本日のテーマは、<異人と歓待と文学>
「歓待の行為は詩的なものでしかありえない」とデリダは言う。 しかし、詩的な想像力/創造力によってこそ、不可能な歓待を可能ならしめる世界は到来するのではないだろうか。 |
前回、八重山での折口の異人発見の話をする前に、ホメロスが叙事詩「オデュッセイア」に書き込んだ「歓待」について触れました。
今日もまた、本題に入る前に、あらためてジャック・デリダの『歓待について』にほんの少しだけ触れようと思います。
デリダは「歓待」を語るとき、はるか古代ギリシャ世界(ソクラテス、オイディプス、アンティゴネ等々……)から出発します。そこからイメージをつかみ、問いを立ててきます。
デリダは問います。なによりもまず最初に、
「異邦人とは誰か?」と。
デリダはさらに問う。
歓待とは、到来者を問いただすことなのでしょうか?
歓待は、来る者に問いを差し向けることからはじまるのでしょうか?
それとも歓待とは、問いなき迎え入れから始まるものなのでしょうか?
遠いギリシャ世界を出発点にするこの問いは、もちろん現代フランスの移民・難民・亡命者をめぐる現実と切り結んでいます。
かれら現代の異邦人/まれびとに対する「歓待」は、フランスの法によって条件づけられている。その条件付けはますます厳しくなり、その結果として「不法移民」が大量生産される現実を呼び出している。
そもそも、さかのぼれば、フランスでは、史上初の民主的憲法案と言われる一七九三年の憲法で「自由という大義ゆえに祖国を追われた外国人に庇護を与える」ということが明文化されたといます。(『歓待について』あとがき 訳者廣瀬浩司 による)。
そして、こうして「歓待」が近代の法や「人権」に書き込まれたとき、同時にそれは初めて「歓待」が無条件なものではなく、近代国家の法により一定の条件付けの下にある権利として位置づけられたのだとも言えるでしょう。
つまり、近代世界において、「異邦人/異人」は、法に書き込まれると同時に、国家によって生存を条件づけられる存在となる。
無条件に「我が家/私的空間」を訪れた客人/異邦人/異人を守るという「歓待」の掟は、近代国家の登場によって、その法によって、絶対性を失うわけです。
デリダは、また、カントの「永遠平和のために」(1795)を参照し、カントが「歓待」とは国家(公的空間)が異邦人に対して一定の条件のもとに保障する「法/権利」として規定したということを語ります。
そして、それはいま、携帯電話・メール・インターネットがはりめぐらされ、私的空間と公的空間が幾重にも重なりあい、互いに入り込み、境界も定かではない現代社会において、国家はどこまで私的空間における「歓待」に介入するのか、という困難な問いをも呼び出します。
『歓待について』において、デリダが立てているきわめて古典的でありつつ、同時にきわめて現代的な問いを、あらためて書き写してみます。
「絶対的で誇張的で無条件な歓待とは、言葉を停止すること、ある限定された言葉を、さらには他者への呼びかけを停止することにあるのではないか。つまり他者にたいして、あなたは誰だ、名前は何だ、どこから来たのだ、などと尋ねたいという誘惑は抑えなければならないのではないか。さまざまな必要条件を通告するような問いを問うことは控えなければならないのではないか。さもないと歓待には限定が加えられ、権利と義務に縛り付けられ、そこに閉じ込められてしまうのではないだろうか。こうして歓待は、円環の経済=配分法則に閉じ込められてしまうのではないか。」
こう問うたうえで、デリダは「歓待」をめぐる状況を以下のように整理する。
「一方には、歓待の無条件な掟や歓待の絶対的な欲望、そして、他方には、条件付きの権利・政治・倫理があるとします。これら二つの間には区別や根本的な異質性がありますが、それらは不可分でもあります。一方は他方を呼び求め、含み、命令として課すのです。」
そうしてデリダが語っているのは、ざっくりといえば、「歓待」の(不)可能性です。
無条件の「歓待」は不可能である、がゆえに、そこに可能性が開けているのだという、そういう意味での(不)可能性。
これ、分かりにくいですね。
まず、現実問題として、無条件の絶対的な「歓待」は不可能である。それは明らかである。
だが、無条件の、絶対的な「歓待」という普遍的な大前提(掟)があるからこそ、近代国家は異邦人に与えられるべき条件付きの権利としての「歓待」を法に書き込む。
そして、現実世界における「歓待」の条件をめぐる思考――思想において、文学において、政治において――は、果てしなく無条件の「歓待」へと迫っていく。
ここで、最初に掲げた言葉へと、われらの思考は戻っていきます。
「歓待の行為は詩的なものでしかありえない」とデリダは言う。
しかし、詩的な想像力/創造力によってこそ、不可能な歓待を可能ならしめる世界は到来するのではないだろうか。
と、ここまで、俯瞰したうえで、ようやく、折口の「異人」と近代へと、本日の本題へと、われらは向かうことになります。
1923年9月1日、北九州 門司港。
折口信夫は「異人/まれびと」の原初のイメージを八重山でつかんで戻ってくる、
その日、関東では大震災が起きていた。
9月3日夜、横浜上陸、そして4日正午から東京・谷中清水町の自宅をめざして歩きはじめる。途中、折口は朝鮮人狩りをしていた自警団に取り囲まれる。これは折口に大きな衝撃を与えた。
自歌自註「東京詠物集」(1956)に折口はそのときの経験をこう書いています。
国びとの 心さぶる世に値ひしより、顔よき子らも、頼まずなりぬ
大正12年の地震の時、9月4日の夕方ここ(増上寺山門)を通つて、私は下谷・根津の方へむかつた。自警団と称する団体の人々が、刀を抜きそばめて私をとり囲んだ。その表情を忘れない。戦争の時にも思ひ出した。戦争の後にも思ひ出した。平らかな生を楽しむ国びとだと思つてゐたが、一旦事があると、あんなにすさみ切つてしまふ。あの時代に値つて以来といふものは、此国の、わが心ひく優れた顔の女子達を見ても、心をゆるして思ふやうな事が出来なくなつてしまつた。
そのとき折口は何を目撃し、何を思ったのか、
砂けぶり (二) 折口信夫
焼け原に 芽を出した
ごふつくばりの力芝(チカラシバ)め
だが きさまが憎めない
たつた 一かたまりの 青々した草だもの
両国の上で、水の色を見よう。
せめてもの やすらひに─。
身にしむ水の色だ。
死骸よ。この間、浮き出さずに居れ
水死の女の 印象
黒くちゞかんだ 藤の葉
よごれ朽(クサ)つて 静かな髪の毛
─あゝ そこにも こゝにも
横浜からあるいて 来ました。
疲れきつたからだです─。
そんなに おどろかさないでください。
朝鮮人になつちまひたい 気がします
深川だ。
あゝ まつさをな空だ─。
野菜でも作らう。
この青天井のするどさ。
夜になつた─。
また 蝋燭と流言の夜だ。
まつくらな町で 金棒ひいて
夜警に出掛けようか
井戸のなかへ
毒を入れてまはると言ふ人々─。
われわれを叱つて下さる
神々のつかはしめ だらう
かはゆい子どもが─
大道で しばつて居たつけ─。
あの音─。
帰順民のむくろの─。
命をもつて 目賭した
一瞬の芸術
苦痛に陶酔した
涅槃の 大恐怖
おん身らは 誰をころしたと思ふ。
かの尊い 御名(ミナ)において─。
おそろしい呪文だ。
万歳 ばんざあい
我らの死は、
涅槃を無視する─。
擾乱の 歓喜と
飽満する 痛苦と
振り返れば、
折口が八重山で見いだした「異人/まれびと」とは、「歓待」されるべき存在であり、芸能・文学をもたらす存在でありました。
一方、折口が戻ってきた近代都市東京において、近代の「異人/まれびと」たちはいかなる経験をしていたのでしょうか?
そもそも、近代日本において、「異人/まれびと」とは、いったい何者だったのでしょうか?
まずはこう言うことができるでしょう。
異人とは、標準日本語を話さない者である。
私はかつて十六年前に『暴力の予感』(冨山一郎 岩波書店 2002)を読み、標準語をめぐる沖縄の小学校の教師の次のような言葉に出会って震撼しました。
「大震災の時、標準語がしゃべれなかったばっかりに、多くの朝鮮人が殺された。君達も間違われて殺されないように」
「十五円五十銭」をきちんと「じゅうごえん ごじゅっせん」と発音できるかどうかの日本語試験で、朝鮮人があぶりだされたのだという話は伝え聞いて知っていました。
朝鮮語の発音には、日本語の清音濁音というような音の区別はなく、語頭が濁ることはありませんから、「十五円五十銭」は「ちゅうごえん こっちゅっせん」(そもそもひらがななんかでは再現不可能な音)となるでしょう。しかし、なんとも酷い日本語試験ではないですか。
そのとき怪しまれた者たちは、誰もが「自分は朝鮮人/異人ではない」と命がけで訴え、命がけで日本語試験を受けなければならなかった。
そこには命がけの言葉としての標準日本語がある、
殺されない、生き延びるためのものとしてのギリギリの言葉としての日本語がある、
殺された者の傍らに怯えつつ立つ者の言葉としての日本語がある。
それは死体の傍らの言葉です。死臭漂う言葉です。
私は十六年ぶりに『暴力の予感』を再読して、近代日本語の鼻をつく死臭にますます震撼しました。
そして、こう問わざるをえなかった。
この死臭漂う言葉で、近代日本文学は形作られてきたのか?
この死臭に抗する言葉を立ち上げようと身悶えをする者たちは、近代日本のどこにいたのか?
関東大震災の折、他の沖縄出身者と同様、のちに沖縄学の研究者となる比嘉春潮もまた、日本語試験を受けています。
「朝鮮人だろう」(自警団)
「ちがう」(比嘉)
「ことばが少しちがうぞ」(自警団)
「それはあたりまえだ。僕は沖縄の者だから君たちの東京弁とは違うはずじゃないか」(比嘉)
「何をいっているんだ。日清日露のたかいで手柄を立てた沖縄人と朝鮮人をいっしょにするとはなにごとだ」(有名な海軍軍医大佐を兄に持つ友人)
この比嘉春潮の「私は朝鮮人ではない」という主張が、「私は日本人である」という主張と同義であるとすれば、『暴力の予感』で冨山一郎が言うように、比嘉春潮は朝鮮人を殺す側に立つ者として、「ならば殺してみろ」という自警団の沈黙の声を聴いてもいたのでしょう。
ここで、いまいいちど問います。
近代日本において、「異人/まれびと」とは、いったい何者だったのでしょうか?
「おまえは異人か? / おまえは皇国臣民か?」と問われ、
「私は異人ではない」と言わせられる者たちがいました、実にたくさんいました、
「おまえは異人か?」と問う者のほかは、すべてが異人である、
と言ってもよいかもしれません。
近代日本においては、想像以上に多くの者たちが「怯える異人」として生きてきたのかもしれません。
「おまえは異人か?」と問われたなら、
殺されることを恐れる私は、「私は異人ではない」と主張する私になることでしょう。
美しい「日の丸」を汚す「シミ」(by 谺雄二 ハンセン病を生き抜いた詩人)と呼ばれて処分されることを恐れて、「シミ」ではないと命がけで訴える私になることでしょう。
私は朝鮮人ではない、
私は支那人ではない、
私は琉球人ではない、
私は癩者ではない、
私は部落ではない、
私は水俣病ではない、
私はLGBTではない、
私はあなたと同じだ、あなたとなにもかも同じだ、同じだ、同じだ……、
私はどこまでもそう言いつのるほかはない異人になることでしょう。
そう言いつのる私は、もし自分が異人でないとしたら、異人を殺す側にまわらねばならないかもしれないことに怯える私でもあることでしょう。
殺し、殺されるかもしれない「暴力の予感」(ⓒ冨山一郎)を生きる私であることでしょう。
ここにあるのは、まったく不可能な条件を付けられた「歓待」の光景です。
その状態は、思うに、『胸騒ぎの鴎外』において西成彦が言うところの、近代以前の説経の主人公たちが置かれる「死体化」(=死の予感を生きる状態)にほかならないのではないか?
それは前期演習でも取り上げたように、森鴎外が説経「山椒太夫」を下敷きに「山椒大夫」を書くにあたり、徹底的に排除したものです。
そのことに思い到るならば、近代日本文学をめぐる先の問い、
この死臭漂う言葉で、近代日本文学は形作られてきたのか?
この死臭に抗する言葉を立ち上げようと身悶えをする者たちは、近代日本のどこにいるのか?
この問いには、このように答えるほかはないのではないのでしょうか。
そのとおり、死臭漂う近代日本語で、近代日本文学は形作られてきた。
近代社会が新たに呼び出した「死体化」の領域を美しく隠蔽しつつ。
だからこそ、同時に、
折口信夫が語るように、確かに異人こそが新たな芸能・文学のはじまりに立つ者なのだ、とも言えるのではないか。
近代日本における「異人」、
(それは関東大震災の朝鮮人虐殺をとおしてくっきりと浮かび上がってきた)
近代日本語の暴力に激しくさらされ、「死体化」を生きる者としての「異人」たち、
そのような異人こそが、生きるための言葉を見いだし、生きるための文学を立ち上げてゆくのではないか。
私は異人である。
みずからそう名乗り、近代に抗う声によって、近代を生きなおす文学は生まれくるのではないでしょうか。
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