人が去り、放置された山野には、猿、鹿、熊が生きる。
そこは、あらたなはじまりの荒野たりうるのだろうか?
後期演習ガイダンスとして。
「近代」を超えゆく「声」と「語り」の文学、
それをテーマとするわれらの出発地点は、
栃木県日光市足尾町
「松木沢」
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この話をする今日は、2018年9月21日で、
その2日前の9月19日には韓国の文在寅大統領が平壌で平壌市民の前に演説し、
南北朝鮮の間での事実上の戦争終結を宣言、
昨日、9月20日には日本では自民党総裁選で安倍三選が決まり、
韓国軍事政権時代の維新体制(独裁体制)への流れが何事もなく進んでいく。
歴史がひっくり返ってゆく風景を目の当たりに見るようでまことに感慨深い。
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ここは、渡良瀬川の源流、足尾銅山の煙害と山の乱伐で滅びた松木村跡である。
ここは、もうひとつの「明治150年」のはじまりの地である。
私たちは、ここに、石牟礼文学の、遠くて近いはじまりを見る。
1902年(明治35)、音もなく明治近代の論理がひとつの村をこの世から消す、
それは、人間もその一部に過ぎない「万事万物の霊」(by 田中正造)が天地をめぐる水の恵みを受けて共に生きる「世」の滅びのはじまりを告げる出来事だった。
なぜならば、緑豊かな山こそが「水」の親であり、
「水」こそがすべての命の源であり、
山が死ねば、川も死ぬのだから。
川が死に、この世をめぐる水の脈が断ち切られれば、
水の恵みも消えて、
川はただ近代の「毒」を運んで広げる乱暴な水の路となるのだから。
1917年、渡良瀬川下流の谷中村が、この地で「毒」を堰き止めるという名目で、ついに完全に消される。
それまでの間も、渡良瀬川下流では、あっという間に土地が死に、無数の小さな命ー鳥獣虫魚草木ーが死んでいったのである。
そして、人びとは死にゆく命を見ながらも、目の前から消えた命のことを次々と忘れていったのである。
それは、ついには、「水めぐる世」「水に生かされる命」を忘れゆくということでもあった。
近代による最初の「水」殺し、滅びゆく「水の世」。
その忘却の際で、1897年、渡良瀬川下流、栃木県足利郡 吾妻 下羽田の農民庭田源八翁があげた忘却に抗する悲痛な「声」、ひとつ。
『鉱毒地鳥獣虫魚被害実記』。
これが『鉱毒地人間被害実記』ではなかったことの深い意味を想う。
そして、足尾鉱毒事件の不義・理不尽を権力に訴え、あるべき「水の世」を求めて渡良瀬川流域をひたすら歩いて、命を賭けて闘いつづけた義人・田中正造が、その闘いの途上で倒れ、この鳥獣虫魚の命を語る農民の家で息を引き取ったことの深い意味を想う。
彼らのかすかな声は、滅びのなかでも消えることなく、近代の地の底の目には見えぬ水脈となって流れつづけて、
やがて、水俣の渚に生まれ落ちたひとつの命が、遥かな彼らに応えるようにしてかすかな声をあげる。
石牟礼道子。
近代の初めにあっけなく目前から消された「水の世」を、近代の成れの果てのこの時代に、近代の惨禍を潜り抜けて再生する「もうひとつのこの世」として呼びだす。それが石牟礼道子の「声」だった。
石牟礼道子は『苦海浄土』 第六章とんとん村 にこう書いている。
「すこしもこなれない日本資本主義とやらをなんとなくのみくだす。わが下層細民たちの、心の底にある唄をのみくだす。それから、故郷を。
それはごつごつ咽喉にひっかかる。それから、足尾鉱毒事件について調べだす。谷中村農民のひとり、ひとりの最期について思いをめぐらせる。それらをいっしょくたにして更に丸ごとのみこみ、それから……。
茫々として、わたくし自身が年月と化す。」
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<松木沢探訪のために その1>
足尾・松木沢のはげ山と谷中の荒野はともに約3000ヘクタールという広大な面積を持つ。その二つが渡良瀬川によって結ばれている。
いまいちど言います。
日本近代は、山~海~天をめぐって流れて地を潤し、生きとし生けるすべての命に恵みをもたらす「水」の道を断つところからはじまりました。
それこそが、日本近代の「富国強兵」「殖産興業」の出発点でもあります。
「富国強兵」「殖産興業」。日本近代のスローガン。
そこには、権力も富も持たず、風土の恵みによって生きてきた民の姿はあったでしょうか?
そこには、風土の小さき神々の姿はあったでしょうか?
以下、足尾鉱毒事件のはじまりの光景です。ざっくりと、分かりやすく。
明治10(1877)年、西南戦争の年に、古河鉱業による足尾銅山の採掘ははじまる。
明治12年には既に渡良瀬川流域の足利郡吾妻村の村会にて、足尾鉱毒の被害が明確に語られ、栃木県知事に上申書を提出されている。
それは、『田中正造』(岩波新書 由井正臣)によれば、
「このまま放っておけば渡良瀬川沿岸の村落はまもなく「荒蕪の一原野となり村民ことごとく離散せん」と予見するとともに「一個人営業のため社会公益を害する者につき、その筋へ稟請の上、該製銅所採掘を停止し、渡良瀬川沿岸村民の農業を増進」するよう希望する」というものでした。
一方、前述したように、渡良瀬川上流の山々も死にはじめていました。
しかし、農商務大臣陸奥宗光の息子が足尾銅山経営者の古川市兵衛の養子であることに示されているように、政ー官ー財の癒着は深く、
明治24(1890)年、田中正造の議会における質問に対して、政府は足尾鉱毒を否定する立場を取っています。
同時に、明治25(1891)年、栃木県知事主導の示談工作により、栃木・群馬二県 関係町村43か町村を対象に、最初の示談契約。
古川市兵衛が「仲裁人の取扱に任せ徳義上示談金」の一定額を支払うのと引きかえに、被害者は「明治二十九年六月三十日迄は粉鉱採集器実効試験中の期限とし、契約人民は、何等の苦情を唱うるを得ざるは勿論、その他行政及び司法の処分を乞うが如き事は一切為さざるべし」とするものでした。(岩波新書『田中正造』より)
さらに、明治28年、鉱毒被害がますます目にも明らかになってきたために、上記示談契約の期限が切れる前に、被害民の口封じを本質とする「永久示談契約」が結ばれます。
(これ、水俣病の時にも似たようなことが繰り返されていましたね。操業をつづけるための、責任を回避するための、見せかけの解決としての、示談。)
この調子で、資本と権力のタッグチームは渡良瀬川流域の風土を破壊し、農民・漁民の暮しの礎を破壊しながら、おいしい銅山経営をつづけます。
なんとも欲深い近代の悲惨なはじまりの風景。
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参考資料
<渡良瀬川下流 滅びた谷中村に残された墓標>
<藤岡市 田中霊祠>
「正造の本葬後、谷中村も埋葬地のひとつに決まり、12月14日に旧谷中村高沙の嶋田熊吉邸に田中霊祠が建てられた。1917年、残留民6戸が渡良瀬川改修工事の土捨て場に移った際に、霊祠も奉遷された。1957年には拝殿が完成、同年末には宗教法人として認可された。正造の分骨を祀った唯一の神社である。」(田中正造大学webページより)
佐野、藤岡、館林……、田中正造を語り伝える人びとの、正造への想いの強さに驚かされた。
明治神宮、靖国神社、護国神社、数多の軍神、忠魂碑……と、国家と関わり深い者ばかりが神に祀りあげられた近代において、もっとも低きところから、民のために国家に抗ったひとりの男が、民によって祀られたという事実の重さ、強さ。
ここにいるのは空虚な神ではない。
松木沢は明治の初めに荒廃して以来、昭和の末頃まで、西部劇の舞台にでもなりそうな赤茶けた山々、荒野が広がっていました。
かつては栃木県上都賀郡松木村、農業、養蚕業が盛んな水と緑の豊かな村だった。
この村は、1989年(明治22年)4月1日、山中に輝く近代的な鉱山町、足尾町に統合され、ついで、1902年(明治35年)、人住まぬ荒野として、地図上からも、この世から消された。それが足尾銅山創業から25年後のことです。
そもそも、1877年より、電気・機械を用いた近代的経営による銅山とした操業開始した足尾銅山は、大量の坑木調達のために周囲の山々の木を乱伐します。さらに銅精錬の際の亜硫酸ガスによる酸性雨で山の木々が立ち枯れていった。松木村を囲む豊饒なる山々は、あっという間に赤茶けた死の山へと変じていった。
そして、1888年、
山火事のため、松木村とその周囲の村は灰燼に帰す。山火事の被害を大きくした原因の一つに、山を覆う立ち枯れた木々があったとも言われています。大火で禿山となった山はとうとう蘇らず、その原因が鉱毒であることを暗黙の裡に認める足尾銅山側から松木村は補償金4万円を受け取り、補償に応じなかった一軒を除いて、村民は千年以上続いていた村を捨てて出て行ったといいます。それが1902年のこと。
つまり、風土に育まれて形作られてきた千年以上にわたる人々の暮らしが、近代の始まりと共に、ほんの30年あまりで破壊しつくされたわけです。
松木村と同じようにその近隣の久蔵(くぞう)村、仁田元(にたもと)村も滅びました。
人が去り、放置された山野には、猿、鹿、熊が生きる。
そこは、あらたなはじまりの荒野たりうるのだろうか?
2018年9月13日 松木沢を訪れた私たち一行を出迎えたのは、野生の狐でした。
狐に想うは、
その昔、窒素の工場が山を崩し、海が水銀に毒されはじめた水俣から、狐が次々と船に乗って対岸の天草に逃げていったという伝承。
人間が狐に化かされなくなったのは、近代の極み、原子力発電所が東海村で着工された頃だという話。
今は人棲まぬ野となった福島の立入禁止区域にも姿を現しているかもしれない彼らの眷属のこと。
足尾~水俣~福島を結んで流れてゆく、近代の闇の水路の音に耳を澄ませる。
水俣のなかには、植民地という闇も潜んでいる。
これは良瀬川源流の碑。背後に広がる松木沢。見てのとおり、沢の両脇の山々はほぼ丸裸の山。
山には、「治山と砂防で足尾に緑を」というスローガンのボードがある。
川辺には渡良瀬川源流の水神が祀られている。
松木沢入口のボードには、煙害と木の乱伐の末の丸裸の山の写真。
赤茶けた禿山状態が明治の世から昭和まで続いていたことに驚かされます。
銅の精錬時に排出される亜硫酸ガスを技術的問題でずっとそのまま放出していたのだといいます。
この案内図にある松木渓谷へと川沿いに入っていきます。
川を右手に見つつ、松木沢をめざして、旧松木村一帯を歩いてゆく。
渇水期の冬の河原は、まるで賽の河原のようだ。
銅鉱石から銅を選別した後のカラミ(鉄分を多く含む残りかす)を捨てたズリ山。
鉄製の網や、木の塀がズリ山の下には置かれているが、
この柔らかい砂丘のような山が雪崩のように崩れ落ちてきたならば、
なんの役に立ちそうもない。
見わたすかぎり、ズリの山。
この黒い山は柔らかい山。砂丘を歩くように靴がめりめりめりこむ。
道の途中、左手に3つの塚が見えた。
これは江戸期の念仏供養塔のよう。
松木沢に向かって左手、山の方に向かって、山の神らしき祠がある。
あんなふうにずたずたにされた山に、まだ神はいるのだろうか。
それともまた新たな山の神、野の神、水の神が生まれくるのだろうか。
この祠は文化年間(1804年から1818年)のもの。
来た道を振り返る。
この道には鹿の足跡があった。
川向うの山からは鹿の、キュー、キューという鳴き声。
姿は見えない。
松木村。
江戸後期の記録では37戸170人の村人。
小麦、豆をはじめとする肥沃な共同の畑。養蚕。
銅山に使用する木の乱伐、亜硫酸ガスによる煙害による木の枯死。
そのうえ、山火事までもが重なり、山は禿山となり、土砂は流出。
硬い岩盤だけの無惨な死骸のような山となる。
村人は当時のお金で4万円を受け取って、村を去ってゆく。
そして、村は銅山のゴミ捨て場となる。
NPO法人 森びとプロジェクト委員会により、植林された木々。
村のはずれ。墓石が集められている。
このほか、多くの無縁仏の墓石は、松木沢の手前の竜蔵寺に集められて祀られている。
かつての村はずれ。
左手の山の頂上部分は岩が壁のようにそそり立つジャンダルム。
フリークライミングの名所らしい。
この川のずっと向う、ひと山越えれば、日光。
無縁の墓石で造られた廃村松木村無縁塔。
渡り坑夫の墓。
ある日、竜蔵寺を遠方より先祖の供養をしたいという篤信の方が訪ねてきた際に調べたという。
そのとき開いた明治23年5月中の過去帳には、
「葬式が30回以上もあるが、古くからの檀家のものは一軒もなく、いずれも他国から足尾銅山に流れてきた鉱夫の関係者ばかりで、幼児以下は15人おり、それも死体分娩、乳児がほとんどある。今から百年以上前の発展途上の足尾銅山ゴールドラッシュ時代のことなので無理からぬ事情であろう。
さて、5月の鉱夫たち自身の死亡は16人おり年齢をみると19歳1人、20歳代8人(23歳1人、24歳5人、26歳1人、27歳1人)、残り7人中4人が生年不詳となっているが、おそらく20歳代であったであろう。いずれも、坑内で働いた手掘り坑夫や支柱夫たちであろう。」
あらためて、最後にもう一度。
足尾鉱毒事件、
渡良瀬川下流の谷中村滅亡の前に、
渡良瀬川上流の山の死があったこと、
山村の民の離散があったこと、
さらには、ヤマ(銅山)という地の底の無数の死があったこと、
これを忘れてはならないだろう。
山と平地を結ぶ命の水脈を断つところから、
そして水脈を死の水にかえるところから、
日本の近代は始まったのだということを、
けっして忘れてはならないだろう。
★さて、『鉱毒地鳥獣虫魚被害実記』を、庭田源八翁が家の縁側に立って、声に出して読みあげたように、祭文語り八太夫が庭田源八翁をその身に降ろして、声を発して読むことで、後期第一回ガイダンスの締めくくりとすると同時に、声と語りを通して再考/再興する近代日本文学のもうひとつの出発とします。
『鉱毒地鳥獣虫魚被害実記』のテキストはこちら。
http://yakuyoukonchu.blog115.fc2.com/category21-2.html
<参考資料>
河出書房新社 世界文学全集 石牟礼道子作品収録に際して。
編者 池澤夏樹(作家)の言葉。(『現代詩手帖』2018年4月号より)
★2000年代の世界文学全集の方針とは?
「まるっきり新しいことをやって、それを世界文学全集と名づけてしまおうと思った。古典は捨てる。トルストイもディケンズも入れない。もっぱら二十世紀の半ば以降、戦争が終わった後の文学を入れる。つまり、今の時代、植民地が解放されて、冷戦になって、9・11があって、体制が壊れるまでの間を文学はどう書いてきたか? そういう方針を立てた」
★なぜ、世界文学全集に日本人作家を収録したのか?
「ぼくがつくったのは、「世界文学」全集なんですよ。国をとっぱらって、言語の制約もないところで選ぶ。その基準で考えていくと、世界文学全集にも日本の作品が入るべきである。じゃあ、誰を入れるのか。大江健三郎、中上健次、村上春樹。立派な作家ですよ、立派な作品だし。だけど、これらの作品を入れたところで、世界文学全集に日本人を入れましたよ、というアリバイにしかならない。それだって、文庫で買えばいい。
そうではなくて、本当にこれを選んだら日本の作家として世界文学のレベルに達していて、いいと思うものを入れたいと考えて、『苦海浄土」を思い出した。
★それがなぜ石牟礼道子なのか?
「ぼくが言いたいことは簡単です。この人を読め、と。なぜなら、戦後の日本文学シーンにおいて、石牟礼道子は必須であるから。彼女を除いて戦後の日本文学は成り立たない。」
(「石牟礼さんの作品は、日本の近代文学の作家の誰にも似ていない」伊藤比呂美)
「それが世界文学ですよね」
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