息づく「物語」、そこにこそ「命」も「力」も宿るのだと私は思っている。

たぶん、梨木香歩さんもそう思っている。『鳥と雲と薬草袋』。梨木さんがいつか行った土地の名まえ、それにまつわる物語が49編。「まなざしからついた地名」、「文字に倚り掛からない地名」、「消えた地名」、「温かな地名」……、土地と土地の間には越えねばならぬ「峠」もある。旅をして、さまざまな土地に寄り添って、地名にそれぞれの土地に宿る記憶や匂いや沈黙や喪失や謎や眼差しやざわめきを感じ取って、力をもらって、物語を紡ぎだす梨木さんがいる。

「生きることはその人だけの山脈を征くことに似ている。思いもかけない谷戸や隈に入り込み、原や鼻にさまよい出て、様々な坂を越えつつ、けれどあるとき決定的な峠を越えると、これまでとはまったく違う世界が待っている」。繰り返し峠を越えて、繰り返し自分を越えて、繰り返し世界を越えてゆく、そういうものとしての物語を梨木さんもまた生きているようでもある。

 『説経節を読む』。これもまた、物語に寄り添い、物語の源へと向かう旅。旅人は今は亡き水上勉さん。そもそも、説経節とは、古来、旅する語り手によって、土地から土地へ、記憶から記憶へ、声から声へ、人から人へと運ばれて、時代の峠を繰り返し越えて、百年五百年千年と語り伝えられてきた物語だ。とりわけ五大説経節、「さんせう太夫」「かるかや」「信徳丸」「信太妻」「をぐり判官」は、名もなき庶民の間で語られ、聞かれ、そのたびに息を吹き込まれ、生き物のように愛され育まれてきた。三味線や琵琶で歌われたり、歌舞伎や浄瑠璃で演じられたりもした。その物語をたどって旅する水上さんの語りもまた、一個の懐かしい物語である。

「山椒大夫の譜代下人小舎の場面を読んでいて、私の生れた村の阿弥陀堂を思い出した。…(中略)…幼い頃の記憶に、旅の者は祠堂をかついだ乞食。説経を語る芸人、祭文語り。ほら貝を吹く山伏姿の乞食など錫杖で子供を脅かした」。

ところで、説教節の面白さは、私が思うに、神や仏という名の理不尽、人間という名の痛み悲しみを歌い語りつつ、それでも生きていくのだという、笑いを誘うほどにたくましい人間たちの祈りが物語を突き動かしていくそのエネルギーにある。しかも、多くの場合、殺されたり呪われたりする男どもを、まるで菩薩のように献身的に女が救いあげる。女が素晴らしく美しく神々しくけなげなのである! いやはや、これは古来より変わりなき男の幻想? 男の都合? 実のところ、「物語の力」を語る村上春樹にもその匂いは濃厚なのであるが、そこで、物語にたちこめる男の思惑・都合・幻想を気持ちよく振り払う一冊、田辺聖子の『女の太もも』から、この一言。

 

「うるさい。男は黙ってカブラでも抱いておれ。そして女にしばられておれ。」

 

(『婦人之友』2013年8月号)

311以降の旅」の本 15冊 

2012/06/19 - 今福龍太×信子トークセッション@池袋 ジュンク堂)

      < 「震え」の思想、「震え」の詩>のために

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『聞書き水俣民衆史』全五巻 (岡本達明 松崎次夫 草風館)

村人が夢見て、旅して、生きて、病み尽くした「近代」の日々、

われらは今もその夢の中にいるような……。

 

●『菅江真澄遊覧記』 (東洋文庫  菅江 真澄、内田 武志、 宮本 常一)

天明の大飢饉、地震、津波、名もなき民の暮らし、祈り、歌……、

江戸時代、みちのくの襞まで見て聞いて歩いた旅人菅江真澄の旅の日記。

 

●『何も共有していない者たちの共同体』(アルフォンソ・リンギス  洛北出版)

旅する哲人いわく、「君は語らなければならないのである。言語が語れない何かを、……」。私たちは語らなければならないのである。言語に収まる世界を越えて生きようとするならば。

 

●『人間の土地』(サン=テグジュペリ  新潮文庫)

砂漠を彷徨う彼の問いは私たちに届いているだろうか。

この世界の「難破者」とは誰か? 難破者を救う「光」はどこにある? 

これは私たちが私自身に突きつけるべき問い。

 

●『失くした季節』(金時鐘  藤原書店)

 絆――。

「こともなく誰もがつながり、つながる誰もそこにはいない」と詩人は呟く。

真につながりなおすための、本当の詩、本当の言葉との出会い。

 

●『ライは長い旅だから』(谺雄二  皓星社ブックレット)

   「旅は終わっちゃいない。今日、ボクは出発する」。

近代が切り捨てた場所、近代に切り捨てられた者だけが紡ぎだすはじまりの言葉。

 

●『パウル・ツェラン詩文集』(飯吉光夫 編・訳 白水社)

 「わたしは見つけます、むすびつけるもの、詩のように出会いへとみちびくものを」。

 「詩を書くことが野蛮となった」アウシュビッツの後の時代の詩を、極限の場所から命がけで模索した詩人の言葉を、この極限の時代に。

 

●『こども東北学』(山内明美  イーストプレス)

   「東北」という地への思考停止を解く言葉。

辺境への思考停止を誘う「まん中」の思考から身を振りほどいて、出発せよ!

 

●『イエスの言葉 ケセン語訳』(山浦玄嗣 文春新書)

 「神さまのお(ごえ)に耳ィ澄ませ。そうして願う(ねげ)(ごと)だら、何だって必ず叶う」。

岩手県気仙地方のケセン語という暮らしの中の言葉で語られる聖書の言葉。

与えられた言葉ではなく、みずからの言葉で新たな創世を語りなおす試み。

 

●『東北学』(赤坂憲雄  講談社学術文庫)

 あらためて東北を読み直す。見つめ直す。日本を見つめ直す、我らが生きる今を見つめ直す。我ら自身を見つめ直す。はじまりを生きるために。

 

●『ラディカル・オーラル・ヒストリー』(保苅実 お茶の水書房)

 普遍性=西洋近代に安住しないこと。普遍性と結びついた「歴史の真実」に囲い込まれないこと。注意深くこの世界を見て聴いて感じること。「歴史への真摯さ」をもって、普遍の外に置かれてきた他者との対話の回路を開くこと。注意深く……。

 

●『苦海浄土』(石牟礼道子)

ミナマタからフクシマへ。見えない線を浮かび上がらせる、近代日本の棄民の声。

失われた神話への回路。私たちはいったい何を棄てて来たのだろうか?

 

●『パタゴニア』(ブルース・チャトウィン  めるくまーる)

  「僕の神様は歩く人の神様なんです」。

歩く人ブルース・チャトウィンの旅の始まりの書。

世界の果てに潜む人間の運命の物語。

 

●『歓待の書』(エドモン・ジャベス  現代思潮新社)

 「言葉に希望がないとき、書物は無益である」。そして、他者を「歓待」すること。

  そこにこそ世界の終わりをはじまりに創りかえる希望は宿る。

 

●『歌の祭り』(ル・クレジオ  岩波書店)

 

「書こう、踊ろう、新たな大洪水の時代に抗して」。すべての表現者、すべての生きる者に贈る言葉。

『水族館劇場のほうへ』(桃山邑 羽鳥書店)

 

 本を閉じても心はまだ水族館劇場の世界を漂って、まるで、昼と夜が交差する一瞬の逢魔が刻の人さらいにあったよう。切ない懐かしい危うい心模様なのだ。

恐るべき人さらい、水族館劇場。故郷を失くした者たちが流れ着いては去ってゆくこの世のはずれ、寄せ場の路上に、もっとも賤しき者たちを包み込む聖なる森、寺社の境内に、町のはずれの善悪の彼岸、悪場所に、そして生と死のあわいに、神出鬼没、蜃気楼のように現れては去ってゆく現代の河原乞食の群れ。

この芝居一座のことを、ちいさな芝居の徒党、烏合の族と座付作者桃山邑は言うけれど、彼らほど、この世のほとんどの者たちが忘れて久しい「世界の王」と深く結ばれた不穏な芸能者はないようにも思われる。

 「世界の王」とは、またの名を「後戸の神」とも「宿神」とも「翁」ともいう。それは国家や権力の中心に座する可視の生身のかりそめの王などではなく、その背後に広がる不可視の領域に潜む永遠なるもの。世界そのものを創造し、世界が濁れば浄化し、滅びれば再生させる根源的な力。遠い昔、芸能もまたそこから生まれた。その原初の記憶を水族館劇場は手放さない。

思うに、目に見えるものばかりに心奪われて、生きることの問いも迫りくる滅びの予感も失くしたかのような今の世にあって、不可視の「世界の王」と結び合うのはまことに容易ならざることだ。本書に怒涛の如く綴られた、問いと予感と逢魔が刻の気配に満ちた水族館劇場の芸能の民としての来し方、その舞台のありようが如実にそれを物語る。そこには命がけで世界の根源への通い路を開こうとする者たちの声がある。

世界の王が宿るところ、この世の外へとこぼれた者たちのもとへ行け、冥府へと降りてゆけ、名もなき死者たちの声を聞け、はじまりの廃墟に立て、祈れ、歌え、いかがわしくあれ、禍々しくあれ、生きよ、生き抜け、どこまでも歩いてゆけ!

 

その不穏な声にかどわかされる歓びはこのうえなく深く、そしてなぜかこのうえなく哀しいのである。          

                        (西日本新聞 2013年8月)

「特別な一日」読書漫録  (山田稔 編集工房ノア)

 

 まるで書斎で差し向かいに読書と文筆にまつわる思い出を聞いているかのよう。家庭の医学を詳細に解説した通称「赤本」を夢中になって読んだ少年山田稔、英文学に傾倒し、やがて仏文学と出会った青年時代、富士正晴らと文学修行を楽しんだ雑誌「VIKING」同人時代、パリ留学時代……。その語り口といえば、衒いもなく率直、話題は縦横無尽に時空を越え、あの本この本と取り出してきては、それに絡みついている記憶のあの糸この糸で、時に鼻歌まじりに文章を織りあげていく。一体、話の結末はどうなるの? 行方知れずのその筆さばきをはらはら見つめているうちに、味わい深い人生模様の織物がすっと差し出される。

 山田稔さん、私はあなたに「コーマルタン界隈」(みすず書房)で初めてお目にかかりましたが、その時も、私にとっては未知の、迷路のようなパリの記憶の路地、記憶の小部屋に誘い込まれて、その記憶の底に蠢く「生きること」の切なさや哀しさ、人に話すことが憚られるような心の澱までもを、いとも自然に、そっと差し出された。

人間って、自分って、どうしようもないな、筋も通っていなければ汚れにもまみれて生きてるんだな、でも、そのどうしようもなさが愛しく、その汚れまみれの人生の中に小さな真珠のような魂が息づいているんじゃないかなぁ。そう呟くあなたの声に私も思わず頷いていたものでした。

 あなたがコーマルタン界隈をそぞろ歩いた若き日にもらしたその呟きは、五十代のあなたが紡ぎだした随想集「特別な一日」からも変わることなく漂いだしている。私はそれを懐かしく親しく聞きました。

 随想集のタイトルにもなった「特別な一日」という一編が心に残ります。ファシストの歌「ジョヴィネッツァ」が高々と鳴り響くかつてのローマの“特別な一日”。その“特別な一日”から、つまりは全体主義の社会から疎外されて生きる者たちが、同じ日に過ごしたそれぞれにとっての“特別な一日”の情景をあなたは想い起こし、丹念に描きだす。そうして、幾層もの意味を持つ“特別な一日”の記憶をたどるうちに、社会から疎外された者たちをめぐるさまざまな本の、さらなる記憶をあなたは手繰り寄せてくる。疎外された者たちに寄り添うあなたの想いが滲み出してくる。なのに、「ジョヴィネッツァ」の旋律を記憶の呼び水としたばかりに、気がつけば、この全体主義の音にとりつかれているあなたがいる。軽快かつ強力な音の呪縛。ミイラとりがミイラに? それを一気に振り解いたのは、なんとまあ……。まったく予想外、ミもフタもない顛末、何と言えばいいのやら。いや、もうこれ以上は言いますまい。

でも、その一見ミもフタもない顛末に、人間という存在の真実が浮かび上がるようで、それを潔く語るあなたの声に私はまたも頷くのです。

 人間とは愚かものだ。人間とは無邪気なものだ。人間とはいいかげんなものだ。人間とはとかく思い込むものだ。人間とは辻褄を合わせるものだ。人間とは邪気に満ちたものだ。人間とは所詮糞袋だ。人間とは惑うものだ。人間とは哀しいものだ。人間とは必ずどこかにたどりつくものだ。人間とは死にゆくものだ。人間とは死ぬその瞬間まで生きつづけるものだ。人間とはかけがえのない名を持つものだ。人間とは愛しいものだ。人間とは高貴なものだ。人間とはなんと人間くさいものであるか!

 

 人間に寄せるあなたの想いが、あなたの織り上げる文章にはどくんどくんと脈打っている。それが何よりくっきり感じられるのが、「わがオーウェル」と題された一編。作家ジョージ・オーウェルのありようをdecent(品位)とinnocent(無垢)の二つの言葉で言い表すあなたは、同時に、自身の人間に対する姿勢、書くという営為への向き合い方を、きっぱり語ってもいる。そして私は何度も何度も深く頷くのです。

                     (「週刊朝日」2008年3月14日号)

『砂漠と鼠とあんかけ蕎麦 神さまについての話』

      (五味太郎、山折哲雄 アスペクト)

 

 

 宗教学者山折哲雄さんと絵本作家五味太郎さんの対談のテーマは実に壮大、縦横無尽に神さまのことを語り合う、そのうち五味太郎さんが、ふっと、絶妙に、さり気なく、たとえばこんなことを言うのです。

「呼吸は一度止まったのかしらね」

 ええ、止まったんでしょうね、止まりっぱなしかもしれませんね、それでも生きているから大変なんでしょうね、生きるってのは難儀ですねぇ……と、これは五味さんの言葉にハッとした私の体の芯からの声。

 なんの話かと言えば、そもそもは、山折さんが言い出した生きるリズムとしての“呼吸のリズム”にまつわる話なんです。

山折さん曰く、呼吸は体を上から下へと流れるリズム、呼吸のリズムは生命のリズムを支え、生命のリズムは詩歌のリズムとなり、上から下へと流れる詩歌のリズムは、詩歌を上から下へと書きくだす縦書きの日本語のリズム、それは日本という社会のリズムでもある。

 そんな縦書きの世界に生きてきた者たちが、明治の世に初めて横書きの横文字の世界に出会ったとき、それはもう死に物狂いで横のものを縦にしようとした、そのとき、呼吸は一度止まったのかしらね、と五味さんが言ったわけです。

 頭ではなく、体で気づく、体で考える、そんなやりとりがここにはある。歩くのが好きな山折さんと風や土を感じて風景を描く五味さんが神さまを語って、あっちこっち思いのまま感じるままに逸れたり跳んだり漂ったり、(サバイバルなノアの話、ル・クレジオの鼠の話、「なーむーあーみーだー」の話に仏陀と子捨てと阿難尊者の話も面白かったなぁ)、そんなこんながやがて一つの大きな流れとなって、腑に落ちてくる。

ふむふむ、なるほど、どうやら、この世を大きく二つに分けるならば、呼吸のリズムがのびやかに息づく<縦書き>の世界と、何故だか知らぬが呼吸を押し殺すような<横書き>の世界があるらしい。<縦書き>の世界は豊かに湿った優しい森。ただそこに包まれていればよい、ただ恵みを感じていればよい。<横書き>の世界は厳しく乾いた非情な砂漠。生きる術を考えぬき、闘わなければ、生きていけない。湿った風土にはただあるがままに<感ずる宗教>、乾いた風土には覚悟を持って<信じる宗教>。という具合に流れをたどっていけば、あらあらまたもや体の芯のところでハッとするのです。

そうか、神さまを語ることは神さまが生まれいずる風土を語ることで、風土を語ることはその風土に育まれる人間を語ることで、人間を語ることは生きることを語ることなんだな、生きることを語る言葉を見失った時、人は神さまを見失うんだな、思わず神さまを探すんだな……。

五味さんが問います。「あらためて、神様はなぜ必要なんでしょう?」。山折さんが答えます。「対話者が必要なんだな。人間同士の話とはちょっとレベルを超えた対話者」。

 そんなやりとりをする二人は、太古よりモーゼも仏陀もどの宗教でも言い続けてきて、にもかかわらず人間が裏切り続けてきた黄金律「殺すな」「盗むな」「嘘をつくな」の意味をあらためて考えねばならないと感じている。どうしたって罪を犯す人間が、それでも生きて救われるための知恵を探っている。われら人間はその袋小路の心の声を聞いて聞いて聞いて聞いてもらうことでしか救われないのではないか、と思いもしている。それが山折さん言うところの神さまとの対話なのかもしれないけれども、聞いて聞かれて語り合う山折さんと五味さんの対話自体が、私にはだんだんとしみじみと、神なき時代の救いの一つのありようにも思われてきました。

 

 神さまの話は、実のところは、われら人間の話。正しい戒律や理屈や言葉に収まりようもなく生きて、惑って、救われたい、厄介なわたしたちの話なのでした。

                      (「週刊朝日」2011年2月25日号)

『水墨 創世記』(司修画 月本昭男訳 岩波書店)

 

 神とは理不尽の別名である。初めて「創世記」を読み通して、つくづくとそう思う。神は全知全能というが、みずからが創りだした人間たちが次々と想定外の取り返しのつかないことをしでかしてくれるものだから、(エデンの園でのエバしかり、弟アベルを殺すカインしかり、バベルの塔しかり、ソドムとゴモラしかり、その他もろもろ)、すぐに地上に人を造ったことを悔やんでは、自己の不明を省みることなく、人はびこる大地に洪水を起こすわ、火の玉を投げ落とすわ……。

 いやいや、キリスト教徒ではなくとも誰もが知るような「創世記」のエピソードをここにあらためて書くつもりはない。伝えたいのは、『水墨 創世記』を手にしたときの鳥肌が立つような心のざわめき。旧約聖書のなかの馴染み深い話が、そこで語られている言葉には何ひとつ変わりはないというのに、『水墨 創世記』によって心揺さぶる「世界のはじまり」の物語として、いまここに生まれなおしたことの感動なのだ。私は大荷物を抱えた旅の途中に立ち寄った書店でうっかり本書を見つけてしまい、どうしてもその場で買わずにはいられなかった。聖書も岩波文庫版『創世記』も既に持っているというのに。

 聖書のなかの「創世記」という、いわば砂漠の民の渇きに満ちた「世界のはじまり」のお話は、『水墨 創世記』において、司修による六十四点の水墨画のなかに溶かし込まれ、いまひとたび混沌へと差し戻される。その混沌のなかから、湿り気に満ちたわれらの「世界のはじまり」の物語を呼び出されてくるのである。司修は、砂の言葉で書かれた「世界のはじまり」の光景を、水の言葉で見事に描きかえた。

物語の頁から頁へとひたひたと水が流れてゆく、行間からじわりじわりと水が滲み出す、湿り気に満ちた喜怒哀楽のなかを、神も人間どももその理不尽を生き抜いている。立ち現れたのは、そんな物語。

 思うに、足元が根こそぎ揺さぶられ、押し流されていった3・11以降の日々にあって、「世界のはじまり」を語りなおし生きなおす言葉を多くの人々が混沌のなかから切実に痛切に見出そうとしている今だからこそ、理不尽にまみれた「世界のはじまり」を生き抜く者たちの物語である本書はますます意味深い。

 重ねて言う。神とは絶対的な理不尽である。全知全能であるはずの神の思いも寄らぬことをしでかす人間もまた、それなりに理不尽である。

たとえば、ソドムとゴモラ。神は想定外の悪をはこびらせた人間どもを滅ぼすことにする、(絶対的な理不尽は、人間レベルの理不尽など一気に蹴散らしてしまう)、それを神の使いから伝えられたロトは、滅びという理不尽がもたらされることを信じて、彼の娘たちを娶ってソドムに暮らす婿たちに伝える。しかし、「創世記」に曰く、「そのことは婿たちの目には笑い事と映った」。そして、笑った者たちは、滅びた。

そう、想い起こせば、人間の歴史とは、繰り返し、きりもなく訪れ来る理不尽との闘いではなかったろうか。神が「光あれ!」と言い、神という名の理不尽の賜物として光のみならず闇もまた生まれ出たその時から、その歴史ははじまり、人は理不尽の到来を忘れては、理不尽に不意を打たれて、叩きのめされ、そうしてやっとのことで立ち上がった頃には、また理不尽を忘れ、理不尽に対する予感すら失くし、再び不意を打たれる。その果てしない繰り返し。

 

理不尽を忘れるな、理不尽を笑うな、理不尽を信じよ、理不尽を生きて生きて生き抜け、そんな思いに打たれながら、私は繰り返し、水の言葉で描きなおされた「始まりの物語」の頁を繰った。「光あれ!」と繰り返し呟きつつ、やがてきっと生まれくるであろう、わたしたちひとりひとりがみずからの言葉で語りなおす「世界のはじまり」の物語を思った。 

                    (「週刊朝日」2011年8月19日号)

『ゆうじょこう』(村田喜代子 新潮社)

 

 読み終えて、ふっと想い起こした歌ひとつ。

 “花岡山から二本木見れば 焦がれて何としょ 金は無かしま(中島) 家も質(茂七) 東雲のストライキ さいと(斉藤)は辛いね てなことおっしゃいましたかね”

 明治33年、熊本・二本木の東雲楼の娼妓たちが人間らしい扱いを求めて起こしたストライキを題材に、路上の演歌師が蛮声はりあげて歌った「東雲節」だ。この歌が後世に伝えるのは楼主中島茂七と番頭斉藤の名のみだが、東雲ストライキに想を得て村田喜代子が紡ぎだした女たちの物語は、人が人であるために大切な何かを語って、しんしんと、切なさと温かさと愛しさが胸に降り積む。

 主人公は硫黄島から東雲楼に売られてきた海女の娘、イチ。このまだあどけない少女が、実に見事な体を持っているのである。娼妓にふさわしい官能的な体、ということではない。イチの体は、海に育まれ、厳しい自然に鍛えられ、あらゆる命と声を交わす野生の体。生きるということの本当を叩き込まれた体。その体は、廓という閉ざされた世界を支える一つ一つの理屈に違和を覚える。

 たとえば、廓の女王、花魁東雲(しののめ)太夫が、客との時間の他は、「誰のものでもない、自分の体」「娼妓ほど自由なおなごはない」と言い、苦労にまみれたイチの母親のことを「牛馬と、どこが違うている?」と言えば、

 違ごっ!(違う)

 心の中で、いつまでも抜けぬ島の言葉で、イチは叫ぶ。あるいは、心と体を切り離して、美しい嘘でくるんだ廓の女と男の関係に、

 すらごっ!(嘘言)

 殴られても、諭されても、イチは身にまとわりつく居心地悪い違和感を手放さない。違和感を問いに変え、廓の学校「(じょ)紅場(こうば)」に通っては、日記に書く。問うて考えては書き、書いては考える。言うこと聞かぬなら、畳の上では死ねぬと楼主に脅され、イチが書く言葉は、「ちごっ。たたみの 上では しにませぬ あたいは なみの上で しにまする」。

 そんな考える体を持つ少女が、「人外」の地と言われ、女性器ばかりが崇められ、床技だけが磨き上げられる廓という世界に紛れ込んだのだ。しかも、面白いことに、イチの体がおのずと放つ問い、イチの体から溢れ出る言葉は、「人外」の地に生きる女たちの身と心を、さざ波のように静かに揺さぶるのである。

 イチに書くことを教えた女紅場の教師・鐡子は士族の出。御一新後に落ちぶれた家のために身を売り、その誇り高さゆえに廓では疎まれ、その教養ゆえに女紅場に雇われた。

 鐡子は娼妓たちに真っ先に太陽という字を教える。人の世は移ろえど、太陽は移ろわぬ、太陽はただ恵みの光を注ぐのだと。でも、イチの体は、直感的に、とうにそんなことは知っている。それを言い表す言葉を持たなかっただけ。書くことによって、イチは確かな自分の言葉を手にしてゆくのだ。

 イチの言葉には芯がある。力がある。女紅場の教師鐡子と廓の女王・花魁東雲。この対極の二人を、イチはわれ知らず結びつけてゆく。廓の女王東雲も徐々に変わってゆく。いかに崇められようとも嘘は嘘、人外の地に人間の本当はないのだと。

 廓では病で死ぬ女がいた。殺される女もいた。子を産んで、人外の世界を去った花魁紫太夫のような女もいた。イチは男に愛されるということの意味を考えるようになった。親に売られて食い殺されるわが身を思うようになった。廓から逃げる女たちの数は増えるばかり。そして、ついに、東雲楼ストライキ。女たちは旅立ち、いったん物語は閉じられる。

 さて、ここから先はわれらの物語である。もしや、今もなお、われらは嘘の世界に囚われていやしないか? われらは自分の言葉を持っているか? そんな問いを胸に、イチたちの行方を想う私は、おのれの行方を想う私でもあるようなのだ。

                      (『週刊朝日』2013年8月2日号)

『失くした季節 金時鐘四時詩集』(金時鐘 藤原書店)

 

 詩は書かれるものではない、と詩人(きむ)時鐘(しじょん)その「蒼いテロリスト」に書く。そうあるべきものだと筋トレの鉄亜鈴を投げ上げる、とさらに書く。すばやく身を交わし、しなやかに反り返った俺、まだ現役だ、と八十歳の詩人は不敵に書く。この詩は、詩集『失くした季節』の夏の章にある。ぎらぎらと、蒼い生命力をたたえて。

 金時鐘は常々、詩を書くとは、詩を生きることなのだ、と語ってきた。生きることがすなわち詩なのだと。

 一見、ロマンチストの万年文学青年の言い草のようではある。しかし、詩を生きる詩人の言葉に、無条件に甘い抒情を感じてしまうわれらの条件反射的な言語感覚こそが、実は詩人が生涯かけて挑み続けてきたもの。何を大袈裟な……、と人は言うかもしれない。だが、人間がどれほど言葉に縛られ、言葉に手なづけられ、言葉にのまれて生きているのか、それをつくづくと知る者が言葉に仕掛けていくテロ、それが金時鐘の詩なのであり、詩人金時鐘とは、生きているかぎり、いつまでも、テロリストなのである。

 金時鐘はいかにしてテロリストになったのか?

 かつて金時鐘は植民地朝鮮の子どもだった。日本語を骨身に染み込ませ、日本的抒情に心を預けきった立派な皇国少年。その日本語の世界が、日本の敗戦の日、真夏の太陽の下で反転し、少年の心の闇となる。

 朝鮮を取り戻した金時鐘は、生まれ育った済州島で、南北分断に反対する社会主義青年として活動した末に、左右の対立抗争のなかで二万人以上の無辜の民が軍や警察によって殺されるという悲劇(4・3事件)に襲われた島から、一九四九年、日本の大阪・猪飼野へと逃げのびる。無数の死と逃亡と。心に、またひとつ、島という名の心の闇。

 日本においても社会主義者として活動した青年は、やがて、影も闇も疑いも持たない「主義」の言葉と決別する。どうしても言葉にならぬ闇を抱えて生きる者、(人間というのは、誰もがそうやって生きているのではないか!)、闇を語る言葉をまさぐりつづける者、詩を生きる者、つまりはテロリストとなることを選んだのだ。

 初めて闇を知った夏の日、島を悲劇が襲った春の日。夏秋冬春と、闇の記憶をたずさえて繰り返しめぐりくる季節を生きる。闇にも影にもとことん誠実に向き合って生きる。それが詩を生きるということであり、そのかけがえのない結実の一つが詩集『失くした季節』なのである。

 夏。「自然は安らぐ/といった君の言葉は改めなくてはならない」「自然は美しい、という/行きずりの旅ごころは押しのけねばならない」(「村」より)。日本語に無条件に寄り添う抒情を見つめ返し、拒否するところから、詩人の言葉は紡ぎ出される。

 春。「木よ、自身で揺れている音を聞き入っている木よ、/かくも春はこともなく/悔悟を散らして甦ってくるのだ」(「四月よ、遠い日よ。」より)。語りえぬ闇がそこにありつづけることもまた、詩人は語る。

 そして、詩集の全編を通じて、その行間から立ち上がってくる詩人の声がある。

 言葉で軽々しく物事を了解するな。言葉でたやすくつながるな。言葉に心をのまれるな。言葉では語りえぬことこそを、語れ。

 言葉に心を預けぬ者とは、言葉が形作っているこの世界の異邦人である。

 テロリストは孤独である。

「変われないぼくを/愛してください」(「蒼い空の芯で」より)

 生きることに誠実であるこのテロリストを、私は心から愛したい。

                        (週刊朝日 2010.5.28号)

『忘れられない日本人移民』(岡村淳著 サウダージブックス+港の人)

 

 やられた。ブラジルから送り届けられたささやかな本、そこに息づく人間たちの果てしない物語に、すっかりやられた。そして、「物語る」ということを考えた。

 たとえば、人間が土をこね、器を作るようになった太古の時から、この世は無数の生と死の物語で織り上げられてきた。そのひとつひとつがかけがえのない物語。しかし、そのほとんどは、人知れず、時の流れの中に埋もれてゆく。そんな人間たちのひそやかで果てしない物語の原野へと、たったひとり、呆れるほど愚直に、とてつもなく誠実に、映像作家岡村淳は分け入ってゆく。物語をめぐるみずからの旅を物語ってゆく。

 かつて、映画好きの考古学徒だった岡村は、一個の縄文土器にもその作り手使い手の想いを感じ取り、そこに宿る計り知れない物語に恐れをなしたのだという。考古学から映像の道へと転じたのもそれゆえのこと。彼は、この世の片隅でひそやかに生きる物語たちの声を慎み深く聞く耳を持っていた。そして、それこそが、旅する記録映像作家岡村を形作ってきたものなのだ。

 彼は、あらかじめ決められた枠の中に人間の営みを切り取って収めて、誰にも分かりやすい、しかし誰のものでもない物語を量産するような世界に安住できなかった。ひとつひとつの出会いに導かれるようにして、けっして枠には収まらない、容易には言葉にしようのない人間たちの営みへ、ブラジルへと向かっていった。

 岡村は耳を澄ます。国家という大きな物語の枠の外で、自力で物語を紡ぎだしていった日本人移民たちの人生に。岡村は物語る。切り捨てても忘れてもならぬ人間の生と死の物語を。やがて岡村は気づく。それは「自分の時間を生きる」者たちの物語なのだと。物語る自分自身もまた、自分の時間を生きる苦難とそこから湧きいずる歓びに溢れた物語の主人公なのだと。

 こうして届けられた物語たちが、静かに語りかけてくる。あなたは本当に生きているか? 誰かに与えられた物語に身も心も委ねてないか? その声に、うん、生きよう、自分の時間を。そう答える私がいるのだ。

                        (西日本新聞 2013.07.07)

『なみだふるはな』(石牟礼道子 藤原新也 河出書房新社)

 

 キツネに化かされた、という話は日本では1960年半ばに絶えたという。それはちょうど東海村で最初の原子力発電が行われた頃のこと。福島第一原発の一号機の着工は1967年である。それよりさかのぼること60年ほど前、海辺の寒村水俣では、工場の到来とともに早くもキツネが姿を消している。木の葉のお金を船頭に渡して船出したのが、水俣でキツネが人を化かした最後。石牟礼道子と藤原新也の対談を読みつつ、私はかつて聞き知ったそんな話を想い起こし、キツネに化かされなくなった人間の行く末をひっそりと思った。

 福島と水俣。放射能と水銀。そこには、国策のもと、近代化とともに、目に見えぬ「毒」が社会にひたひたと浸みいり、どうしようもなく命がないがしろにされていった状況がある。震災後、被災地に入り、写真家の「目」でつぶさにその状況を見た藤原新也が、水俣に石牟礼道子を訪ねたのは実に必然であった。水俣を語りつづけてきた石牟礼道子もまた「目」の人。いつまでも変わらぬ童女の「目」で病みゆく水俣を見つめつづけ、その情景を歳月とともに深みを増すたぐいまれな言葉で描きつづけてきた語り部なのだから。

 しかし、なんとまあ、この初対面の二人の語らいの、ほのぼのとくつろいで、それでいて張りつめて深いことか。その様子をたとえて言うなら、こんなふう。若くして村を飛び出し、諸国を巡り歩いた末に村に帰り着いた男がひとり。男は旅の歳月が身に刻みこんだ見聞とこの世への問いを胸に、太古より変わることなく村のはずれで世の移り変わりを見てきた懐かしい大樹に語りかける。大樹が慈しみ深い声で男に応える。行き交う二つの声は、福島の今に連なる水俣の来し方をありあり描くのである。

まず道ができた。それが水俣の近代化の始まり。電気が「神様」のようにしてやってきた。「ワーッと町中の声が聞こえたような、声が光になったような一瞬」とともに灯りがともった。日本窒素という「会社」がやってきた。「田舎もん」ではありたくない村民の愛情を「会社」は受けた。「会社」は最初から海に「汚悪水」を流した。

大樹曰く、かつて村の磯には軟らかな「女水」が湧き、山には「あの人たち」がいた。鳥、トカゲ、カエル、オロチ、サル、キツネ、山の神……。渚には貝やナマコたちがミシミシと、いたるところに命のざわめき、人もざわめく命だった。

 やがて、豊かにざわめく世界の海辺で魚が浮かび、貝が口を開き、猫が踊り、人が病んだ。世界そのものが病んだ。ざわめきは消え、病んだ世界は病んだ者を打ち捨てた。病んで病んでその果てに祈りが生まれた。「病むということをしらない日本国民、病んだ者の気持ちもわからない世間さまに対して、わたしたちが代わって病みよっとぞ」「知らん人たちのためにも、自分のためにも祈ります」

 病んだ水俣の民、追われた福島の民。水俣と福島を結び、滅びを予感しつつ語らう二人もまた祈る。小さな花を前に、藤原は「死ぬな生きろ」と。石牟礼は「ここにおいて われらなお 地上にひらく一輪の花の力を念じて 合掌す」と。

 石牟礼が水俣の漁師に聞いたところによれば、タチウオも祈るのだという。朝日に向かって、いっせいに三角の頭を波の上に出して合掌する。荘厳。神話のごとき光景……。

 こうして対話は祈りとともに閉じられる。あとには大きな問いがひとつ。

 さて、目に見えぬ「毒」に病むこの世を越えゆく新たな神話を、われらは生み出せるだろうか?  

                     (週刊読書人 2012年5月11日号)

『 f 植物園の巣穴』(梨木香歩著 朝日新聞出版) 

 

 過日、『f植物園の巣穴』を手に上野から巣鴨方面へと山手線に乗り込んだ。本を開く、頁をめくる、めくる、めくる、気がつけば山手線をぐるぐると、とぐろを巻いて出口のないf郷のf植物園の時間のなかへ入り込んで、出るに出られず……。

 山手線からとぐろ時間のf郷という異界へと迷い込んだ私は、自分の体の穴という穴を数えはじめる。しくしくじんじん痛む穴を、一つ、二つ、まさぐり当てる。この穴どもの果てしない奥底には、私自身もすっかり忘れていた取り返しのつかぬ記憶が潜んでいる。f植物園の園丁の「私」がそうであるように。

 嗚呼、厄介至極、穴の奥の記憶に摑まれて引きずり込まれてしまったら、その記憶をこちらから摑み返すまでは、もう戻ってこられない。「私」が椋の木の根元の記憶の巣穴に転げ落ちて彷徨いつづけるように。

 ほら、あなたもf植物園の巣穴を覗き込めば、思い出すでしょう? あまりに痛くて、大切すぎて、背負うことも直視することも捨てることもできなくて、ただひたすら封印して、意識の届かぬ闇の奥に仕舞い込んだあの記憶。それが、つまり、取り返しのつかぬ記憶で、記憶の中身をいかに巧みに封じても、取り返しがつかないというその感覚だけは骨身に深く染みこんで、漠とした不安となって、いつもそこに在る。そういう類の厄介な記憶、あなたにもあるでしょう?

 f 郷の「私」は、なんというか、内田百閒を想わせるような、頑是ない子供がいかめしい紳士の扮装をしているような、コモンセンスを重んじながら図らずも滲み出る稚気に微苦笑を誘われるような、自分にとって大切なものを説明するのに、あれでもないこれでもないと否定でしか語れないような、そんな「私」。取り返しのつかぬ記憶を封印したその瞬間から、実は、われ知らず成長を止めている「私」。

 時とともに姿かたちは大人になり、夫になり、父になるであろう「私」が本当の大人になるためには、いつか、とぐろを巻く異界の時間のなかに吹き溜まっている取り返しのつかない記憶を、取り返しに行かねばならない。どうやら、記憶のほうも取り返されるのを待ち続けているようで、「痛いのは心なのでしょう」と歯痛に苦しむ「私」に思わせぶりに話しかけたり、「おまえはまだそのような了見でいるのか」と怒ってみせたりもする。

 そういう取り返しのつかない記憶を「千代なるもの」と、郷の「私」は呼ぶのである。幼い「私」を守り育んでくれたねえやの千代。亡くなった妻の千代。停車場の近くのビルヂングのレストランの千代さんも、たぶん、千代なるもの。「千代なるもの」の吹き溜まりでは、月下香が匂ったり、前世の記憶が今生に入り交じったり、人間と畜生が境なく行き交ったり、辻褄が合わぬまま物事が滞りなく進んでいったり。やたらと犬の姿になる歯科医の家内もいれば、頭が雌鳥になる女家主もいる。ナマズ神主、稲荷の白キツネ、烏帽子をかぶって歩く鯉、青みどろの混沌の沼のカエル小僧……。

 このカエル小僧とともに「私」が潜ってゆく混沌の沼は、おそらく、「千代なるもの」の羊水であり、いのちの水なのだろう。「私」はこの沼の底で、取り返しのつかない記憶を取り戻す。生きるということの意味を掴み取って、生きるほうへと帰ってくる。もう大丈夫、再びうっかり取り返しのつかない記憶を作り出さないかぎりは。でもね、繰り返すのが人間だから……。

 そういうわけで、ようよう『f植物園の巣穴』から出てきた私は、人間は穴に落ちる生き物なのさ、わたしもあなたも誰も彼もみんないろんな穴のむじな、そう呟きながら、いまだにひりひり痛い私の身と心のどこかの穴に気を取られながら、山手線をあとにした。

 ね、あなた、記憶の巣穴にご用心。 

                        (週刊朝日 2009.7.31号)

『本は読めないものだから心配するな』

(管啓次郎著 左右社)

 

 実は書店で一目惚れ、ジャケ買いでした、この本。町に出たら書店に入らずにはいられない、入れば本を買わずにいられない、本は溜まるばかり、とても読みつくせない、そんな悪癖を持つ活字中毒者に小声で表紙が囁きかける。「本は読めないものだから心配するな」。心わしづかみ。

 なかを覗き込む。ほう、なんと自由な本の造りだろう。目次がない。四十編ほどの文章、その一編一編のタイトルは、どれもさりげなく各編最初の一文として本文中に織り込まれている。各編が三行の間隔を置いて次から次へと流れるようにつながってゆく。読むこと書くこと生きることを結び合わせ響き合わせながら、縦横無尽に語る言葉が川のように流れてゆく。そして、この川の流れがメインストリームならば、奇数頁の左上には、本文中の一節、川岸に跳ね上がった水しぶきのような言葉が置かれている。こんなふうに。

「本に『冊』という単位はない」「読むことと書くことと生きることはひとつ」「目的のない旅だけがもたらすことのできる、大きな認識の図柄がある」「言葉は、それを使うはじから、『言葉以外のもの』『言葉以前の自分』を、その場に呼び出してしまうのだ」「異質なもの、異邦のもの、違法なものに対するこの好奇心と魅惑と関心」「地点には記憶がある」「風が吹く、ゆえに、われあり」「本が読めない理由は三つある」「すべての壁が『らくがき』を求めている」「葉叢のざわめきからぼくらは鳥のように旅立ち、別の森を発見しつづける」「だったら、希望はどこにある?」「そこは楽しい、さびしい、危険だ、やさしい、騒がしい、しずかだ、汚れている、きれいだ」「旅の途上の個々の地点で、人は跳躍を試みる」「ヒトの滅びに先行して、文の滅びが待っている」「すべての文章は読まれたくてたまらない」

 川の流れのどこから飛び込んで読んでもいい。目に飛び込んだ水しぶきの言葉から言葉へと飛び移って、そのまま外に飛び出して、別の川の流れに飛び込んでしまってもいい。忘れられた地へ、未知へ、異郷へ、新世界へ。読んでいるその瞬間に響き合い、繋がり合い、混じり合っていくものがあるなら、そうして編み上げられて生きてゆくわれらであるならば、大丈夫、心配するな。著者の管啓次郎さん自身がそうやって読んで書いて生きてきたのである。管さん自身の「読む書く生きる」の写し絵のようにして、このすばらしく自由な造りの本は編まれたのだ。

 この一冊の本のなかに無数の本が潜んでいる。無数の言葉が響き合っている。文学、民俗学、人類学、写真、音楽、映像……、さらには地、水、火、風、触れるものすべてによって造形されゆくヒトの声がある。なによりも、この囁き。思いだせ、いかにしてヒトはヒトとなったのか、考えよ、いかにしてヒトはヒトとしてこの世界を生きのびてゆくのか。

 囁きに耳打たれて、ふっとこんなことを思う。ああ、この本はノアの方舟なんだな。そのイメージは、「やがて新たな大洪水が人間世界を滅ぼそうとするとき、われわれに最後の希望を与えるのは彼の文学」という、ル・クレジオをめぐる管さんの言葉に誘い出されたものでもある。

 いま世界は降りやむことのない雨のなか、やがて洪水にのまれて跡形もなく洗い流されることだろう。そしてわれらの時代のノアたちは方舟に本を積む。来たるべき世界を造形する思索を、人間を造形する言葉を、洪水の世を生きぬいてゆく「私」を造形する声を、生きる力を、生きるよろこびを舟に積む。

 本書は、管啓次郎というノアが方舟に積み込んだ「読む書く生きる」にまつわる有形無形必需品リストであり、ノアが大洪水に抗して読んで書いて歌って踊って思索して過ごす旅の日々の記録であり、遠い昔から遥かな未来まで、忘れられた人々から失われた知までを眺めやる長い視線の紀行の文なのである。

                        (週刊朝日 2010.2.5号)

『父を焼く 上野英信と筑豊』

 

 私は著者上野朱さんと二人、われらの「父」たちの思い出を語り合っている、そのうち、ふっと、先頃携帯にかかってきた間違い電話の話を上野さんにするのである。「メッセージが留守録されていたんです。全く聞き覚えのない声で『もしもし、父さんだ』とだけ言って切れちゃって。それが何だか気になってねぇ」

 間違い電話の話は本当、上野さんとの語らいは妄想。そんな妄想を誘うほどに見事な、「昭和の息子」上野朱の「父」をめぐるエッセイの語りに、身を乗り出して聞き入る「昭和の娘」たる私がいる。

 われら昭和に生まれ平成に生きる「昭和の子ども」にとって、昭和を生き抜いた「父」とは、ひどく厄介な存在だ。間違い電話の見知らぬ父のごとく、『もしもし、父さんだ』と言ったきり、真に大切なことほどたやすく言葉にしてたまるかとばかりに、男は黙ってサッポロビール、酒は涙か溜息か……、ええ、わかってますとも、昭和といえば、貧困、出郷、植民地、戦争、混乱、復興、高度経済成長へと突き進むなかでの思想と政治の激しい闘いの季節もあり……。われらの「父」は、そんな激動の昭和の真っ只中を生きて、それぞれの場所で必死に闘っていた。

 とりわけ、上野朱さんの父、記録作家上野英信は厄介な難物。上野英信といえば、「歌は唖にききやい 道ゃめくらにききやい 理屈ゃつんぼにききやい 丈夫なやちゃいいごっばっかい」(鹿児島俚謡)を座右の銘に、つまりは、語りえぬもの、見えぬもの、聞こえぬものを追い続けた人。坑夫たちとともに筑豊の地の底までも潜り、日本を地の底から支えた末に切り捨てられ地の果てまで追われていった名もなき者たちにとことん寄り添い、その声その生のありようをストイックなまでに記録しつつづけた、そんな父を息子はこう振り返る、「英信の目指したものは、難解な運動用語や思想用語を極力廃し、文字を持たないあるいは表現する言葉を持たない人々の中から沸き起こる泥臭い変革だったのである」

 誰もが差別されることなく生きられる世界を創るために書いて闘う革命家たることを選んだ父とともに生きる家族のありようもまた、なかなかに厳しく、つらい。同時に、泥臭さを手放さない革命家との暮らしは、実に人間くさい暮らしでもあった。革命家たる父は、どうやら家では玉座に君臨していたらしい、そんな微苦笑を誘う家族の情景もある。

 革命家もまた矛盾を生きるのである、父は聖人君子ではないのである、革命家も父も人間なのである。そして、息子が父の記憶を語るとき、それはそんな人間くさい革命家たる父と共に、夢を追いかけて生きた母の記憶を語ることにもなる。上野英信の息子は拾い子、という突拍子もない噂を楽しみつつ、息子がぽろり口にする言葉は、じんと胸に染み入る。

 「家柄や血筋や生まれをはじめとするいわれなき差別や、<いわれなき神>がもたらす<いわれなき死>を心底憎み続けたふた親と共に生きられたことだけで、たとえどの橋の下、どこのボタ山の麓で拾われていたとしても充分に私は満足なのだった」。

 母は、夫婦の夢の結晶でもある父の著作を、二十冊以上も父の棺に詰め、息子はその棺に釘を打ち、父は本とともに灰になった。やがて、息子は黙して語らぬ灰のなかから、一つ、また一つと、昭和の家族と彼らを取り巻く人々の語りつくせぬ記憶をすくいあげ、飲んで食って闘って泣いて笑って泥にまみれて生きた生身の人間たちの物語を語りはじめる。

 『父を焼く』。昭和が見た数多くの夢のうちでも、もっとも奥深いところ、地の底に宿った夢の記憶を語る声。われら昭和の子どもたちが受け継ぐべき、かけがえのない人間の記憶のありかを伝える静かな呟き。全編に漂う語り伝える者としての潔い覚悟に、私は同じ昭和の子どもとして深い敬意を抱くとともに、その覚悟を分かち合うべく心に刻んだ。       

(「週刊朝日」2010.11.26号 )

 

<声を聴こう>

 

 

 静かに語りかけてくる声がある。言葉よりも先にほとばしりでる声がある。心臓の鼓動や息遣いにかぎりなく近い声がある。沈黙という名の口ごもる声がある。

 本を読むとは、実のところ、その本に宿るひそかな声を聴くことでもある。

 『春の先の春へ 震災への鎮魂歌 古川日出男 宮澤賢治「春と修羅」をよむ』は、そのことを、深く、痛切に、想い起こさせる。

 そう、思い出してほしいのだ。2011311日のあの時、東日本、とりわけ東北は、命も世界もまるごと激しく揺さぶられ、地上を洗い流す大洪水に襲われた。巷では、すぐさま、スローガンめいた耳によく馴染むリズミカルで美しい言葉がやたらと鳴り響きだした。(たとえば、「がんばろう日本」とか「絆」とか「日本は強い国」とか……)。その言葉の断言する強さにかき消される無数の声があるということ、あるいは、その言葉の無闇に何もかもを束ねる力のかげで、こぼれおちる無数の声があるということ。そのことに私たちはすっかり鈍感になっていないか? いま、この時代に、本当に聴くべき声を宿した言葉はどこにある? 

 福島出身の作家古川日出男は、震災後二ヵ月ほど、ほとんどの本を読めなくなったという。わずかに見いだした聴くべき声のありかが、東北出身の宮澤賢治の詩だったという。とはいえ、それは、分かりやすく響くばかりに震災直後からやたらとあちこちでスローガン的に使われてしまった「雨ニモマケズ」のような詩ではない。賢治の数多い詩篇のなかから古川日出男がひもといたのは、愛する者が死にゆくのを前にして、突き上げてくる慟哭の声が理屈を圧倒する「永訣の朝」、「無声慟哭」、「青森挽歌」。歯噛みして千々に乱れて身悶える祈りの声が織り上げる「春と修羅」。声たちがふっと光が射すような明るい気配を漂わせる「報告」。

 さあ、じっと耳を澄ませて読んでみよう。文字の言葉には収まりきれない声たちの息遣いを感じてみよう。声たちの言葉にならぬ痛みや悲しみに想いを馳せてみよう。文字と文字の間を蠢く声たちに自分の声を重ね合わせみよう。声たちとともに一心に祈ってみよう。春の先の先へと向かって。つまりは、それこそが、「「春と修羅」をよむ」ことをとおして古川日出男がやってみせたことなのだ。

 ムーミンシリーズの作家トーベ・ヤンソンもまた、かつてこの世を襲った戦争という名の「大洪水」に言葉を失った。思い立って、一九三九年の冬に、彼女が風刺画を描くときにサインがわりに使っていた怒った顔をした生きものを主人公とする物語を書きだした。が、戦争のさなかには物語を語る声も思うようには出てこない。そういうわけで、一九四五年までほったらかしになっていたというムーミンシリーズの第一作が、『小さなトロールと大きな洪水』なのである。第一作では、目には見えないほど小さな生きものたちが恐ろしい森や沼や海を旅して、大洪水を生き延びて、光溢れるムーミン谷にたどり着く。ムーミン谷は新たなはじまりの地。小さき者たちに幸多かれ! そこには、そんなトーベ・ヤンソンの声がこだまする。ささやかだけどかけがえのない彼らの長い長い物語は、祈りの声とともにここからはじまる。

 私たちもまた、ムーミントロールのようにちっぽけだ。でも、私たちもまた、ムーミントロールのように、かけがえのない物語を生きている。あるいは、絵本『パトさん』の主人公パトさんのように。

 『パトさん』のなかで、パトさんの人生は、「ひるねする」「たべる」「のむ」「かく」「およぐ」「でかける」といった何の変哲もない言葉27個と、たった29枚の絵で描かれる。しかし、その絵と言葉の背後には、ひそかな声が渦巻いている。悲しみや痛みや喜びや情愛に満ちた、実に豊かな人生の物語を語りかけてくる静かな声がある。

 声を聴こう。ひそやかな声を。他者の声に耳を澄ます私たちは、たくさんの豊かな人生の物語をともに生きる私たちでもあるのだ。

                      (婦人之友 2013年2月号掲載)

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『春の先の春へ 震災への鎮魂歌 古川日出男 宮澤賢治「春と修羅」をよむ』左右社 

『小さなトロールと大きな洪水』(トーベ・ヤンソン著 冨原眞弓訳 講談社文庫)

 『パトさん』(えとぶん がんも大二 羽鳥書店) 

<言葉がうまれいずるところ>

 

 芸能とは、文学とは、言葉とは、いったいどこから生まれでてくるのだろうか? そんな根源的な問いを潜ませている本がある。人がいる。

 たとえば、昨年12月に世を去られた小沢昭一さん。その最後の著作『俳句で綴る 変哲半生記』(小沢昭一著 岩波書店)。この本には、小沢さんが1969年から40数年にわたって詠んだ約4千もの俳句が詰まっている。

 そもそも、小沢さんが俳句をはじめた40代の頃というのは、新劇俳優として芸能の世界に身を置きながら、おのれの「芸能者としての不適性」を問い、惑い、芸能のクロウト(玄人)を訪ね歩くようになった時期と重なる。(このあたりのことは小沢さんの『私のための芸能野史』に詳しい)。そして、小沢さん言うところの「クロウト」とは、日本の芸能史のなかで「河原乞食」と呼ばれてきた人々、志して俳優や表現者になることを選んだ者ではなく、「クロウトにならざるを得なかった人々」、つまりは、この世のはずれで命がけで芸を演じ日々の糧を得てきた者たち、それしか生きようのなかった者たちのことなのだ。

 芸の生まれいずるところ、この世のはずれの者たちに、深い敬意と愛情と憧れを抱いて芸の道を生きた小沢さんがいる。折々に飄々と詠んだ句にも、おのずとその生きざまが滲み出る。4千句の第一句は「スナックに煮凝のあるママの過去」、自慢の句は「寒月やさて行く末の丁と半」。私が心惹かれた句は「この道をもどる気はなく曼珠沙華」。会いたかったなぁ、この人に。曼珠沙華の一本道に立つ小沢さんを幻視しつつ、そう思う私がいる。

 この世のはずれ、言葉が生まれいずるところ。それをつくづくと実感させる場所のひとつに、ハンセン病療養所がある。社会から切り離され、肉親との絆も断ち切られ、人として生きることの意味をぎりぎりと問わざるを得ない場所から生まれる言葉には、時として普遍の力が宿る。

 たとえば、この句。「除夜の湯に肌触れ合へり生くるべし」。あるいは、この句。「石の如凍てても命ありにけり」。詠み手は草津の栗生楽泉園に生きる俳人村越化石さん。俳人大野林火を師として、60年以上にもわたり日々の命への問いを、生きることの意味を、いや、生きることそのものを詠みつづけてきた。その言葉のじんと身に染む味わい深さ。

 この人に会いたい。そう思い立ち、友人と連れ立って栗生楽泉園に化石さんを訪ねたのは今年の初春のこと。化石さんは大病をした直後で、病棟のベッドに横たわっていた。早くにハンセン病の後遺症で両眼の視力は失われている。齢九十。大病ですっかり体力が落ちて、なかなか声も言葉にならない。ところが、「句会をやりませんか」という俳句初心者の私の蛮勇の申し出に、「やろう、いますぐやろう」と化石さんはにわかに全身に力をみなぎらせて答えたのだ。存在自体が俳句そのもの、俳句の化身を取り囲むようにして句会が持たれたのはその翌日のことで、素人俳句をうんうんと頷きながら聞いたのちに化石さんも一句、「尊者の語わが身にさずかって年新た」。尊者とはあなたたちのことだ、と化石さんは言った。

 言葉が命に力を吹き込み、そうして力を得た命が、さらに命を力づける言葉を生む。あの句会の情景を想い起こし、『村越化石句集 団扇』(角川書店)を読む。「愛されよこの最小の蝸牛」「熟すまでいのち端座す柿一つ」。しみじみとつくづくと繰り返し読むのである。

 おそらく作家のドリアン助川さんも、ハンセン病療養所を訪ねて、言葉と命をめぐる骨身に染み入るような経験をされたのではなかろうか。それが『あん』(ポプラ社)と題された物語に結実したのではなかろうか。

どら焼き屋を営む青年と療養所に生きる年老いた女性との出会いと別れをとおして、生きることの意味を問いかけるこの物語の、この言葉を、私はぎりぎりと噛みしめた。

「私たちはこの世を観るために、聞くために生まれてきた。この世はただそれだけを望んでいた」。               (婦人之友 2013年5月号掲載)

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『俳句で綴る 変哲半生記』(小沢昭一著 岩波書店)

『村越化石句集 団扇』(角川書店)

 『あん』(ドリアン助川著 ポプラ社)